goo blog サービス終了のお知らせ 

田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北海道・北東北の縄文遺跡群巡り〈7〉 二ツ森貝塚(七戸町)

2023-10-22 13:42:07 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連
  •  二ッ森貝塚は縄文前期から中期にかけて栄えた貝塚を伴うムラの跡である。つまり温暖期にあって縄文海進の時期にあたり、現在は貝塚からは遠くに望む「小川原湖」の湖岸が貝塚の近くまで延びて豊かな湖(海)の幸が豊富に獲れた地であったことが窺われた。
         
 今回の北東北の縄文遺跡を巡る旅の成果をどうまとめるべきか?少し迷ったところがあったが、結局昨年巡った北海道の縄文遺跡巡りでまとめた形を継続することが一貫性があることと考えた。これからは旅から帰宅後に体験する出来事も投稿しながら、断続的に縄文遺跡巡りについてレポしていくことにしたい。
 10月11日(水)朝5時に八戸港に着岸した私は仮眠をとらず、すぐに最初に訪ねる七戸町の「二ツ森貝塚」を目ざした。七戸町は八戸市からはおよそ70キロ北上したところにある。ナビに従い細い県道を北上した。まずは真っすぐにガイダンス施設の「二ツ森貝塚館」を目ざした。貝塚館に着いたのは7時を少し回ったところだった。開館時間は午前9時だからかなりの時間があった。
 私は場所を確認したので、貝塚生成に関わったと思われる近くの「小川原湖」に行ってみることにした。小川原湖は現在は、汽水湖であるが、縄文時代は海の一部となって、豊富な魚介類が獲れたと想像される大きな湖だった。
  
  ※ 小川原湖の湖面です。早朝らしく太陽の位置が低いですね。(下の写真も)
  
 午前9時、「二ツ森貝塚館」に開館と同時に入館した。「二ツ森貝塚館」は閉校された校舎を活用したガイダンス施設だった。入館すると、ボランティアガイドの男性の方が待っていた。ガイドの方はガイドの会の代表のかたということで退職されてガイドをしているということだった。
  
  ※ 廃校した校舎を活用した「二ツ森貝塚館」です。
 さっそく貝塚館の展示について解説していただいた。呼び物は貝塚の「貝層断面」を展示していた。素人にはただの貝層にしか見えないが、考古学の研究者にとっては縄文人の生活を探るうえで貴重な情報源であるという。
  
  ※ 貝塚の貝層をはぎ取り、展示した貝塚の様子です。(下の写真も)
  
 その他では「鹿角製の櫛」が櫛の先は欠けているものの見事に装飾を施された櫛の遺物は貴重であろう。さらには亀ヶ岡石器時代遺跡の「遮光器土偶」ほど有名ではないが、遮光器土偶も発掘されたようだ。また、取っ手の部分に「人面が象られた土器」も珍しい一品だった。
  
  ※ 鹿角製の櫛です。
  
  ※ 遮光器土偶です。(下半身が欠けているのが残念です)
  
  ※ 取っ手の部分に顔面を象った土器です。
 その後、貝塚館から数百メートルはなれたところある貝塚跡に向かった。貝塚跡は「二ツ森貝塚史跡公園」として整備されていた。貝塚そのものは発掘調査の跡は覆土されて、ただの緑の芝生が一面に広がっていた。その中に当時の竪穴建物が二棟復元展示されていて、内部も見学することができた。
  
  ※ 整備された「二ツ森貝塚史跡公園」の全景です。
  
  ※ 復元された当時の竪穴式の住居です。
  
  ※ 竪穴式住居の内部です。
 感動したことが一つあった。それはガイドの方が芝生の一部を指さすと、そこには白いしじみの貝殻が多数無造作に転がっていたことだ。もちろん貝塚に遺されていた貝殻の一部だという。それだけ貝塚が広く広がっていた証拠のように思われた。
  
  ※ 史跡公園の片隅にはこうして貝殻がこ転がっていました。
 感激したのは、ガイドの方の親切な説明だった。私一人のために親切丁寧に説明してくれる姿には頭が下がる思いだった。秋らしい晴れ上がった空の下、まずは快調にスタートを切った私の北東北の縄文遺跡を巡る旅だった。

ガイダンス施設「二ツ森貝塚館」青森県七戸町鉢森平181-26
 ◇入館料 無料
 ◇訪問日 10月12日(木)                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                           


講座「北の縄文世界と国宝」展ができるまで

2023-09-04 19:47:47 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連
 期待していた内容とはちょっと違ったかなぁ…、という思いだったが、博物館の裏側を知るという意味では、ふだんはなかなか聞くことができない博物館関係者のご苦労を垣間見ることができた講座だった。
     
 ※ 購入した図録の表紙です。一見すると昨日掲載したポスターと類似していますが、子細に見ると若干違っています。見比べてみてください。
 昨日、9月3日(日)午後1時30分から、北海道博物館講堂において「『北の縄文世界と国宝』展ができるまで」と題する講座を受講した。
 私は当初、今回の特別展に関して観覧の助けとなるような講座なのでは、と期待していた。しかし実際は「『北の縄文世界と国宝』展ができるまで」という表題どおり、特別展を開催するまでの準備などについて学芸員の方がその舞台裏を語ってくれるものだった。
 講座は北海道博物館の学芸員である鈴木琢也氏、尾曲香織氏、鈴木あすみ氏の三氏が分担して話された。
 学芸員はそれぞれ専門分野があり、日常はそれら専門分野の調査研究、あるいはそのまとめなどに従事しながら、常設展の監修、あるいは博物館主催の講座の講義などを担当されているとのことだった。その上で、特別展の企画、調査研究、外部折衝、展示構成、等々の準備にあたるという。
     
