学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

受け身の学び

2014-01-25 | 教育
近頃,受け身の学びはダメで,主体的に学ぶ姿勢が必要だとか,アクティブラーニングでなくてはいけないというふうに言われることが多くなってきた。小中高大あらゆる学校種で,そのように言われ,授業改造が求められている。教師はファシリテーターでなくてはいけないというわけだ。これからの先の見えない時代,しかもグローバル化がますます進む時代にあっては,自ら新しい考え方を主体的に学びとっていく力が大切であって,固定的な受け身で身に付けた知識など役に立たなくなるという言説としっかりリンクしている。とても理解しやすい考え方なので,ひろく受け入れられている。あまり反論も聞かない。

しかし,あまり反論されないような教育理論はほぼ常に間違いであると思った方がよい。ところで,このような考え方を支持する人々は,本気で自らの学びを振り返ったことがないのだろうか。あるいは,主体的とかアクティブとかいうこと,受け身とかパッシブとかいうことの本当の意味が分かって言っているのだろうか。いつも不思議に思う。

受け身の姿勢は,我が国では古くから教えを受ける者の姿勢としてまず整えるべきものとされた。学ぶ者は,常に受け身でなくてはならない。虚心坦懐に師の言葉を聞く。そして,それが自分のものとなるまで咀嚼する。経書を虚心坦懐に読み,それを自分の生き方と重ね合わせる。己を空しうして学んだことこそ,己の血肉となり生きて働く知恵となり知識となり,人生の指針ともなるのである。いかに世が変転しようとも,長く尊ばれて受け継がれてきた考え方は,道標となるのである。我執を去り聖賢の前にひざまずくこと,それが学ぶということである。パッシブに徹してこそ,アクティブに生きる術を与えられる。そのことは昔の人は当然のこととして十分に理解していたはずである。いったい,その感覚は何処へ行ってしまったのであろうか。

今,言われている主体的な学びというものは,あまりきちんと学んだことのない学者どもが頭の中で練り上げた思いつき程度のものであろう。さもなくば,歴史を持たぬ人々の発想であろう。本当に受け身の姿勢で学ぶことのできる者は,ことさらに主体的な学びなどと称するものをしなくても,いや,むしろそのようながさつな学び方をしないほうが,主体的に生きることができるのである。

断言しよう。いまの学校教育の方向性,いわゆる主体的な学びをこれ以上推進すれば,己の過ちを正すことのできない不遜で無知蒙昧な人間を増やすことになろう。学力や学習意欲もみるみる落ちていくであろう。

多くの人がそのことに気づくときには,とりかえしがつかないことになっているかもしれない。


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3 Comments

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Unknown (madographos)
2014-02-28 19:08:36
>D様。コメントありがとうござます。あなたのあげた例は,このエントリーの反証にはなっていません。「きちんと学ぶ」ということがどういう意味なのかわかっていないと,解釈を誤るでしょうね。「自分の信じたことに真剣」ということなら,それは,「信仰」や「信念」で,「学問」における真理追求の態度とは相容れません。「自分と意見が違うだけで「学びがない」と人を馬鹿」にしているのではなく,「学び」の意味自体がわかっていないのです。受け身なき主体性などありません。そのことを踏まえないで,主体性ばかりを強調するのは,やはり,「きちんと学んだことのない」者の考えといわざるを得ませんね。もっと歴史を学ぶべきですね。
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 (D)
2014-02-28 10:13:26
ある少年がいました。
彼は幼いころに親しい人をすい臓で亡くし、以降、それにとらわれていたみたいです。
その結果、彼は十五歳で
すい臓がんを初期段階で発見する検査法を見出しました。
従来、そのがん検査には800ドルほどかかり、また30%以上が見落とされ、命を落としていったそうです。
(スティーブジョブスもすい臓ガンの発見が遅れたことでなくなりました)
ところがその少年の研究の結果、
1つの小さな検査紙で 費用は3セント、わずか5分でテストができるようになり、従来の方法と比べると、168倍速く、26000分の1以下の費用、400倍の精度で検査できるそうです。

学びは常に受動的である、といいますが
もし彼が受動的な態度のまま、学校の教師や教授から教わったままに生きていたら、今ごろもっと多くの方ががんでなくなっていたでしょう。

確かに武道や茶道においては型を守り、地道に練習をこなしていくのが
最も大事なことでしょう。
ですが、それだけが学びではありません。
医学、哲学、科学、芸術、音楽、政治、経済、デザイナー、プログラマー。
この世にはこうした各々の領域で、永遠に発展の余地があります。
先人たちももちろん素晴らしい業績を残してきたし、そこから学べることも非常に多いでしょう。
ですが、彼らだけがその領域の全てではありません。
むしろ彼らと同じ視点に立たなかったからこそ、全く違う角度から視点を変えて見れたと言えるでしょう。
(15歳の彼がその典型的な例です)

「きちんと学んだことのない学者ども」という言葉が気に障りました。
本当に彼らと心を割って話し合ったのでしょうか?
私には、自分の世界に閉じこもった人の言葉に見えます。
自分の価値観だけで相手を判断していませんか?
あなたは学校の教育に対して、強い思い入れがある。
ですがそれはあなただけではない。
あなたがとるに足らないと思っている人たちの中にも、それぞれ自分の信じたことに真剣です。自分と意見が正反対であっても、しっかりと話を聞き、相手に向きあうことを忘れない人もいます。
私の観点からすれば、
自分と意見が違うだけで「学びがない」と人を馬鹿にする、あなたの方が傲慢に見えます。

言葉が厳しくなってしまい、失礼致しました。
私の知り合いを侮辱されたような気がし、
ただ黙っているわけにはいきませんでした。
お許しください。
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守・破・離 (タナトス)
2014-01-30 22:11:02
 武道、茶道など、まずは先人から伝わる地味で単調な練習に身を捧げ、決められた型を黙って「守る」ところから修行が始まります。ここでは、もっと面白くとかもっと楽しくとか言わずに、与えられた型をひたすら繰り返し、身につけることが要求されます。およそ受動的といってよいでしょう。

 その型を身につけた後、深く研究して、自分に合った型を創ることにより、既存の型を「破る」のです。

 最終的には先人の型を破り、自分自身が造り出した型の上に立脚し、自分自身と技についてよく理解し、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができるというわけです。

 短い人生において、ほとんどは「守」の修行に費やされて、「破」や「離」は望むべくもないのかもしれません。
 しかしながら、型を十分に習得しない段階で、能動性を求めて何の意味があるのでしょう?

 「授業の主体は生徒なのだから、生徒に活発に意見を言わせて授業の主役に位置づけよう!」などという耳障りよく、軽率な発想から生まれた無内容な鼓舞のように思われて仕方ありません。

 そもそも「受動的」はネガティヴワードではありません。学習において、地味な作業に愚直なまでに黙々と淡々と愚痴を言わず取り組んでいくことの尊さを何故教えないのか?不思議です。

 子どもたちに主体的な学習態度を身につけさせよう!という方向性が、「子どもたちの『なぜ』を大切にしよう!」という愚かな合唱になり、いかに現場は迷走したことか?
 山本夏彦氏は、「未熟な子供が発する『なぜ』は、そもそも『なぜ』ではない。これらを承知した上で、なお釈然としない『なぜ』が本当の『なぜ』である。早く『なぜ』を連発した子供は、大人になって本当の『なぜ』を発することがない。

先生が子供たちに意見を言わせ、それをディスカッションと称して聞くふりをするのは悪い冗談である。意見というものは、一通りの経験と常識と才能の上に生じるもので、それらがほとんどない子供には生じない」と言っています。
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