学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

わかる授業?

2005-07-21 | 教育
最近,「楽しくわかる授業をしましょう」というような
お話をよく聞くようになった。

今日は,この言葉のうち,
「わかる授業」について考察する。

思うに,
授業がわかってしまっては,実はいけないのである。

まず,「わかる」ということであるが,
世の中には,容易にわかることと容易にはわからないことがある。

授業内容にも,容易にわかることと,
容易にはわからないことがある。

さらに,「わかる」「わからない」は,
生徒個人個人によって異なるのである。

概して,価値ある事柄は,
誰にも容易には「わからない」ようにできている。

この「わからない」ことを「わかろう」とすることから,
「学び」が始まるのである。

そして,本当に学び始めた者は,
自分の前に無限の「わからない」ことが横たわっていることに気づき,
慄然とする。

そこではじめて,自分の愚かさに気づき,
自分を取り巻く自然の神秘や,人類の英知に対して
頭を垂れる謙虚さをもつようになるのである。

自分はまだ何もわかっていないのだということを知るために「学ぶ」のである。

教師が,「わかる授業」を工夫するなど
「学び」の破壊以外の何者でもない。

授業のなかに,深遠な真理の一端があるとすれば,
その授業は,必ず容易には「わからない」授業になるはずなのである。

そのような授業の「わからなさ」から,「学び」は始まるのである。
このような「わからなさ」に立ち向かう気構えのない生徒は,
そもそも「学ぶ」資格がないのである。

「学ぶ」資格のない生徒が「わかる」ようになると信ずることは
むしろ教師の傲慢である。

安易に「わかる授業」は,「学び」を終わらせてしまうのである。
生徒は,世の中が「わかる」ものだと思い込み,
世の中の価値の本質をさえ見誤るようになる。

このことが,知性の崩壊の危機をもたらすのである。

教師は,安易に「わかる授業」を追求することをやめるべきである。
教師自らが,「わからない」ことに対して謙虚であるべきである。

生徒は,授業は本来わからないものであることを銘記すべきである。

「わからない」授業と真剣に格闘してはじめて,
真理は,あなたに対して一瞬だけ微笑むであろう。
「わからない」闇のなかで,「わかった」と思える一瞬,
それが「学び」の喜びなのである。

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2 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (madographos)
2007-04-03 23:12:55
>matoさま。コメントありがとうございます。「わかった」と思える一瞬は,学ぶ者自身が掴み取るもので,学校や教師はそのための手助けはできますが,その一瞬を与えることはできません。その意味では,生徒が「わかる」ことを,教師が完全にコントロールすることは,究極的には不可能でしょう。それならば,学校は不要だとおっしゃるなら,学校は不要です。
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通りすがりで (mato)
2007-04-03 18:51:17
通りすがりで失礼します。
委細は存じ上げませんが。

「「わかった」と思える一瞬」は、誰がどこでどうやって、生徒に示すのですか?
生徒の自己責任でその「一瞬」を自分でとらえるべきなのでしょうか?
それなら学校は不要ですね♪

わかったと思える一点(一瞬)、わからないものにぶつかり考えあぐねる線(伏線)。その点と線を教師がコントロールし、授業(や生活)に組み込むなら、それは立派な「わかりやすい授業」と言えると思います。

私は、教育職でもなんでもなく現場を知りません。無知ゆえの失礼な発言だったらご容赦ください。


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