 ※ 図録の一頁ですが、北海道で発掘された国宝の「中空土偶」の写真です。
 今回の「北の縄文世界と国宝」展の場合、2年前に企画が提起されて準備に入ったという。その準備とは大きく分けて◆企画 ◆資料 ◆展示造作 ◆図録 ◆広報などという準備作業があるそうだ。
 これらの準備を今回は主催が「北の縄文世界と国宝展実行委員会」としたことにより、北海道博物館と北海道縄文世界遺産推進室の共同となったために、主として鈴木学芸員などを含め6名の体制で準備を進めたそうだ。
 その準備とは、例えば今回の場合は、資料収集のために道内、北東北の遺跡に関わる博物館等との折衝が大変だったという。鈴木学芸員などは現地博物館との折衝や図録作成のための写真撮影などで、一つの博物館に3度も訪れなければならなかったそうだ。
 また、各博物館等で大切に保管している土偶や土器などの所蔵品を借用するために非常に神経を使いながらの輸送計画を立てなければならなかったと話された。
 一方、会場づくりを担った鈴木学芸員は、会場のレイアウトに苦心したという。観覧者の動線を考え、2案、3案と構想を立て、関係者と協議しながら決めていったそうだ。それが果たして正解だったのかどうか?昨日の投稿で私は若干の疑義を呈したが、しょせんそれは素人の戯言なのかもしれない。
     
  ※ 昨年、私も訪れた千歳市の「キウス周堤墓群」の説明と全景写真です。
 また、尾曲学芸員は会場の展示内容を工夫することに関わったそうだ。どうすれば観覧者が見やすく、また理解が容易になるかを考えながら展示内容を工夫したという。見やすくという上では、特に国宝に関しては光の当て方に工夫を凝らし、影ができないライティングを工夫されたと話していた。
 まだまだ話は多岐にわたったが、メモし切れない部分も多かった。
 準備の一つである「図録」の作成は力作だった。128頁にわたる図録の掲載された土偶や土器などは現地へ赴いて一枚一枚担当者が撮ったものだそうだ。そう考えると貴重である。ふだんこうした類のものを購入しない私だが、今回は特別な思い入れもあり大枚(?)
2,200円をはたいて購入させてもらった。
 ふだんはこうした類のお話を聴く機会が少ない。そうした意味では貴重な講義を聴くことができたと思っている。

「北の縄文世界と国宝」開催記念シンポジウム

2023-08-20 21:11:20 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連
 連日の縄文遺跡関連のイベントへの参加である。この日のシンポジウムの目玉は、俳優の井浦新さんの登場だったようだ。井浦さんは相当の遺跡オタクのようであった。しかし、私的には今ひとつといった感じのシンポジウムだった…。
      
 本日午後、新札幌にあるホテルエミシア札幌において、表記のような『「北の縄文世界と国宝」開催記念シンポジウム』が開催され、参加した。
       
       ※ 会場となったホテルエミシア札幌の外観です。
 シンポジウムは、初めに昨日と同じ北海道縄文世界遺産推進室の阿部千春特別研究員が「北海道・北東北の縄文遺跡群の価値について」と題して、昨日と同じパワーポイントを使用して講演された。同じ方が、同じ内容の講演をされたのだから復誦は避けたい。ただ、昨日のレポでは触れることができなかった「ユネスコ世界遺産とその意義」について触れておきたい。
 ユネスコの理念は「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」としている。その目的の一つとして「世界の文化遺産の保存(登録)」があるという。その世界遺産を登録する目的を次のように謳っている。「文化遺産及び自然遺産を全人類のための世界の遺産として損傷、破壊等の脅威から保護し、保存するための国際的な協力及び援助の体制を確立することを目的とする」としている。つまり世界遺産を保護し、保存することは国際平和に寄与することだと高らかに謳っているのである。もっともっと「北海道・北東北の縄文遺跡群」に関心をもってもらい、大切に保護し、保存していくことは世界を平和にするための一里塚だということを私たちはもっと意識する必要がありそうだ。
  
  ※ イベント開催中の撮影はNGでしたので、開会前に会場を撮りました。
 阿部氏の講演に続いて行われたのが俳優の井浦新さんと、フリーペーパー「縄文 ZINE」編集長である望月昭秀さんが登壇したトークセッション「縄文文化の魅力を語る」だった。
 井浦さんは、現在北海道博物館で開催されている「北の縄文世界と国宝」展の音声ガイドナビゲーター役を務めている方だが、その生い立ちから「家の中に縄文があった」と語るほど、父親が考古学マニアで小さなころから遺跡などに連れていかれたことなどから、自然と考古学や遺跡に興味を抱くようになったという生粋のマニアである。一方の望月さんも遺跡好きが高じて関連雑誌の編集長になったくらいだから、推して知るべしである。
 二人の話は、北海道・北東北にとどまらなかった。視野が全国、あるいは世界に向いていた。北海道・北東北に限ってようやく多少の関心を抱き始めた私とでは、視点の違い・関心の違いが明らかだった。そのため彼らのマニアックな話にはついていけなかった。
 彼らが取り上げた縄文時代の土偶や土器のデザイン性の素晴らしさ、奥深さに縄文人の文化の高さ、精神性の高さを指摘していたのが印象的だった。そしてその代表的なものこそ、今北海道博物館で開催されている「北の縄文世界と国宝」展での展示品の数々なのだろう。
  
  ※ トークセッションの後、フォトセッションの時間が設けられました。遠くから撮った一枚です。左から井浦氏、トークセッションのファシリテーターを務めて阿部氏、そして右が望月氏です。
 私は残念ながらまだ展覧会を観覧できていない。今回に続いて9月4日にまたまた関連イベントが北海道博物館で開催されるので、その際に是非とも観覧しようと計画している。楽しみである。

