えっ?今どきお殿様!? そう!世が世であればお殿様と呼ばれたかもしれない亘理伊達家の直系20代目当主で、伊達市噴火湾文化研究所の学芸員・伊達元成氏から伊達市誕生の秘話を聴いた。
連続受講している「かでる講座」の10月講座が、10月9日(金)午後、かでる2・7で開催された。
第7回目の今回は「伊達市を作った人々 ~亘理伊達家中とはなに者か?~」と題して、伊達市噴火湾文化研究所の伊達元成学芸員が講師を務めた。

亘理伊達家は、仙台藩伊達正宗の重臣であった伊達成実が亘理の地に亘理城を築き、初代当主となったのが始まりとされる。
その後、仙台藩は戊辰戦争において薩長軍と相対し、朝敵となってしまった。そのため亘理の地を没収されることになってしまった。そのため15代当主伊達邦成は新天地を求め北海道に渡ることにしたのが伊達市の始まりとされる。
その邦成から5代継いで第20代当主となったのが講師の伊達元成氏である。気付いた方がいるかもしれないが、亘理伊達家では直系子孫は全て「成」という字を用いているという。
さて、北海道開拓にあたった多くの旧士族の中で、亘理伊達家の場合は最も成功した例と言われているそうだ。それは当主の邦成が優秀なうえ、家臣に慕われる存在だったことと、邦成に仕えた家臣の田村顕允の存在が大きかったようだ。
そうした邦成と顕允は、移住にあたって次のような方針を立てたそうだ。
(1) 移住計画を実行し、北海道開拓を成功させ、朝敵の汚名を返上する。
(2) 政府の北海道開拓の方針が北方警備が理由であれば、帯刀が許されるはずである。
(3) 武士としての活路を見いだせる。

そして亘理伊達家は明治3年に第一期移住を行った。その際、邦成は以下のようなことを取り決め移住の準備をしたそうだ。
(1) 移住人員は男女250人と定め、戸数は60戸を標準とする。
(2) 単身移住を許さず、戸主は夫婦連帯とする。
(3) 人員のうち、木挽き、桶屋、鍛冶屋および漁師を引き連れること。
(4) 士族は身分を一級進め、卒は士に進めて奨励すること。
(5) 半年分の米を準備すること。
などを指示したそうだが、これが効果的だったという。特に単身移住を許さなかったことは移住を成功させた鍵だったという。
そして亘理伊達家は先住民族アイヌとの関係でも良い関係を築いたようだ。今に遺された「第1回移住の図」には、移住者の上陸を手伝うアイヌの人たちの姿が描かれている。
伊達市開拓の歴史の中で特筆されるのは、北海道の地に適した甜菜(ビート)を栽培し、明治13年に製糖所を設立し、明治20年には紋龞(もんべつ)製糖会社を設立したことだろう。

このようにして、亘理伊達家は現在の伊達の地において北海道開拓に成功したのだった。
明治18年には士族として復籍を果たし、西南戦争にも政府軍として参戦し、家臣たちはさらに札幌・琴似地区に再移住する人たちも出てきたという。
その裏では、当主の亘理伊達家は移住を成功させるために家宝を売却したり、借財をするなどして経済を支えたという。
その借財を完全返済したのはごく最近だったと講師の伊達元成氏は明かした。
世が世であれば、元成氏は殿様と呼ばれる存在だったのかもしれない。そんな雰囲気をどこかに感じさせてくれるような伊達元成氏だった。
連続受講している「かでる講座」の10月講座が、10月9日(金)午後、かでる2・7で開催された。
第7回目の今回は「伊達市を作った人々 ~亘理伊達家中とはなに者か?~」と題して、伊達市噴火湾文化研究所の伊達元成学芸員が講師を務めた。

亘理伊達家は、仙台藩伊達正宗の重臣であった伊達成実が亘理の地に亘理城を築き、初代当主となったのが始まりとされる。
その後、仙台藩は戊辰戦争において薩長軍と相対し、朝敵となってしまった。そのため亘理の地を没収されることになってしまった。そのため15代当主伊達邦成は新天地を求め北海道に渡ることにしたのが伊達市の始まりとされる。
その邦成から5代継いで第20代当主となったのが講師の伊達元成氏である。気付いた方がいるかもしれないが、亘理伊達家では直系子孫は全て「成」という字を用いているという。
さて、北海道開拓にあたった多くの旧士族の中で、亘理伊達家の場合は最も成功した例と言われているそうだ。それは当主の邦成が優秀なうえ、家臣に慕われる存在だったことと、邦成に仕えた家臣の田村顕允の存在が大きかったようだ。
そうした邦成と顕允は、移住にあたって次のような方針を立てたそうだ。
(1) 移住計画を実行し、北海道開拓を成功させ、朝敵の汚名を返上する。
(2) 政府の北海道開拓の方針が北方警備が理由であれば、帯刀が許されるはずである。
(3) 武士としての活路を見いだせる。

そして亘理伊達家は明治3年に第一期移住を行った。その際、邦成は以下のようなことを取り決め移住の準備をしたそうだ。
(1) 移住人員は男女250人と定め、戸数は60戸を標準とする。
(2) 単身移住を許さず、戸主は夫婦連帯とする。
(3) 人員のうち、木挽き、桶屋、鍛冶屋および漁師を引き連れること。
(4) 士族は身分を一級進め、卒は士に進めて奨励すること。
(5) 半年分の米を準備すること。
などを指示したそうだが、これが効果的だったという。特に単身移住を許さなかったことは移住を成功させた鍵だったという。
そして亘理伊達家は先住民族アイヌとの関係でも良い関係を築いたようだ。今に遺された「第1回移住の図」には、移住者の上陸を手伝うアイヌの人たちの姿が描かれている。
伊達市開拓の歴史の中で特筆されるのは、北海道の地に適した甜菜(ビート)を栽培し、明治13年に製糖所を設立し、明治20年には紋龞(もんべつ)製糖会社を設立したことだろう。

このようにして、亘理伊達家は現在の伊達の地において北海道開拓に成功したのだった。
明治18年には士族として復籍を果たし、西南戦争にも政府軍として参戦し、家臣たちはさらに札幌・琴似地区に再移住する人たちも出てきたという。
その裏では、当主の亘理伊達家は移住を成功させるために家宝を売却したり、借財をするなどして経済を支えたという。
その借財を完全返済したのはごく最近だったと講師の伊達元成氏は明かした。
世が世であれば、元成氏は殿様と呼ばれる存在だったのかもしれない。そんな雰囲気をどこかに感じさせてくれるような伊達元成氏だった。