教育書をみても,教育雑誌をみても,
優れた授業ばかりが紹介されている。
研究授業や研究会でも,
優れた授業ばかりが紹介されている。
でも,大切なのは,
準備に膨大な時間をかけた優れた授業ではなく,
毎日毎日繰り返される普段の授業なのだ。
準備時間も十分とれず,教材研究もままならぬ
そんな普段の授業の質を確保することが
もっとも大切なのだ。
ところが,その方面の研究にお目にかかったことがない。
優れた授業や目新しい実践などに
目を向けるのはやめて
普段の授業の充実にこそ
教育界はその研究の重点を移すべきではないか。
優れた授業ばかりが紹介されている。
研究授業や研究会でも,
優れた授業ばかりが紹介されている。
でも,大切なのは,
準備に膨大な時間をかけた優れた授業ではなく,
毎日毎日繰り返される普段の授業なのだ。
準備時間も十分とれず,教材研究もままならぬ
そんな普段の授業の質を確保することが
もっとも大切なのだ。
ところが,その方面の研究にお目にかかったことがない。
優れた授業や目新しい実践などに
目を向けるのはやめて
普段の授業の充実にこそ
教育界はその研究の重点を移すべきではないか。
興味深く拝見させていただいています。
優れた授業ばかりが紹介されて、普段の授業に関する研究がないということですが、少し私の考えを。
ものにもよると思いますが、紹介されている授業というのは、普段の授業で優れた授業をされているから紹介されているのだと思います。
私が実際に見学に行った中学校の英語の授業(今年から関西大学に移られた田尻悟郎先生)は、普段の授業がすばらしかったです。英語の授業のなかで生活指導(人間教育というのでしょうか)もしっかりされていて、「これが本来の教育なんだな」と思いました。
具体的にどんな授業のことをおっしゃっているのか分かりませんが、私が思うに、普段の授業と各方面で紹介されている優れた授業というのは、立場は同じではないかということです。
そして、授業のテクニックや制度の問題だけではないと思っています。
各地で開催されている研究会などに行くと、その辺りがよく見えます。
文意を間違って解釈していたらすみません。
すこし気になったのでコメント残してみました。
長々と失礼致しました。
東大の佐藤学氏が「年に一度のフランス料理よりも、普段のお惣菜の授業を大切に」といった趣旨の発言をしていました。
研究授業や授業参観というのは、やはり年に数回のイベントといった意味合いがあるので、どうしても入念な準備がなされるものになりがちです。
醜態をさらしたくないという教師の本音もありますし、入念な準備をする中で学ぶものもたくさんあるのも事実でしょう。
しかし、このブログで以前書かれていたように、我々は日々の業務に忙殺されて、ろくな教材研究もなしに教壇に立つことが少なくないのですから、その中でも一定のレベルの授業を行うスキルを身に付けていくことは非常に重要だと思うのです。
食事にたとえれば、毎日の食事に手の込んだフランス料理や会席料理を出し続けることは不可能です。普通の主婦でも可能なように、簡単で栄養もあって、それなりのおいしさも備えたお惣菜の作り方を覚える方がはるかに現実的ですし、それでも子どもは十分成長していけるのです。
私は現在、算数の授業などでプロジェクターとプレゼンテーションソフトを用いた実践を行っています。作成にはかなりの手間がかかりますが、一旦作ってしまえば、あとは何度でも再利用できるし、他人がそれを応用して同レベルの授業を行うことも可能です。
こういったコンピュータを利用した教材の共有化がもっと進めば、誰でも一定のレベルの授業を行うことが可能になるのではと考えています。(もちろん、これだけで十分とは言いませんが)
仰々しい研究発表よりも、普段の授業を支えるネタを気軽に教えてもらえる場が増えていくことの方が、はるかに重要ではないかと私も感じています。
昔、「一年間受け続けることで生徒に力が付く授業が良い授業だ」と言われたことがあります。
ショーのような研究授業はキライです。「全英連(これ、略称)大会」などにいくと、「このために○○先生は1年間どうのこうの大変努力された」というコメントが指導者(大抵は大学の先生)から入ることがありますが、それってちがうよな、と思います。
1時間の授業に、数時間の事務処理的準備(小テストの作成、点数転記、授業プリントの製作を含めて)が要る授業もイヤです。(はっきり言って、私のようなふつーの能力、体力の者にはムリだし、本末転倒の気がする。)出来合いのコピー可能プリント教材、ソフト教材はどんどん増えています。しかし、印刷の手間だって、度重なればバカにならないし、授業が「トレーニング」になるだけです。「トレーニング」は家庭学習でやって欲しい。