世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」フォーラム

2023-08-19 21:25:09 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連
 2021年に世界遺産に登録されてから2年、「北海道・北東北の縄文遺跡群」は今、ある意味で曲がり角に立っているとも言えるようだ。北海道において構成資産・関連資産として登録された6つの市町の関係者が集まって話し合うフォーラムに参加した。
  
 本日(8月19日)午後、北海道博物館において表記「北海道・北東北の縄文遺跡群」フォーラムが開催されたので参加した。
 フォーラムは次のような2部構成で行われた。
◆第1部では、ユネスコ世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の価値と現状、と題して北海道縄文世界遺産推進室の阿部特別研究員、そして6つの市町で縄文遺産を担当している学芸員の方々がそれぞれの現状を報告した。
 その6つの市町の縄文遺跡とは…、
  ◇垣ノ島遺跡(函館市)
  ◇北黄金貝塚(伊達市)
  ◇大船遺跡(函館市)
  ◇入江・高砂貝塚(洞爺湖町)
  ◇キウス周堤墓群(千歳市)
  ◇鷲ノ木遺跡(森町) ※関連遺産
◆第2部では、「世界遺産としての縄文遺跡群の整備・活用にあり方と展望」と題して、6つの市町の担当者によるパネルディスカッションが行われた。
 私は昨年、世界遺産に登録された北海道内の6つの構成資産として登録された遺跡を全て巡って歩いたこともあり、それなりの関心を抱きながら参加した。(但し、関連遺産である森町の「鷲ノ木遺跡」は自由観覧ができないので訪れてはいない)
 私がフォーラムの中で特に関心をもって聴いたのは、北海道縄文世界遺産推進室の阿部千春特別研究員のお話だった。阿部氏は「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録にあたって中心的な役割を担った方であり、「北海道・北東北の縄文遺跡群」についてのスポークスマン的立場の方である。
  
 氏が言うには、縄文文化とは定住生活が始まった時代であり、それが北海道・北東北において可能となったのは日本列島を囲む二つの暖流が北上したことにより、定住をしながらの狩猟・採集生活が可能となったためであるとした。定住が可能となった北海道・北東北地帯のことを冷温帯落葉広葉樹林帯と称するそうだ。なお、ご存じだと思うが、ここでいう北海道とはキウス周堤墓群がある千歳市以南の道南地域を指している。
 つまり、日本では北海道の東北部を除き、ほぼ全国的に縄文文化が花開き、その地域的特色もあって全国をいくつかに分けることができる〈一説では9つとも〉と言われている。その中で「北海道・北東北の縄文遺跡群」が特に世界遺産に登録されたのは、北海道・北東北地域以外は一万年以上続いた縄文時代の後に稲作を中心とする弥生時代に移行したが、北海道・北東北は稲作に不向きなために縄文文化が続いた(続縄文時代と称する)という特殊性によって独特の文化が花開いたということが世界遺産登録に至った大きな理由のようである。
 世界遺産登録の可否を審査するユネスコではOutstanding Universal Value(OUV)、つまり「顕著な普遍的価値」の最も重視されるということのようである。
 阿部氏は盛んに「ストーリー」という言葉を口にした。「北海道・北東北の縄文遺跡群」の顕著な普遍的価値を広く知らしめるために、どのようなストーリーを描き出すのかということに阿部氏たちがご苦労されたことが偲ばれた。
 個々の遺跡についてのレポートの内容は割愛することにして、第2部のパネルディスカッションで印象的だったことをいくつかレポしてみたい。
  

  
 一つは、遺跡から発掘された石器や土器、その他の遺物から、当時の様子を類推する技術が驚くべき進歩を遂げていることを知らされた。まず食料についてであるが、土器に沁みついた脂質を分析することで当時の食べ物を類推することができるという。その結果、北海道よりは暖かい北東北では木の実など植物性の食べ物が多く、冷涼で木の実などが育ちにくい北海道ではハマグリやカキ、あるいは魚など海産物が多いことが分かってきたという。もっとも、一万年も続いた縄文時代はもちろん気温も一定ではなく、それに伴って食べ物も変遷したことが貝塚などの遺物を分析することで分かってきたことが多いという。各地の遺跡を担当する教育委員会では、現在もそうした分析作業が継続している実施していると報告があった。
 次に、リード文でも触れた「曲がり角に立っている」ということについてだが、世界遺産登録に向けて北海道や東北の関連する県、ならびに構成遺産遺跡のある市町の関係者の熱量は素晴らしかったが、それが今やや冷めつつある、いったニュアンスに私には聞こえてきた。関係者にとってはせっかく盛り上がった熱気でもって縄文文化の素晴らしさをより多くの人に伝えたい、より多くの人たちに関心を抱いてほしい、という思いが強いようだ。そのために、関係市町ではガイドの育成や縄文まつりの開催など工夫を凝らしているが、関連市町においては連携をより強めてそうした空気を醸成していこう、確認し合ったフォーラムでもあったようだ。
 昨年、道内の縄文遺跡群の構成遺産を見て回ったが、正直言って一般の人たちがどれだけ興味関心を抱いてくれるかというと、かなりハードルが高いようにも思われる。価値ある遺産であることは疑いようがない。関係市町、ならびに関係者の皆さんの一層の努力を期待したいと思う。

トークイベント 北の縄文人の素顔

2022-08-12 14:06:12 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連

 トークイベントに登場したお二人は、今回世界遺産に登録された縄文遺跡だけではなく道内のさまざまな遺跡発掘に携わった方である。遺跡発掘にまつわるあれこれを楽しく語ってくれた。

   

