◆◆今週のことば
失敗を自己責任と見る人こそが真の成功者になる資格があるという逆説は、透徹した人間論として貴重な指摘である。
加賀乙彦(作家・精神科医)
★関連記事は、月刊「理念と経営」7月号に掲載されています。
(32~35ページ「幸田露伴の『努力論』を読む」)
◆◆企業事例研究
今週は、新潟県の株式会社タカヨシをご紹介します。
平成18年には、経済産業省主幹の「IT経営百選」最優秀賞を受賞されています。
代表取締役社長の高橋春義氏にこれまでの人生で培ってきた経営哲学について、お話を伺いました。
☆「将来は父親の仕事に就きたい」
幼少期を思い出し、「とにかく貧乏でした」と語る高橋氏。
当時、父・義男氏は、紙袋の製造販売を行なう「与板屋 高橋義男商店」を創立し、営んでいました。
順調に売り上げを伸ばすも、昭和初頭の大不況により倒産し、一家の生活は苦しいものになりました。
それでも義男氏は一人で製本の仕事を続け、必死で家族を支えます。
そんな父の背中を見て育った春義氏。
父のことを常に尊敬し、小学校のときの作文では将来の希望する職業に「父親の仕事」と書きました。
「どうしてそう書いたのかよく覚えていません。
そう書いたことは覚えてますけどね。不思議なものです」
終戦を迎え、春義氏は父親の製本の仕事を手伝うようになりました。
東京の印刷所や製本所が大きな被害に遭い、地方の印刷業界が追い風を受けてにわかに活気づいてきた頃でした。
「とにかく必死でしたよ。がむしゃらです。小さいときから貧乏で苦労もしましたから、とにかくお金が欲しかった。正直に言えば、そういうことです。そのころは理念とか何だとか、そんなことは考えたこともなかった。貧乏を知っているから貧乏が嫌で、だから会社を絶対に潰してはいけない、と。そんな思いだけでした」
☆「愛社精神が生まれる条件」
昭和35年、法人化して高義紙業株式会社を設立。
以降、新工場の設立や東京営業本部の開設、仕事も現在の業態につながるラベル印刷といった分野にまで拡大。
しかし、春義氏は人材の面で悩みを抱えていました。
「中小企業の社員というのは愛社精神をもつことが非常に難しいんです。そりゃそうですよね。
でも、社長としてはやはり愛社精神をもってほしい。
自分の会社、自分の仕事に誇りをもってもらいたいわけです。」
そのような気持ちから、創立記念式典を一流ホテルで行なったり、社員を海外旅行へ連れて行ったりいたそうです。
しかし、それでは社員の心をつかむことができませんでした。海外で撮った写真のメンバーが、一人、また一人と消えていきました。
そのような悩みの中、新たなる試みとしてチャレンジしたのが、「新潟経営品質賞知事賞」でした。
難しい賞にもかかわらず、見事2回目に受賞。
印刷業界での受賞は、全国でタカヨシ一社という快挙でした。
受賞後は、1000人を越える見学者が同社に集い、それが社員の誇りに繋がったと、当時を振り返られます。
「愛社精神というのは、人から感動される、感謝されるといったことで培われていくものだとわかりました。
いくら私が『いい会社』だと連呼しても駄目。
そうではなく、外部から評価されれば、そこから愛社精神が生まれていくのです」
春義氏は、「利益の追求よりしあわせの追求」だと言います。
口で言うのはたやすいことですが、インタビューの終盤に春義氏が見せてくれた分厚いファイルが「実践」を物語っていました。
そのファイルには、「我が社の歴史を支えてくれた人々」とあります。
「これは退職者の履歴書のファイルです。
なかには、すぐに辞めてしまった人もいる。気に入らない辞め方をしていった人もいる。
ときには『辞めた人間とつきあうな』なんて悪口を言ったこともありますよ。
でも、今ではそんな人たちにも感謝しているんです。
その人たちだってその一時期であったにせよ、間違いなく会社を支えてくれたわけですから。
会社が潰れていたのなら別ですよ。でも、潰れてはいないわけですからね。この人たちがいたから今の会社がある。
すべての人に感謝です」
会社の規模は大きくなった。父親の時代よりもずっと大きくなった。
しかし、春義氏は次のようにおっしゃいました。
「親を追い越したとは思えません。両親のおかげで今の私がいます。
そのことに心から感謝しています」
★関連記事は、月刊「理念と経営」7月号に掲載されています。
(38~45ページ「企業事例研究2」)