そんなヒマがあったら、じっくりと教材研究をした方が良い。辞書や参考文献を調べたり、他の先生と「この単語は一体、なぜここで使われているのでしょうかねぇ。筆者は何を意図したのでしょうかねぇ」など議論するのは、大事なことだと思います。(まあ、私は高校教員だから、余計にそう思うのかも知れないけど。)
しかし、正直言って、後者の時間(調べ物など)より、前者の時間(事務処理的仕事)の方が多いかもしれないのが現状です。それに、空き時間も少なくなりました。これは、他の先生と議論したり教えてもらったり教えあったりする時間が乏しい、或いは、ほとんど無くなったことに繋がります。
現場で、しかも公立校で続けることに、こだわりをもっていらっしゃいました。
公立でも、荒れた学校でもできる。私立でやっても「私立だからでしょ」と言われるのがわかっていたからでもあります。
しかし・・・どんどん有名になっていくにつれ、英語教育だけでなく、その他のことでの講演依頼や研修の講師で呼ばれることが多くなり、田尻先生ご自身も「自分の進むべき道はどこなのだろうか」と悩まれていました。
そして、周囲のことばや現状を考え、最終的に教員の養成に力を注ぐことを決断されたのです。
「多忙だからできない」というのではなく、まず授業を変えていき、生徒たちが「授業がおもしろい」と思うようになれば自学も行うようになり、その親も変わっていく。そうすれば、背中を向けていた他の教師も「一緒にやろう」という気持ちに変わり、良い循環になっていく。
生徒指導で追われたり、事務処理に追われる、その順番をまず教材研究を一番にもってくることで変わる。
そうおっしゃっていました。
そうやって、荒れた学校を立て直していかれたのです。
ですので、浪費社会さんがおっしゃることもわからないではありませんが、私は田尻先生の決断は本当に辛いものだったと察しています。
現場で後輩を指導するにも、人数に限りがあります。
大学で教員を指導すれば、その何十倍もの教員を育てることができ、生徒も今までの何十倍何百倍と育てることができます。
現場で生徒と過ごすことが一番好きだった教師が、それをあきらめて指導者一本の道を選ばなくてはいけないその気持ちは、教師である人ならご理解いただけるのではと思います。
具体的にどう動けばいいのかということは、あちらこちらでお話されていますので、ぜひ直接ぶつけていただけたらと思います。(すべて書くことはこのスペースでは不可能ですので)
参考になるかどうかわかりませんが、
「ゆかいな仲間たちからの贈りもの」日本文教出版
http://www.amazon.co.jp/%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E6%95%99%E8%82%B2%E3%82%86%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%AA%E4%BB%B2%E9%96%93%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E8%B4%88%E3%82%8A%E3%82%82%E3%81%AE-%E8%8F%85-%E6%AD%A3%E9%9A%86/dp/4783010226/ref=sr_1_1/503-5814039-5150338?ie=UTF8&s=books&qid=1194024427&sr=1-1
をお読みいただけたら幸いです。
他の方のコメントにあるような現場の教師の不満をたくさん私も聞いてきましたが、その度に「教材研究」を優先順位にもってくると言われた田尻先生の言葉を思い出します。
すみません、うまく言えません。
どこまで伝わるか心配ですが、なにかを感じ取っていただけたらと思います。
長々と失礼しました。
わが校でも研究発表会を毎年11月にしています。しかし、発表会のあり方や公開授業には大きな疑問を持っています。
研究発表会のための準備は夏休み前から始まります。夏休みは研究テーマに沿った内容の研修講座出席の割り当てが始まります。校内研修も連日のように行われます。外部講師(多くは指導主事や教育センターの講師)を呼んでの校内研修もあります。今年は8回ありました。8月初めからは、指導案づくりが始まります。校長や講師の意に沿った指導案を作らなくては後々めんどうです。校長は、はっきりと「研究会では見せる授業をすること」という指導を繰り返します。 できあがった指導案は、学年会で検討された後、教務主任・教頭・校長の点検を受けます。それが、外部講師のところに送られ指導を受けます。指導を受けたことを修正して再度、教務主任・教頭・校長の点検を受けます。