 8月6日(土)午後、紀伊国屋札幌本店1Fインナーガーデンにおいてトークイベントが開催されたので参加した。トークイベントのテーマは「北の縄文人の素顔 ~遺跡から読み解く、縄文の人々の暮らし~」と題して、札幌国際大学縄文世界遺産研究室長の越田賢一郎教授と、元北海道埋蔵文化センター第2調査部長の三浦正人氏が登壇して語り合った。

 越田氏は今回の世界遺産登録について、元々は今から14年前に北海道と北東北の縄文遺跡群を関係者間で「縄文回廊を作ろう!」と起ち上げたのが始まりだったという。それから苦節14年、地元の方々の熱意で世界遺産に登録されたことは関係した一人としてとても嬉しいと語った。氏は「その間はけっして長くはなかった」と話されたが、そこには「よく辿り着いたなぁ…」という感慨があったからだろうか?

 一方で、主として道内の遺跡の発掘に数多く関わられた三浦氏は、世界遺産に登録された17の構成遺産だけが素晴らしいのではなく、構成遺産に入らなかった遺跡の中にも素晴らしい遺跡がたくさんあると指摘した。入らなかった遺跡も世界遺産の遺跡群を支えていると話された。

   

 次に「北海道の縄文人の特徴」について語られた。

 三浦氏は、その特徴として①冬の雪の暮らし(室内での仕事)、②縄文カレンダー、③鮭の利活用、を挙げた。北海道は特に雪に覆われる冬をどう過ごすかが縄文人にとっても大きな課題だったと思われるが、縄文人はこの間を利用して手工芸の技を磨いたとされ、土器・石器などに高度な技術を発揮している。さらには漆製品や翡翠などの装飾品も手がけたという。また、縄文人は諸外国の地域と違い農耕や家畜の飼育といった生活ではなく、狩猟・採集・漁労を中心とした生活をしていたことは知られているが、そのために一年の中で何をどうする、というカレンダーが確立していたのではないか、と指摘した。さらには、道内の河川に遡上する鮭(サケ)を食糧として、保存食として、あるいは履物、衣類などと十二分活用していたと語った。

 一方で、越田氏は北海道の縄文人の特徴を「森と海と雪」と表現した。”森” については落葉紅葉樹林が北の地域の食物連鎖の源であるとした。”海” については、北海道の沖合で暖流と寒流が交差する漁場の宝庫だということ。そして “雪” は手仕事をする期間で、工芸品が発達するとともに、春を待つ生活が生活のリズムを作ったとした。

 トークの最後に二人は、遺跡というのは壊される(埋め戻される)のが前提なのだが、残されるということは考古学的価値が高いというだと指摘した。この価値をどう伝え、発信していくかが関係者にとって問われる点である。道民の皆さんには今まで以上に関心を持っていただき、遺跡だけでなく景観と共に総合的な観点で地域の発展を図ってほしい、と結んだ。

   

 今回、北海道・北東北の遺跡群が世界遺産に登録されたことを契機に、私のような俄かファンが増えたことは間違いない。このことが契機となって北海道が、北東北が縄文遺跡の聖地となって、全国の遺跡ファンで賑わうことを期待したい。

※ なお、両氏の発言については私の方で発言されたことを元に脚色した部分が多いことをお断りしておきます。


道南旅物語② 北海道・北東北の縄文遺跡群巡り〈6〉 垣ノ島遺跡(函館市)

2022-08-06 16:58:16 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連

 垣ノ島遺跡は国内最大級の「盛り土遺構」が有名であるが、にわか遺跡ファンとしては、遺構全体が芝生に覆われていることでその素晴らしさを今一つ実感できなかった。しかし、遺跡の傍に立つ「函館市縄文文化交流センター」の展示は見どころ十分だった…。

   

  ※ 「垣ノ島遺跡」のエントランスを入ると遺跡全体を見渡せる展望デッキがあり、そこから遺跡全体を写したものです。太平洋も望めました。

  

  ※ 「垣の島遺跡」の全体図です。遺跡域は右側半分だと思われます。

       

※ この遺跡の標柱に付くマークは、全体で縄文土器を表し、上部は北海道、下部は北東北を表し、その間に津軽海峡を表しているそうです。全体の朱色は当時から漆が使われていたことを表しています。

 「垣ノ島遺跡」は「大船遺跡」と同じ旧南茅部町の臼尻地区にあり、「大船遺跡」とはそれほど離れていない、やはり海岸段丘の上に展開していた。

  国道278号線沿いに位置する遺跡の入口には、斬新なデザインの「函館市縄文文化交流センター」道の駅「縄文ロマン 南かやべ」と併設する形で建っていた。

   

  ※ 左側が「函館市縄文文化交流センター」、右側が道の駅「縄文ロマン 南かやべ」になっていました。

 私は午後1時からの遺跡ガイドの説明を受けることにしていたので、時間がたっぷりあった。そこでまず「函館市縄文文化交流センター」を見学することにした。(入館料300円)

   

   ※ 交流センター内部には南茅部高校書道部の書が大書され、掲示されていました。

 建物同様、展示の方法もかなり凝った展示方法のように私には映った。特に私が「凄い!」と思ったのは、「石鏃(せきぞく)と称する石を加工して作った矢じりの展示だった。さまざまな大きさの矢じりがデザイン性も加味されて展示されていたが、その繊細さに驚いた。数千年前の縄文人の高い工芸技術に改めて驚かされた思いだった。

   

   ※ 縄文土器の展示にもひと工夫されています。

        

  ※ これが私が驚いた「石鏃」の展示です。その繊細さに驚きました。狩りをする矢の先端に括り付けていたものです。

        