失敗を自己責任と見る人こそが真の成功者になる資格があるという逆説は、透徹した人間論として貴重な指摘である。
加賀乙彦(作家・精神科医)
★関連記事は、月刊「理念と経営」7月号に掲載されています。
(32~35ページ「幸田露伴の『努力論』を読む」)
◆◆企業事例研究
今週は、新潟県の株式会社タカヨシをご紹介します。
平成18年には、経済産業省主幹の「IT経営百選」最優秀賞を受賞されています。
代表取締役社長の高橋春義氏にこれまでの人生で培ってきた経営哲学について、お話を伺いました。
☆「将来は父親の仕事に就きたい」
幼少期を思い出し、「とにかく貧乏でした」と語る高橋氏。
当時、父・義男氏は、紙袋の製造販売を行なう「与板屋 高橋義男商店」を創立し、営んでいました。
順調に売り上げを伸ばすも、昭和初頭の大不況により倒産し、一家の生活は苦しいものになりました。
それでも義男氏は一人で製本の仕事を続け、必死で家族を支えます。
そんな父の背中を見て育った春義氏。
父のことを常に尊敬し、小学校のときの作文では将来の希望する職業に「父親の仕事」と書きました。
「どうしてそう書いたのかよく覚えていません。
そう書いたことは覚えてますけどね。不思議なものです」
終戦を迎え、春義氏は父親の製本の仕事を手伝うようになりました。
東京の印刷所や製本所が大きな被害に遭い、地方の印刷業界が追い風を受けてにわかに活気づいてきた頃でした。
「とにかく必死でしたよ。がむしゃらです。小さいときから貧乏で苦労もしましたから、とにかくお金が欲しかった。正直に言えば、そういうことです。そのころは理念とか何だとか、そんなことは考えたこともなかった。貧乏を知っているから貧乏が嫌で、だから会社を絶対に潰してはいけない、と。そんな思いだけでした」
☆「愛社精神が生まれる条件」
昭和35年、法人化して高義紙業株式会社を設立。
以降、新工場の設立や東京営業本部の開設、仕事も現在の業態につながるラベル印刷といった分野にまで拡大。
しかし、春義氏は人材の面で悩みを抱えていました。
「中小企業の社員というのは愛社精神をもつことが非常に難しいんです。そりゃそうですよね。
でも、社長としてはやはり愛社精神をもってほしい。
自分の会社、自分の仕事に誇りをもってもらいたいわけです。」
そのような気持ちから、創立記念式典を一流ホテルで行なったり、社員を海外旅行へ連れて行ったりいたそうです。
しかし、それでは社員の心をつかむことができませんでした。海外で撮った写真のメンバーが、一人、また一人と消えていきました。
そのような悩みの中、新たなる試みとしてチャレンジしたのが、「新潟経営品質賞知事賞」でした。
難しい賞にもかかわらず、見事2回目に受賞。
印刷業界での受賞は、全国でタカヨシ一社という快挙でした。
受賞後は、1000人を越える見学者が同社に集い、それが社員の誇りに繋がったと、当時を振り返られます。
「愛社精神というのは、人から感動される、感謝されるといったことで培われていくものだとわかりました。
いくら私が『いい会社』だと連呼しても駄目。
そうではなく、外部から評価されれば、そこから愛社精神が生まれていくのです」
春義氏は、「利益の追求よりしあわせの追求」だと言います。
口で言うのはたやすいことですが、インタビューの終盤に春義氏が見せてくれた分厚いファイルが「実践」を物語っていました。
そのファイルには、「我が社の歴史を支えてくれた人々」とあります。
「これは退職者の履歴書のファイルです。
なかには、すぐに辞めてしまった人もいる。気に入らない辞め方をしていった人もいる。
ときには『辞めた人間とつきあうな』なんて悪口を言ったこともありますよ。
でも、今ではそんな人たちにも感謝しているんです。
その人たちだってその一時期であったにせよ、間違いなく会社を支えてくれたわけですから。
会社が潰れていたのなら別ですよ。でも、潰れてはいないわけですからね。この人たちがいたから今の会社がある。
すべての人に感謝です」
会社の規模は大きくなった。父親の時代よりもずっと大きくなった。
しかし、春義氏は次のようにおっしゃいました。
「親を追い越したとは思えません。両親のおかげで今の私がいます。
そのことに心から感謝しています」
★関連記事は、月刊「理念と経営」7月号に掲載されています。
(38~45ページ「企業事例研究2」)