学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

自分さがし?

2005-12-21 | 教育
どうも「自分さがし」という言葉になじめない。

自分など,さがさなくてもここにいるではないか。

ここにいる自分以外に,自分などはどこにもいない。

この自分を離れて,自分を考えることはできない。

どこかに,よりよい自分がいるわけではない。

この自分をどこまでもひきずっていくだけだ。

ただ,ひたすらに黙々とひきずっていくのだ。

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6 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (madographos)
2006-01-06 11:50:27
>SHIN様。コメントありがとうございます。自己を問いすぎるというのも,考えものですね。
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Unknown (madographos)
2006-01-06 11:49:18
>MK様。コメントありがとうございます。勉強になります。
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Unknown (SHIN)
2006-01-04 14:32:09
自分探し。



これは、自己分析がままならない、まわりに流されまくっている若者のための言葉でしょうか。



なぜ大学へいくのか?という問いにたいして、ほとんどの人が、

『みんな行くから。』と答えるのではないでしょうか?

『就職するなら大卒でないと。』と答える人もほとんどでしょう。



自己分析。つまり客観的に自分を見つめること。

常日ごろからやっておかなければならないことですよね。
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ポンティ自分 (MK)
2006-01-03 12:42:46
メルロ=ポンティは、身体を強調しますね。あるべき自分などという場合の自分を、身体に求めるのです。野球少年がイチローにあこがれたとき、イチローは彼にとって未来となる。現在するイチローが未来を形成する。そして、自分の身体が、過去と現在を形成する。私たちは、過去という身体をみつめ、未来として現在する未来=現在をたえず、めがけ現在を生きると現存在を斬って見せました。ところで、未来は存在するのでしょうか?いま存在するのでしょうか?過去はいま存在するのでしょうか?現在はたえず流れていく今です、はたして存在するのでしょうか?ポンティは存在しつつ、存在しないと答えています。ここに「私」は「ある」、といえば言えます、しかし、それはたんにあるのでしょうか?現象学と称するフッサールやハイデッガー、サルトル、ポンティといったいまや古典になるつつある現代思想はないという形である、という、解答をしているように見えます。それを、カントならば超越論的存在とでもいうのでしょうか。
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Unknown (madographos)
2005-12-23 11:47:58
>こばこば様。コメントありがとうございます。おっしゃるとおりだと思います。自分を対象とする視点は,あくまでも副次的なものであるべきだと考えています。
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Unknown (こばこば)
2005-12-22 00:45:08
同感です。自分探しや自分らしさを求めるのは、今の自分を認められない、認めたくない、本当の自分はもっと別のところにあると思うからです。しかし、それっておかしいですよね。でも、無理もないのかなとも思います。他者からなかなか受け入れられず、そして、自分自身、生きていく糧や原動力を得られない状況の中では、自分を受け入れることも自信ももてない人は特にそうです。

自己を受け入れ、自分くずしと自分づくりを行うことでしか、自分で自分を支え、成長していくことができないのが本当なのですが。

そういうことを理解できるようになるには、時間がかかるのかもしれません。
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