   ※ こらちは持ち手の付いた手斧でしょうか?こちらの多様さも素晴らしいと思います。

 また、北海道における唯一の国宝として有名な「中空土偶」が暗闇の中でスポットを浴びて展示されていて、特別感を感じさせてくれた。(なお、「中空土偶」は「垣ノ島遺跡」で発掘されたのではなく、近くの「著保内野遺跡」で発見されたものである)

   

   ※ フラッシュ厳禁の為、写りはイマイチですが国宝「中空土偶」です。

 展示を一通り見て回っても時間に余裕があったので、交流センター内で実施されていた滑石(かっせき)を加工(磨く)して「勾玉」まがいのアクセサリーを作る体験教室にも参加した。滑石はとても柔らかい素材なので紙やすりを用いて滑らかな表面を作り出すことが容易だった。このようなことを面白がって挑戦するオヤジなど皆無に近いだろう。そんなことに挑戦するところが何でも面白がる田舎オヤジの真骨頂なのだ!とひとりごちしている私だった。

   

   

   

   ※ 私が完成させた作品(?)です。

 午後1時。遺跡ガイドの説明を受ける時間になった。しかし、ここでも私以外は一組の親娘だけだった。お聞きしたところ、ここのガイドはボランティアではなく、アルバイトとして雇用されているガイドだということだった。担当したガイドは男性で老域に差し掛かっていてとても饒舌だった。

   

   ※ センターや道の駅の建物(壁)の右端に「垣ノ島遺跡」のエントランスがありました。

   

   ※ 遺跡ガイドをしてくれた方です。

 ところが肝心の遺跡の方はというと、全体が芝に覆われていて、「大船遺跡」のような復元物は皆無だった。遺跡の片隅には「竪穴遺跡」とあったが、そこは円形に芝がはぎとられたところが2~3ヵ所見られるだけだった。その奥には国内最大級と言われる「盛り土遺構」が「コ」の字形に広がっていた。そこは周囲よりわずかに高くなっていて、その痕跡が伺えるだけだった。その中心には小さな丘状のところがあり、ガイドは「丘状遺構」と紹介し、ガイドはそこから刀形石器や石棒などの特殊な遺物が出土したことから、祭祀や儀礼などが行われた特別な場所だったのではないかと説明した。さらには「竪穴住居」のある方向から「丘状遺構」に向かって直線に伸びる跡が伺え、そこを「直線遺構」とガイドは紹介してくれた。あるいは縄文人は住居から祭祀や儀礼の会場に向かう通路だったのだろうか?

   

   ※ 向こうに遺跡域が広がるエントランス広場に立つ史跡を表す石標です。

   

   ※ エントランス広場から遺跡域全体を眺めたところです。

   

   ※ 竪穴住居跡を示しています。広さは表されていますが。深さはどうなのでしようか?

 ただ、ガイドが一生懸命説明されても、目に映るのは芝生に覆われ凹凸の地形だけだった。ガイドによると「盛り土遺構」からは大量の遺物が発掘されたということだが、現在はそこが全て芝生に覆われていた。にわか遺跡ファンの私としては、せめてその一部だけでも発掘された状態の展示ができないものか、と思ったのだが…。それはおそらく専門家からすれば邪道であるということなのだろう。う~ん、でもなぁ~、という思いが残った。

「垣ノ島遺跡」の一角(遺跡域ではないのだろうが)には、芝生広場、体験広場が広がっていた。私は時間的に余裕もあったので、遺跡発掘の模擬体験をさせてもらった。おままごとのような体験だったが、シャベルの腹の部分を使って表土をそろりそろりと除いていく慎重さを担当者から指導していただいたことは、けっして無駄ではなく得難い体験をすることができた。

   

   ※ 遺跡発掘模擬体験の道具です。

   

   ※ 私が発掘した(?)土器や石器です。


道南旅物語① 北海道・北東北の縄文遺跡群巡り〈5〉 大船遺跡(函館市)

2022-08-05 18:31:59 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連

※ 2泊3日の短い旅だったが、私にとっては収穫の多い旅でもあった。これから何日間かに分けて「道南旅物語」と題してレポートしてみたい。

 大船遺跡は海岸段丘の上に展開されていた。そこに遺されていた竪穴住居跡は想像していたよりはるかに大きく、深いものだった。大船遺跡の特徴は、竪穴住居の完全復元、骨組復元、竪穴復元と多様な形で展示されていることだった。

          

  ※ 「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成資産では必ずこのような標柱が掲示されているそうです。

 「大船遺跡」は鹿部町から函館市に向かう途中、海岸沿いの大船地区の海岸段丘上に展開していた。大船地区は、現在は合併して函館市の一部となっているが、元南茅部町の集落の一つに存在する遺跡である。

   

   ※ 「大船遺跡」の「縄文の庭」部分の全景です。

  

  ※ 「大船遺跡」の全体図は右図ですが、私が主として見たのは左側の「縄文のにわ」部分です。

 私は遺跡ガイドの説明会が午前10時から始まると事前に知っていて、約15分前に遺跡管理棟の前に着いた。遺跡管理棟は簡易な造りで、内部にはごく簡単な展示しかなかった。(本格的な展示は隣りの「垣ノ島遺跡」に併設する「函館市縄文文化交流センター」の方に展示されていた)

   

   ※ 「大船遺跡」の遺跡管理棟のエントランスです。

 午前10時、その回の担当だった若い男性のガイドの方が説明を担当した。不思議なことに私の後にも続々と遺跡見物客が見えたのだが、誰一人として説明を聞こうとせずに、写真を撮るとそそくさと遺跡を跡にしていた。結局説明を受けたのは私一人だった。