8月下旬には、研修会参加者による全体報告会が始まります。それが終わったら、指導案の校内研修会です。この全体発表がすんだら、クタクタになったまま2学期です。
研究発表会の1ヶ月前になったら「校内掃除強化月間」が始まります。窓をみがく週間・床をみがく週間・黒板の上や蛍光灯のほこりをとる週間などが決められていて、生徒指導の先生が点検に回ります。
1週間前になると、チェックリストが配られます。その項目は何と50項目もならんでいます。中には重箱の隅をつつくようなことまで書かれています。
・置き傘入れの傘はきちんとまかれているか
・教室の職員戸棚は整とんできているか
・掲示物の押しピンはそろっているか・・・・ここまで来るとバカバカしくてやってられません。
今まで「優れた授業を紹介できる人は普段の授業もすばらしい」と思っていました。しかし、この県にかわってからは「優れた授業を紹介できる人は、自分で考えることの出来ないバカか、上ばかり見ているヒラメ教師」と思っています。
研究会の日の授業は「指導案」という台本どおりのショーが繰り広げられます。
自己研鑽は教員が
>準備時間も十分とれず,教材研究もままならぬ
中、
>そんな普段の授業の質を確保すること
だと思います。
ただ、そういったことに対して、「マネージメントができていない」というのが学校や教委の現状であり、そこが問題だと私は感じています。
下手をすると、マネージメントする側の都合で研究が成立し、授業者はなんの研鑽にもならないなんてことがよくあります。
そういう意味では、官製の研修、研究などはほとんどそうかもしれません。(民間で酷い場合もありますが、比較的、ですね。)
事務仕事と割り切っていますが、そういったものも新鮮で期待してしまう若い人たちはかわいそうかなと思います。
研究発表会なんて、周年行事もあるのだから10年に一辺くらいでいいのに。
管理職の得点稼ぎになるから・・・。
そんなことを考え込んでしまいました。
環境は最悪、周囲の理解も親の理解も、最初は全然ないところから始めています。
「この人だからできるんだ」という解釈は、うまくできない理由を周囲の責任にしてしまって、自ら環境を変える行動を起こさない方々の言い訳に聞こえてしまうんです。(きつい言い方になってしまってすみません)
それから、授業は「ショー」ではありません。
地道に活動してきた成果を報告し、少しでも参考になればとの思いでされていることだと思います。
中には有名になることが目的のような人もいるかもしれませんが、ほとんどの人はそうではないと思います。
また、自分の研究の成果や授業などをより多くの人に伝えて、みんなが子どもたちにとって良い授業ができるように、書籍にしたり講演したりしているわけです。
物語にしてしまったり、ある種のスターのような扱いをするのは低俗なメディアのみです。
現場の教師はそんなメディアのすることに惑わされることなく、子どもたちに目を向けてほしいと思います。
優れた授業だといわれるには、賛否はあるでしょうが、なにかしら良いところがあるから優れているといわれているのです。ならば、参考にしてマイナスになることはありません。
まず、「どんなことをしているんだろう」「どうすればこんな風にできるんだろう」「うちの学校で参考にできるものはないだろうか」「自分だったらもう少しアレンジしてできるかも」「これはよくないけど、ここの部分はよくできている」といった感じで、優れた授業をする教師や学校の事例を、自分なりに分析して自分流にアレンジして取り入れることをお勧めしたいと思います。
「フツーの能力しかない自分にはムリ」
とあきらめてしまうのはどうでしょう。
そこは教育のプロとして、失格だと思いませんか。
企業のサラリーマンは、「自分にはできません」という言葉は通用しません。「できないなら辞めろ」です。
プロである以上、年齢も経験数も関係ありません。
結果を出すよう死に物狂いでやるだけです。
現状でできることを最大限に生かすよう、研究し実行し、実現させるのです。
言うことは簡単ですが、行動に起こすことは本当に大変です。
でも、根っこのところは同じではないでしょうか。
「子どもたちが社会に出たときに、一人でしっかり生きていける力をつけさせてあげたい」
