最近,問題解決能力の育成ということが
よく言われる。
これからの世の中には,
単に知識を詰め込むのではなく
主体的に問題解決する力が必要だというのだ。
この議論は,一見もっともらしいが,
果たして「単に知識を詰め込む」といったことが
可能なのだろうか。
いわゆる詰め込み教育と言われるものでも,
覚えるためには,その覚えるべき対象を
関連付けたり,分類したり,
因果関係を考えたりして,
ある程度整理した形で
頭の中に入れていくはずである。
昭和40年代のいわゆる現代化カリキュラムで
教育を受けた世代は,
最も過酷な詰め込み教育を受けたはずだが,
果たして,その世代の人間は,その後の世代と比べて
問題解決力がないであろうか。
冷静に歴史を振り返ってみて,
わが国で最も問題解決能力のあった世代は
どの世代かを考え,
その世代が受けた教育を真摯に分析することなしに,
問題解決能力の育成を可能にする実効性のある教育の姿は
見えてこないはずである。
にもかかわらず,
どうも理論倒れの
ふわふわした問題解決能力の育成が
唱えられているが,
今の教育現場の姿のような気がする。
またも「はいまわる」総合的な学習や
「はいまわる」経験主義になってしまうのではないか。
そうかなぁと思った方は,上のふたつのクリックをよろしく!
よく言われる。
これからの世の中には,
単に知識を詰め込むのではなく
主体的に問題解決する力が必要だというのだ。
この議論は,一見もっともらしいが,
果たして「単に知識を詰め込む」といったことが
可能なのだろうか。
いわゆる詰め込み教育と言われるものでも,
覚えるためには,その覚えるべき対象を
関連付けたり,分類したり,
因果関係を考えたりして,
ある程度整理した形で
頭の中に入れていくはずである。
昭和40年代のいわゆる現代化カリキュラムで
教育を受けた世代は,
最も過酷な詰め込み教育を受けたはずだが,
果たして,その世代の人間は,その後の世代と比べて
問題解決力がないであろうか。
冷静に歴史を振り返ってみて,
わが国で最も問題解決能力のあった世代は
どの世代かを考え,
その世代が受けた教育を真摯に分析することなしに,
問題解決能力の育成を可能にする実効性のある教育の姿は
見えてこないはずである。
にもかかわらず,
どうも理論倒れの
ふわふわした問題解決能力の育成が
唱えられているが,
今の教育現場の姿のような気がする。
またも「はいまわる」総合的な学習や
「はいまわる」経験主義になってしまうのではないか。
そうかなぁと思った方は,上のふたつのクリックをよろしく!
>>果たして「単に知識を詰め込む」といったことが可能なのだろうか。
教育内容の変化というよりも、むしろ、どれくらいのスパンで効果を観るか、あるいは、子どもや教師、学校に対する見方の変化が、知識詰め込み型教育というへんてこな言葉を流通させている原因に思えます。
これは教育という分野以外からの影響も大きいように思います、自律を許してくれない雰囲気の一つかもしれない、とか考えてしまいました。
単に「詰め込む」か、あるいは他のことと関連付けるか、が重要なのではなく、それを生徒が自分でできるかどうかが問題なのでは?
関連付けた方がよいと考えて自分で関連付け方を工夫できればよし、丸暗記した方がよさそうだと考えてそうできるならそれもよし、だと思います。
私も教育関係のブログをはじめた所で、色々なブログを見ているところです。
またお邪魔しますね。
ただ、勉強に限らず自分でできる力というのは一朝一夕で身につくものではなく、自分自身で何かを試行錯誤したりする中でだんだん養われていくものですよね。
「子どものために」なんでもしてあげようとしすぎるから、逆に子どもが自分でできなくなってしまっている、とも考えられるのではないでしょうか?
そういう意味では教育者が教育の限界を知ることも必要だと思います。
私のブログをリンクしておくので暇なときにでも見に来てくださいね。
ではまた。
小さい頃からやれば、きっと・・・
科学的な根拠があるにしろないにしろ、幼い頃の環境は大切だと思います。その大切さをどう考えるのかで、きっと・・・以下が人によって違うのかもしれません。
教育は、当事者以外にとっても夢・希望を抱かせてくれる、これはきっと事実でしょう。ただ、自分の学校時代を振り返った場合、同じくらい夢も希望もなかったことも事実であって、それは、生徒としての自分が夢を描いても、つまり、得るものばかりを希望してもうまくいかないことがわかっている。それは、失うものもわかっているから。だから浮かれたり不安になったりする。夢も現実もある。未成年でもこの点は十分承知している。
およそ教育について語る場合、私とかそういう当たり前のことを忘れてしまいますねえ。いい大人のくせに、気をつけていても高揚してしまいます(笑)。だから、ここのコメントでもいつもご迷惑をおかけしております。でも、この教育というイメージの不思議な力、すごいですね。
何が得られるのかしか考えられなくなって、何を失うのかとか考えられなくなりますから。
今の少し奇妙な現実を考えてみるという前提の段階から、根本的な事柄を再度考えてみるという方向に向かっていくと良いですね。
そして、教育者、親は、
子供の機嫌をとることが優先になっているような気がします。
最近の『詰め込み教育』と、
昔の『詰め込み教育』は、
少し違うような気がしますね。
昔は、『詰め込まれるためにも考える』ことをしたと思います。
いまは、本当に、すべて受動的な、
『詰め込み教育』であり、
そして、『点をとらせる教育』のような気がします。
最近の子供たちは、
『答えを簡単にだせる公式』というものを、
教えてくれる先生が、『わかりやすい先生』で、
時間をかけて、答えをなかなか教えない先生が、
『わかりにくい先生』という風になっているようです。
「どうして学ばなければ、教えなければいけないのか?」という問い自体が、「どうして人を殺してはいけないのか?」という問いと同じくらいナンセンスなことだと実感させられます。
教育は人を生かすことであり、それはまさしく生きることであり、そこに優劣を差し挟む余地はく、いや、考えるまでもなく、その点で、生命の価値と同様なのかなと勝手ながら思いました。
私たちの生きることにたいする態度が、総体として日本の教育の方向性に反映されているのだとするなら、僕自身反省するところが多々ありそうです。
ありがとうございました。
あ、遅れそう、では(笑)。
お忙しいなか,コメントをありがとうございます。恐縮しております。
「思うすきまもなく
学びひたり
教えひたっている,
そんな世界」
思うすきまもなく、というところと、ひたる、というところが、とくに好きです。