 説明はまず、管理棟の横にあった大量の「石皿」である。植物や魚などを切ったり、すりつぶしたりために使われたそうだが、展示されているのは出土したうちのほんの一部だという。(出土した石皿の数は2千枚以上とも聞いた)

   

   ※ 遺跡管理棟の壁横に展示されていた「石皿」です。

 続いて復元されている竪穴住居跡に導かれた。復元されている竪穴住居跡は全部で6つあったと記憶している。印象的だったのはどの竪穴住居跡でも住居の入口と考えられるところとは対極のところに祭壇跡が設けられていたことだ。その祭壇跡の前には火を扱う簡単な竈跡があり、その形状から時代が分かるとの説明だった。つまり、当初の竈は土器だったが、土器と石の組み合わせ、石だけのもの、石を二重にしたものと変遷を遂げているとのことだった。

   

   ※ 竪穴を復元したものですが、深く掘られた穴は柱を立てるための穴です。写真奥中央の穴は祭壇を置いたところで、その手前には火を扱った竈跡だということです。写真の竈は石ですね。

   

   ※ 竪穴式住居の完全復元、骨組復元、竪穴復元が並んで見えるところです。

 大船遺跡には完全復元した竪穴住居があるが、前日まで雨が降り続いたこともあり、竪穴住居を覆っている葦を乾かすために内部で火を焚いていたために内部見学をすることはできなかったが、外から見るかぎり他の住居跡と大差はないようだった。

   

   ※ こちらは完全復元された竪穴住居です。

   

   ※ こちらは竪穴住居の骨組みだけ復元されたものです。

 遺跡の一方には石が不規則に転がっていた。ガイドによると、食料の残りかすや壊れた道具などが土と共に大量に積み重ねられた「盛り土遺構」であるとのことだった。「盛り土遺構」は単なるゴミ捨て場ではなく、火を焚いた痕跡があることから儀礼が行われていたと想像され、縄文人は全てのモノに宿った魂の「送り場」だったと考えられているそうである。

   

   ※ 「盛り土遺構」の跡です。

 大船遺跡では100棟を超える竪穴住居跡が発掘されたそうだが、そのうち6つを様々な形で再現展示している。再現展示されているところも含めて発掘された住居跡は覆土されて保全されているということだろう。こうした形で当時の様子を復元展示していると、縄文人の生活を具体的にイメージすることができるという利点がある。学術的な保存という観点からはどのように評価されるのか知る由もないが、隣の「垣ノ木遺跡」とは、対照的だったことで考えさせられた点だった。

   

   ※ 遺跡がある丘からは太平洋(内浦湾)が近くに望めました。


北海道・北東北の縄文遺跡群シンポジウム

2022-08-01 15:38:24 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連

 遺跡という地味な文化遺産、その上広域に渡っていることから、観光面でも、地域づくりの面でも難しさを抱える世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」をどう生かしていくか、という課題について考えるシンポジウムに参加した。

        

 昨日(7月31日)午後、札幌グランドホテルを会場に「北海道・北東北の縄文遺跡群」「世界遺産登録1周年記念シンポジウム」に参加した。シンポジウムは4時間という長丁場だったが盛りだくさんの内容が詰め込まれたシンポジウムだった。その内容とは…、

   

   ※ 開会前の会場の様子です。

 ◆基調講演「世界遺産と縄文遺跡群の役割」

   講師:北海道環境生活部文化局文化振興課 縄文世界遺産推進室 特別研究員

                                 阿部 千春 氏          

 ◆1周年記念イベント 「各地の喜びのメッセージ」

 ◆パネルディスカッション「縄文世界遺産 これからのまちづくりと文化振興を考える」

   パネリスト:岩手大学 平泉文化研究センター 客員教授 八重樫 忠郎 氏

         DENEB株式会社 代表取締役 永原 聡子 氏

         田辺市熊野ツーリズムビュロー 事業部長 ブラッド・トウル 氏

         斜里町地域プロジェクトマネージャー 初海 淳 氏

         北海道観光振興機構 政策マーケティング部室長 生川 幸伸 氏

   コーディネーター:阿部 千春 氏

   

   ※ パネルディスカッションの様子です。ブラッド氏はカナダからオンラインでの参加でした。   

 シンポジウムの趣旨は、高いハードルを超えて無事に世界文化遺産の登録が実現したが、 このことをどのように観光に結び付け、地域振興を図っていくか、という課題解決を模索する場であったと理解した。

 阿部氏は講演の中で、「・北東北の縄文遺跡群」は高い精神性と工芸技術の巧みさが秀でていると強調された。さらには狩猟・採集・漁労という農耕を主体としない形での定住生活を可能とした特異性にも言及された。確かに学術的な面からは「北海道・北東北の縄文遺跡群」は評価される側面が大きいと言えるかもしれないが、そのことが観光や地域振興とどう結びつくのか、という点には大きな課題がありそうである。

 その点について、各地で活躍する人材が登壇してパネルディスカッションが展開された。各地の実践例、成功例が提起され、それぞれが傾聴に値する内容を含んでいるように思えたが、リード文でも触れたように「北海道・北東北の縄文遺跡群」特有の課題がある。すぐに他の地域の例が応用できるとは言い難い難しさがある。ただ、1点光明が見えた。それは他でもない人” ではないのか!ということだった。つまり地元の人、地域の人が、“おらが街の文化遺産” の価値や素晴らしさを知り、それを誇りに思い、他に発信していく、やがてはそのことが地域振興、観光振興にも繋がっていくのではないか、ということだ。

 難しい課題かもしれない。しかし、難しいからこそ即効薬ではなく地道に本流を貫くことこそ、確かな地域振興に繋がっていくのではないか?そんなことを思いながら会場を後にした。

        

        ※ 会場入り口には「世界遺産登録証」の写し(?)が展示されていました。

明日から道南地方の縄文遺産を巡ってきます!