この気持ちが強ければ、最初は周囲の理解を得ることは大変でも、必ず子どもたちが変わってくるので、そうすれば周囲の批判的な人たちも変わらざるを得なくなってきます。
ぜひ、そういった気持ちで現場の先生方に取り組んでいただきたいと思います。
仕事がたくさんあってムリ。その前に教員を増やせ。
いろいろ不満はあると思いますが、だからといってあきらめてしまうことのないようにお願いしたいと思います。
評価をするのは子どもたちではないでしょうか。
優れた授業の定義は様々でしょうが、しかし、そういった授業は「子どもたち」の目が違います。積極的に授業に参加しています。学力もついています。
それがなによりの証拠であると思います。
どんな報告書を作っても、それが本物であるかどうかは、その授業を受けた子どもたちを見れば一目瞭然。
その見極めができるなら、自分も行動に起こし結果を出すことはできるはずです。
「これが本当の教育だ」というところを、ぜひ一人ひとりの教師が、勘違いだらけの教師に見せてあげてほしいと思います。
いつも長文ですみません。
どうも基準が教師側に設定されていて、生徒側に立っていない気がするんです。
今ある自分の能力を最大限に活かし、またそれ以上のものを習得しようとすることは、ごく当然のことではないでしょうか。
普通の努力とはどういうことでしょうか。勤務時間内に教材研究し、授業が出来ることでしょうか。
一般企業では、そんなことありえません。
何日徹夜が続いても、そのプロジェクトを成功し利益をあげることが最優先です。どんなに徹夜仕事をしても、結果を出さなければ給料も上がりませんし、左遷、ひどいときはリストラです。
「普通の努力」なんて言葉は使いませんし、使った人は即戦力外通告。
「普通の仕事」なんてものもありません。そんな言葉は存在しません。
みなさんは何を求めているのでしょうか。楽をしたいのですか?それとも子どもたちにきちんとした教育が受けさせられるようにしたいのですか?
madographosさんがおっしゃる研究発表に意味を感じないというのは、本当に全てでしょうか。だとしたら、よほどひどいものしかご覧になっていないんですね。ならば、もっといい研究発表会や研修会を見られたほうがいいと思います。
全てを自分より大きなもののせいし、批判的に見るのは建設的でないし、同じことを言い合うだけで何の解決にもならないと思います。
「優れた授業」は「普通の授業」ではないのですか。
大きく取り上げられたら「普通の授業」ではなくなってしまうのですか。
では、その授業を受けているのは「優れた生徒」なんでしょうか。
いえ、普通の生徒です。優劣はありません。みんな一人ひとりの人間です。
「優れた授業」と呼ばれるものとみなさんがされている「普通(普段)の授業」をなぜ別物と捉えてしまうんでしょうか。同じ「授業」ではありませんか。
普通ってなんでしょう。
普通の能力ってなんでしょう。
普通の授業ってなんでしょう。
私には、みなさんのおっしゃる「普通」が理解できません。
どなたか明確な答えを教えていただけないでしょうか。
みなさんのコメントを読む限り、研究発表会自体を否定されたり、「優れた授業」なんて現実的ではないと、実践されている教師をまるで存在しなかったもののように思われているようでしたので。
しかしながら、大規模でなくとも草の根的な研究会やワークショップはたくさんしていますので、外の活動を見ることで勤務校を客観的にみることもできると思いますよ。ほんとうに全ての研究会がダメなんでしょうか。
それぞれの学校に合わせた授業研究をするヒントとして、いろんなところから良いところを積極的に取り入れていくことができ、自分の授業を公開し、いろんな意見を言ってもらうことで、より良い授業が生まれていくと思います。
>ある方法がすべての学校にあてはあるわけではありません。
これは私のコメントにも書いていますが、上記は当然のことで、勤務校でも取り入れられるものであれば、それによってより良くなるのなら、どうもっていけばいいだろう、とアレンジすることが大切ではないでしょうか。そこを読み取らず全否定されたのはとても残念でした。
それでも、「普通」の意味はまだわかっていませんが。
これ以上は、深みにはまってお互い不愉快な思いをするだけになってしまいそうなので終わりにしたいと思います。
優れた授業っていったいどんな授業なんでしょうか。
私は、そんなことに精を出すより、ウサギ小屋のウサギさんが飢え死にしないように子供と一緒に世話のできる先生が必要だと思います。
またまた、うちの地区だけのことですみません。
