卒業式のシーズンである。
卒業式となると,さまざまな礼法が問題になる。
国旗と校旗を掲げる場合には,
どちらを向かって右にするかとか,
卒業式を授与する場合は,
どちらの手から卒業証書を取り上げるかとか,
生徒はどちらの手からもらうかとか,
送辞や答辞を書いた奉書のさばき方とか,
式花の大きさはどの程度が適当かとか,
そういうことをその学校の伝統に従って,
自信をもって,
納得できる理由を添えて
答えられる教師がいる学校は
よい学校である。
卒業式となると,さまざまな礼法が問題になる。
国旗と校旗を掲げる場合には,
どちらを向かって右にするかとか,
卒業式を授与する場合は,
どちらの手から卒業証書を取り上げるかとか,
生徒はどちらの手からもらうかとか,
送辞や答辞を書いた奉書のさばき方とか,
式花の大きさはどの程度が適当かとか,
そういうことをその学校の伝統に従って,
自信をもって,
納得できる理由を添えて
答えられる教師がいる学校は
よい学校である。
今朝、コメントを読んで、清々しい気持ちで出勤できました。卒業式は、無事滞りなく挙行されました。
ありがとうございました。
心中お察し申し上げます。
だれのための卒業式か,何のための厳粛さか。
「式次第や会場設営よりも、卒業する生徒が全員いとおしいと思える教師がたくさんいることが、よい学校だと思っている」,まさに至言。
形は心を表すもの。
しかし,形を整えることで,
心を整えることは必ずしもできるわけではない。
さらに,心を伴わない形は意味がない。
卒業式は,
巣立ちゆく生徒の心と送り出す教師の心,
それを見守る保護者や来賓の心,
それらが渾然一体となって
ある形をつくるもの。
願わくば,心ある卒業式が営まれんことを
節にお祈り申し上げます。
答えられる教師がいる学校は
よい学校である。
この言葉に惹かれて投稿した。
小生は中学校の教員である。
明日卒業式を迎えるにあたって思うことがある。
荒廃した学年といっていいだろう。
なぜそうなったのかの議論は、未だかってなされなかった。結果的には、「金髪・茶髪・異形服は式には出席させない」と学年会議で決まった。もちろん学校をあげて協力することにはなったようだ。
理由は、「厳粛な卒業式を壊さない」とのことだ。
「まじめな生徒や良識ある親の願いでもある」ということも付け加えられた。
小生は、排除の理論にはついていけないモノを感じながら、明日実行部隊の一員となって、仕事(?)をすることになる。
基準を満たさない生徒には修正させる。
指導に反抗的な生徒は、実力で式典の出席を阻止する。これが大ざっぱな仕事(?)内容だ。
小生としては決定の過程において一言、会議の場で発言をした。
「当日、指導の行き渡らない生徒については、修正作業はするとして、時間一杯までねばってみてそれでも反抗的な態度をとるようであったら、、打ち切ったらどうだ。あるがままの姿を、来賓や保護者にみてもらったらいい。式に入れないということはいかがなもの
か」
しかし、まわりから袋だたきになってしまった。
小生は、式次第や会場設営よりも、卒業する生徒が全員いとおしいと思える教師がたくさんいることが、よい学校だと思っている。
私は教育ブログではないのですが、卒業式の話題だったので、http://d.hatena.ne.jp/neimu/20070226/1172533027に
トラックバックをお願いしたいのですが。(今一つ操作の仕方がわからないまま、ブログを書いています)