 別にシンポジウムを聴いたからではないのだが、タイミングよく計画を立てていた。明日からは「北海道・北東北の縄文遺跡群」の構成遺産の一つになっている函館市の「大船遺跡」「垣ノ島遺跡」を巡ってくる。残念なのは関連遺産となっている森町の「鷲の木遺跡」がクマ騒動の為に見学中止措置が取られてしまったことだ。何時の日か訪れる日が来ることを期待したい。

     

     ※ 北海道遺産の一つ「五稜郭」です。(写真はウェブ上から拝借しました)

 同時に、道南地方(特に函館市)に存在する「北海道遺産」も何ヵ所かカバーしてくる予定である。その北海道遺産は「函館西部地区の街並み」「函館山と砲台跡」「五稜郭と箱館戦争の遺構」などである。収穫の多い道南の旅になりそうだ。


北海道・北東北の縄文遺跡群巡り〈4〉 キウス周堤墓群(千歳市)

2022-06-24 15:44:36 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連

 大小さまざまな周堤墓が連続する様は壮観だった。また、この遺跡では市民ボランティアの方々が遺跡案内をされており、個人で伺っても対応してくれる仕組みとなっているところが素晴らしかった。

 6月21日(火)念願だった千歳市の「キウス周堤墓群」に足を運んだ。

 この日私は直接「キウス周堤墓群」には向かわず、まずは「千歳市埋蔵文化財センター」に立ち寄ってから向かうことにした。埋蔵文化財センターは千歳市の田園風景が広がる長都地区にあった。そこはいかにも廃校校舎を再利用したという趣きの建物だったが、調べてみると「旧長都小中学校」の校舎を改造したものだと判明した。

   

   ※ いかにも学校々舎の玄関といった趣の「千歳市埋蔵文化財センター」の入口です。

   

   ※ センターのエントランスには世界遺産登録の喜びにあふれるデコレーションがされていました。

 千歳市には「キウス周堤墓群」だけでなく、「美々貝塚」をはじめ実に多くの遺跡が点在していることを知ることができた。それらの遺跡では、国指定の重要文化財がいくつも発掘されていることも知ることができた。

   

    ※ 千歳市の「ママチ遺跡」から発掘された約2,300年前、縄文時代晩期の土面だそうです。

   

            ※ こちらも千歳市の「美々4遺跡」から発掘された動物型土製品で、カメにも、水鳥にも、ムササビ、

アザラシにも見える不思議な姿をしています。(そう解説してありました)

 文化財センターで「キウス周堤墓群」への行き方を確認して向かった。「キウス周堤墓群」は文化財センターから7km先にあった。

   

   ※ 「キウス周堤墓群」の駐車場と、市民ボランティアの方が詰めている詰所です。

   

   ※ 詰所の横には周堤墓をイメージするデコレーションが施されていました。

 「キウス周堤墓群」の駐車場の先には案内ボランティアの方々が待機する詰所があり、そこで手続きをすると直ぐに対応してくれた。周堤墓とは、大きな円形の中に遺体を埋葬する集団墓地のことで、縄文時代末期に盛んに造られたということで、「キウス周堤墓群」だけではなく、千歳市周辺では多くの周堤墓が発見されているそうだが、「キウス周堤墓群」は特に大規模のために国指定の遺跡に指定されたという。その「キウス周堤墓群」は現在まで大小9基の周堤墓が発掘・保存されているそうだ。

 周堤墓は「〇号周堤墓」と名称が付けられているが、これは発見された順に番号が付されているとのことだった。

   

   ※ 「キウス周堤墓群」の入口で説明してくださった市民ボランティアの方です。

 私は市民ボランティアによって早速周堤墓に案内された。周堤墓のあるところは、縄文時代と変わらぬ鬱蒼とした大木が生い茂る森林である。私はまずキウス周堤墓の中でも最大級の規模を誇る「2号周堤墓」に案内された。周堤墓がどれくらいの大きさだったかというと円形の周堤の外径が73mほどという大規模なものである。さらに「2号周堤墓」は周りから約2mの高さまで土を盛り上げており、内部を3mほど掘り下げているため、周堤墓の内部からは約5mもの高さの壁となっているとのことだった。(残念ながら周堤墓の内部へ入っての観覧は許されていない)

   

   ※ 2号周堤墓の外側の淵の盛り上がりです。(前方)

   

   ※ 2号周堤墓の内部を撮ったトコろです。右奥のところが コンクリートで遮られているのが確認できます。

 残念に思ったことがあった。それは市民ボランティアの方が「周堤墓をよ~く見てください。何か変わったことに気付きませんか?」と問われた。よく見ると、円形の一部が欠けているように見えた。その旨を答えると、「そうなんです。周堤墓の一部が道路にかかっているんです」と言われた。説明によると、周堤墓の存在がまだ特定されていなかった明治23(1890)年に周堤墓を横切るように道路(現国道337号線)が造成されたそうだ。この道路によって「2号周堤墓」と「4号周堤墓」は分断され、「5号周堤墓」、「12号周堤墓」は道路の向かい側に位置することになってしまった。いま考えるといかにも惜しいと思われるが、研究が進んでいなかった明治年代に道路が造成されたということだから致し方ないことと諦めるしかないということだろう。(う~ん。それにしても惜しい!) 