>優れた授業より普段の授業
この命題は論理的に破綻している。
「優れた授業」を持ち帰り、それを「普通の授業」で活かすことができて、「優れた授業」なのである。
そうでない授業は、、「優れた授業」などといわない。
一昔前は教師の仕事は気楽で、休みもたっぷりあって給料も高いといったイメージがありました。元教師の本には「教師という仕事はいったん採用されたら、何の努力もしなくても続けていくことが可能なのだ。」とさえ書かれていたぐらいです。
今やそんな話は遥か昔で、教育現場は過労や精神的疲労のため、病休者が珍しくない状況に置かれています。それも本来の仕事である授業や教材研究によるものではなく、問題行動や不登校への対応、様々な雑務、発達障害を抱える子どもへの対応、いくつもの行事の準備、クラブ指導、理不尽な要求をする親への対応など、数多くの課題に忙殺されている結果なのです。
いきおい、人間の処理能力には限界がありますから、これらの課題をこなしつつ教材研究もきっちり行うというのは物理的に不可能です。もしできる人物がいるとしたら、睡眠も休息もとらずに働ける超人的な体力の持ち主なのでしょう。
私は最初のコメントで授業を食事に例えましたが、料理を作ることに専念できるなら、毎日豪華な食事を出し続けることはあるいは可能かもしれません。
しかし、世間の大半の主婦がそうであるように、洗濯も掃除もパートの仕事もこなしながら作る食事は、「普通の」人間が作れるものでなければとても続かないのではないでしょうか。これがみなさんの言う、「普通」の意味だと私は捉えています。
勤務時間内に教材研究が終わるなどという、恵まれた環境にいる教員がいったいどれだけいるのでしょう?むしろ、教材研究以外の雑務だけで何時間も残業しているのが我々の現状です。だからこそ長時間準備せずとも、一定の成果が得られる授業の研究が必要なのです。
これまでの多くの研究授業は、多大な労力と時間を費やして準備されているのが普通です。ある意味、それだけの準備をしていればいい授業ができて当然なのです。(田尻先生の授業の事は存じませんが)
それは高価な材料と十分な時間が与えられれば、素人にでもおいしい料理が作れるのと同様です。しかし、そんな贅沢な料理をいくら研究したところで、毎日のお惣菜を作れる技術の向上に役に立ちはしません。(実際、研究発表が終わった途端に実践が廃れてしまった学校はいくつもあります。)
madographosさんのいう「優れた授業」とはこういうものを指すのではないでしょうか。yoshyさんの職場などでは、教育委員会や校長のメンツのためのご馳走作りに、毎年多大な労力を費やされているのでしょう。本来子どものためにあるべき授業が、行政側の点数稼ぎに利用されているというのも学校現場の実情です。
私たちは決してあきらめてはいませんし、楽をしたいとも思っていません。ただ、労力を費やすなら真に子ども達のために役立つことに使いたいのです。そして、できれば健康に生活できる環境の中で仕事を続けていきたいと願っています。
長文失礼しました。(蒸し返しになったようでしたら、申し訳ありません。)
『何日徹夜が続いても、そのプロジェクトを成功し利益をあげることが最優先です。どんなに徹夜仕事をしても、結果を出さなければ給料も上がりませんし、左遷、ひどいときはリストラです。』とありますが、残業手当はきちんと払われているのですか。労務管理はきちんとされているのですか。一般企業はそのような理由でリストラできるのですか。
SOSさんが言われるような企業があるとしたら、明らかに不当労働行為です。大きな犯罪です。実際、私の地元の会社は、不当労働行為で告発され、11億円を労働者側に支払いました。
労働基準法も守らない会社を「一般企業」と言わないで下さい。ましては、教員の仕事をそれを基準に話をしないで下さい。
自分自身、いつ過労死の問題が起こってもいいように記録だけはしっかりしておこうと思って、5年前から記録をとり始めました。昨年は、時間外勤務が645時間と持ち帰り残業が238時間ありました。私など少ない方です。軽く倍以上働いている人がいます。「毎日自転車だね。倒れたら起きられないね。」と話をしています。
概算ですが、時間外勤務645時間の8割、持ち帰り残業238時間の4割が、授業に関わること以外の仕事でした。別に残業手当が出る訳じゃないけれど、子ども達のために「普通の授業」で「分かる授業」「楽しい授業」をやりたいと思って毎日がんばっています。
今年は「普通の授業のための準備の時間を増やして下さい。」とサンタさんにお願いしようと思います。