学校において,勉強することは,
本来「目的」として意識されるべきものであった。
他に何らかの「目的」があって,
その「手段」として捉えられるべきものではなかった。
もちろん,「手段」としての勉強は昔からある。
受験のための勉強,試験のための勉強,資格取得のための勉強,
しかし,それらは,勉強本来の姿であるとは考えられておらず,
一種の便法といったマイナスイメージがかつてはあった。
それが,昨今では,「手段」としての勉強が,
本筋のように考えられるようになった。
学問の府である大学までもが,
資格取得やキャリア形成のための勉強を
標榜するようになったのである。
初等教育や中等教育でも,
「手段」としての勉強が大手を振っている。
大手塾が学校を凌駕するほどの権威をもつようになったのが,
その証拠である。
小学生が,「これは塾でやったから」などと嘯くのも
この発想の弊害である。
もう一度,本来の姿に立ち返るべきである。
学校の勉強は,それ自体が「目的」である。
きちんと勉強して,その内容を理解しようと努めること,
理解すべきものであるから理解する努力をすること,
それが,学校の勉強の意味である。
受験に合格するとか,資格を取得できるといったことは,
その本来の勉強の「結果」として与えられるものであって,
決して,そのことそのものが「目的」なのではない。
この「目的」と「手段」の転倒が,
学校の勉強を,ひいては,学問そのものを矮小化している。
本来「目的」として意識されるべきものであった。
他に何らかの「目的」があって,
その「手段」として捉えられるべきものではなかった。
もちろん,「手段」としての勉強は昔からある。
受験のための勉強,試験のための勉強,資格取得のための勉強,
しかし,それらは,勉強本来の姿であるとは考えられておらず,
一種の便法といったマイナスイメージがかつてはあった。
それが,昨今では,「手段」としての勉強が,
本筋のように考えられるようになった。
学問の府である大学までもが,
資格取得やキャリア形成のための勉強を
標榜するようになったのである。
初等教育や中等教育でも,
「手段」としての勉強が大手を振っている。
大手塾が学校を凌駕するほどの権威をもつようになったのが,
その証拠である。
小学生が,「これは塾でやったから」などと嘯くのも
この発想の弊害である。
もう一度,本来の姿に立ち返るべきである。
学校の勉強は,それ自体が「目的」である。
きちんと勉強して,その内容を理解しようと努めること,
理解すべきものであるから理解する努力をすること,
それが,学校の勉強の意味である。
受験に合格するとか,資格を取得できるといったことは,
その本来の勉強の「結果」として与えられるものであって,
決して,そのことそのものが「目的」なのではない。
この「目的」と「手段」の転倒が,
学校の勉強を,ひいては,学問そのものを矮小化している。
第2文,正しくは,「私の主張は,「感情的」でも「感傷的」でもありません。」です。まったく感情的に書くのはよくありませんね。
教師になりたい。→免許が取れる大学へ。
大学に入りたい。→大学に入るための勉強を。
大学にいるための勉強がしたい。→高校へ。
高校に入りたい。→中学校の勉強をしっかり。
中学校の勉強をしっかりやりたい。→
小学校で下地を作る。
私は、勉強なんて夢への「手段」でいいと思うんだけどな。
>大手塾が学校を凌駕するほどの権威をもつようになったのが,
>その証拠である。
全然良いと思います。塾で金払って勉強してきてくれるなら、
浮いた時間で大切なことをたくさん教えられる。
どうしてもだめな子に注力できる。
どうぞ塾はがんばってくださいと思える。
究極は授業は全部塾でもいいんじゃないかとさえ思える。
(これも「手段でよい」と思う発想からです。)
>小学生が,「これは塾でやったから」などと嘯くのも
>この発想の弊害である。
これは別の害だと思いました。
「答えの出し方」しか学ばず、「なんでこういう答えが出るの?」を大切にしない方角から来る「害」だと思うんですよね。
>受験に合格するとか,資格を取得できるといったことは,
>その本来の勉強の「結果」として与えられるものであって,
>決して,そのことそのものが「目的」なのではない。
子どもたちにそのとらえ方をしてほしいのは「賞」だと思うのです。
あと、世の中は資格がないとかなえられない夢もあるわけで、やはり資格に向かわざるをえなくなっているのではないでしょうか。なにせ多様で複雑で、寿命80歳なんかじゃとても足りない世の中ですし。どうしても塾という人生の近道は必要になる(いや、これこそが悪いことなのかな。)
反対の考えを持っていたので、書いてみました。
本当に稚拙な文で申し訳ない。
ただしこれだけは言いたい。
ブロガーさんの意見にはいつも考えさせられ、
ブロガーさんが好きで書いてみたのだと。
決して敵対心ではないのです。
そのお考えを敷衍すると,学校のような非能率な組織は不要です。もっと能率的な教育システムは,民間でいくらでもつくれます。
もともと,学校は個人の「夢」を実現させるためにあるのではありません。「夢」の実現などというものを教育の目的にすえた時点で,学校教育の意味はなくなります。
ところが,学校自体が,一人ひとりの夢の実現などと学校教育目標で堂々と表明するようになっていることから,学校の価値の低下が起こってきています。
学校はあくまでも,公の観点から個人の成長を見ています。すなわち平和で民主的な社会の構成者としての個人という見方です。そのような社会の在り方として,個人の自由や平等を尊重しているのであって,社会に先立って,個人の自己実現があるのではありません。
そのあたりの混乱が,学校教育を困難にしています。
思うところを感じて、学校教育が持つ意味と勉強をする意味について記事を書きました。
TBさせていただけたら幸甚です。
高校3年生の2学期、担任の先生に進路を聞かれて、「家庭科が好きだからお手伝いさんになろうと思う」と答えたら、「学年で一番のあなたがもったいない」。そこで家に帰って両親に言ったら、薬剤師とか栄養士とか資格の取れる大学だったらいいと。
東京のサラリーマン家庭の、5人兄弟の娘が、それでも大学に入れたのは、国立大学の授業料が年間3万6千円だったから。そして、あのころの学校はそれだけの学力をつけることができたから。
そう、あのころにも「手段」として学校を利用していた人たちがいたのでしょうね。無知な私は知らなかったけれど。
・・とだけ言いますと御幣を生じる可能性があるのですが、学問をすることを否定しているわけではありません。
あなたのおっしゃるような状況により、学問がないがしろになっている状況には非常に危機感を覚えています。
私の考える目的は、「情報を集め、自分で取捨選択し、判断できるだけの力をつけること」なのです。
そのための判断基準を養うために必要だから、という位置つけで「学問の重要性」をとらえています。
また、勉強をする他の理由を考えてみますと、知識が増えることにより「子供のころから不思議だなぁと疑問に思っていたことについての答えを見つけることができるから」でもあります。
このように考えていきますと、現在の状況の本質的な問題点は、「手段と目的の転倒」により引き起こされているのではなく、「あまりにも短絡的に物事をとらえようとした結果」「本来の目的を見失ってしまう」ことによって引き起こされていると思います。