      

   ※ 「キウス周堤墓群」の全体図です。2号と4号が道路によって寸断されています。

   

   ※ 道路側から撮った2号周堤墓です。

   

   ※ こちらは4号周堤墓だと思うのですが…。わずかに道路が写っています。

 私は続いて「3号周堤墓」、「1号周堤墓」と案内された。「1号周堤墓」では現在、さらに周堤墓内で発掘作業が行われていて、青いビニールシートが目立った。「1号周堤墓」には簡単な展望台が設けられていた。しかし展望台というにはいささか貧弱なたった2段しかない台だった。国指定遺跡だから本格的なものの造成は制約されるのだろうが、周堤墓内には入れないのだから、せめたもう少し高い階段を用意していただいて周堤墓全体を俯瞰できるような措置を高じてはもらえないものだろうか?と思ったのだが…。

   

   ※ 1号周堤墓の外側の盛り上がりです。

   

   ※ 1号周堤墓の内部を遠望しました。青いビニールシートが見えますが、現在発掘作業中ということでした。

 市民ボランティアの方から興味深いお話を伺った。実はこの「キウス周堤墓群」があるところは元々私有地だったそうだ。その私有地が貴重な遺跡らしいと知った持ち主は、耕作を止め周辺の雑草除去に努めたそうだ。そうした陰の努力が現在の「キウス周堤墓群」を形成しているとも語ってくれた。

 前回、「入江・高砂貝塚」、「北黄金貝塚」を訪れた時に、学芸員の方の説明がいかに貴重だったかについて触れた。その際は団体で訪れたために学芸員の方も対応してくれたが、今回のように個人で訪れた場合は、普通はただぼーっと見学するだけで得るものも少ない。ところが「キウス周堤墓群」では個人で訪れてもボランティアの方が案内してくれるという有難い体制を取ってくれている。こうした千歳市の取り組みに感謝したい思いである。例えボランティアを活用するとはいっても財政的の問題もあろうかと思われるが、他の遺跡などでもぜひこうした取り組みを検討していただきたいと思うのだが…。


縄文遺跡の価値は何か?

2022-06-10 12:39:53 | 北海道・北東北縄文遺跡群関連

 講師は「縄文人の高い精神性が世界に評価された」と胸を張った。昨年度、「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録にあたり、その中心の一人とした活躍された講師のお話を聴いた。

 昨日(6月9日)、石狩市の花川北コミュニティーセンターにおいて「いしかり市民カレッジ」の講座が開催された参加した。実はこの講座は6月7日に行われた縄文遺跡群の現地見学の前に行われる予定だった事前講座が、講師の都合で事後に行われることになった講座だった。

 講師は北海道の縄文世界遺産推進室特別研究員阿部千春氏「縄文遺跡群は世界遺産としてどのような価値があるのか」と題して講演された。

 阿部氏はまず、縄文文化の特色について触れられた。縄文文化とは、「日本列島に多様な自然環境のなかで、漁労・狩猟・採集を生業として定住生活を実現し、1万年以上も大きな争いもなく存続した先史文化である」とされた。他の文明が農耕を主とすることによって定住生活を実現させたのに対して、古の日本では多様な生物に恵まれたこともあり、世界にも類を見ない形で定住生活を実現させたということが言えるようだ。

          

          ※ 講演をされた阿部千春氏です。

 縄文文化の特徴の一つとして「土偶」の存在がある。この「土偶」は縄文時代の始まりから終焉に至るまで作り続けられ、そのほとんどが壊れた状態で出土しているということだ。さらに「土偶」は潜在的に母性を持った女性像として作られているものが多いという。このことは、土偶づくりは「生」を、それを破壊することは「死」を意味していると阿部氏はいう。さらにそれらは「再生」すると縄文人は信じていたところがあるという。

 阿部氏が興味深いお話を披露してくれた。阿部氏が直接発掘に関わった茅部町(現在の函館市)で「中空土偶」が発見されたが、それをMRIで透視したところ内部は見事な空洞だったことが判明したそうだ。その際に画像を子細に見たところ、身体の各部が離れやすいような構造となっていることが分かったという。このことは、土偶が破壊されやすいように、そしてまた再生しやすいようにという縄文人の思いなのではないかということだった。

        

        ※ 一躍有名となった中空土偶です。(愛称:カックウくんです)

 また、発掘された土器や装飾品からも縄文人の思考が読み取れるという。例えば土器には赤い土器と黒い土器があるそうだ。また、装飾品の一つであるヒスイには白い地の中に碧い斑状のものが広がっているという。あるいは、男性と女性、偶数と奇数、というように縄文人は「二項原理」を意識し、その二項を対立させるのではなく、「二項融合」という考え方をしていたという。言葉を変えていえば、縄文人は全てを受け入れる思考法だったのではないかと思えるのだ。    

 現地見学の際の投稿でも触れたが、縄文人が遺した貝塚は単なるゴミ捨て場ではなく祭祀場として人だけではなく生きとし生けるものを祀る場であったことが判明している。いや生きとし生けるものだけではなく、縄文人の命を繋いだ生活の道具まで祀ることをしていた可能性があることが分かっている。こうした縄文人のサスティナブル(持続可能性)な考え方が、効率を求め過ぎた現代とリンクしたことが世界遺産登録を後押しした可能性があったと阿部氏は言及した。そして縄文遺跡群が世界遺産に登録されたことにあたって特徴的なことは、何か特異な建造物や、だれか偉人が成し遂げたようなことではなく、ごく一般の人たち(縄文人)が形づくり、遺してきた文化だったという点で特徴があるという点である。

   

           ※ 講座の様子を一枚撮りました。

 私は毎週日曜日のTBS系の「世界遺産」は私の大好きな番組であり、録画して欠かさず視聴している。その「世界遺産」に取り上げられるには絵的に非常に地味で訴求力にかけるかな?と思われるが、逆にそのことが「北海道・北東北の縄文遺跡群」が注目を浴びるキッカケとなるかもしれない。縄文文化……、深いなぁ。ますます嵌まるかもしれない…。