先ほど無事に帰宅した。
2泊3日の沖縄旅行、無事故の御加護を頂戴した御本尊様には感謝の念に絶えない所であります。
楽しい旅行であったなら、その時に撮影した写真も交えて紀行文を寄稿するところでありますが、あいにくとそこまで楽しいものであったかと言われると、正直首を傾げざるを得ません。
よって、写真は最低限に、弟の結婚式に参加してみての感想だけを、まずは書きたいと思います。
参加者は親族のみ。
新郎側は実兄の私、両親、そして母方の伯母。
新婦側は両親と妹夫婦。
妹夫婦も結婚して2~3年ほどになり、まだ子供はいないらしい。
つまり、参加者の中で独身者は私だけしかいない。
このアウェイ感は半端無かったね。
結婚式は10月31日に執り行われたのだが、その前日の30日の夜に、皆で前夜祭的な食事会をしようということになった。
新婦とその両親を乗せた飛行機が、乗り継ぎ先で欠航するというアクシデントはあったものの、何とか食事会には間に合った次第。
私以外の家族は盛り上がっていたのだが、42歳独身男には振れるネタが無かったのか、まあ、浮いてるの何の。
新郎の実兄とはいえ、弟の新婚相手に気安く話し掛けるのもどうかと思ったし、かといって義妹夫婦とも共通のネタが無いわで、あー、こりゃ御祝儀だけ渡して、俺だけ石垣島辺りにでも高飛びすれば良かったかなと思った。
新婦側にも、私みたいな独身者がいれば、何とかその人とネタを合わせる努力もできたのだが、何せリア充家族。
弟の嫁には、他にも兄弟がいるらしいが、既にそちらも結婚してお子さんもいるとのこと。
そのお子さんが小さい為、どうしても今回は参加できないという話はしていた。
私は完全に引き立て役。
向こうの御家族にも、『随分陰キャな人だなぁ。あれじゃ結婚できなくて当然だなぁ』とでも思われただろう。
あながち間違っていない評価なので、反論はしない。
いや、私もバカだね。
従兄達も独身者なのだが、彼らとLINEで話したら、『オマエ、バカだなぁ。どうせ独身中年ニキの居場所なんて無いんだから、御祝儀だけ渡して石垣島にでも高飛びしろよ。俺ならそうする』とか、『いやあ、雲羽君ってマジメだね。本来はそれ評価されるものだけど、あいにくと女はそんなクソマジメでツマラナイ男とは結婚したくないってさ』って言われたね。
雲羽「いや、報恩坊では評価してくれるんですよ」
従兄「だから、本来は評価されて当然なんだけど、それが結婚に繋がらなかったら、そんなクソマジメも意味が無いって言ってんの!」
うーん……。
やっぱり、折伏は難しい。
どうしても、一般人は折伏する人を見るからね。
いくら、『法に依って人に依らざれ』とは言ってもね。
と、それはさておき……。
私が思うところがあったのは、結婚式本番だ。
会場はホテル敷地内のチャペルで行われた。
高級リゾートホテルのチャペルということもあって、かなり豪勢な造りでありつつも、シンプルな感じがする。
そこは令和って感じか。
平成バブルの頃の結婚式の話を聞いたら、そりゃもう……【お察しください】。
護国神社の信仰を個人的にしていると聞いてはいたが、お嫁さんがキリスト教式が良いとでも言ったのか、それとも予算の都合か(キリスト教式より、神道式の方が費用が高いらしい)。
キリスト教式ということは、神父だか牧師だかが来るということだ。
私はつい、日本人のバイト神父でも来るのだろうと思っていたが、どうやら違うようだ。
白人のスラッとした長身の、50歳くらいの白人神父がやってきた。
日本語はペラペラであったが、私が後で聞いたところ、バイト神父ではなく、沖縄県のキリスト教会を管理する協会的な所に所属し、ホテルなどの結婚式場から依頼があれば輪番で出向する、一応本物の神父であった。
尚、牧師というのはプロテスタント系のこと。
本人は『神父』と言っていたから、カトリック系なのだろう。
カトリックというと、プロテスタントよりも固いイメージがあるが、神父自身はそういう人物ではなく、アメリカ人的なノリのフレンドリーな感じであった。
もちろん、式そのものは厳かに行われたが。
とは言いつつも、本人が勝手な事を言ってる恐れもある。
そこで私は、神父の言葉に耳を傾むけて怪しい所が無いか確認してみた。
そうしたところ、恐らく彼は本物の神父であろうと判断した。
その理由は1つある。
神父は、『神への門は、いつでも開かれています。神はあなた達(弟夫婦)に、これから試練をいくつも課します。もしもその試練を乗り越えることが難しいと、少しでも悩まれた時は、いつでもこの教会に来てください』と言った。
太字の部分、これは本来、結婚式で言うには不謹慎ではないかと思った。
だって、結婚式場で『いつでも来てくれ』ってことはだよ?
離婚してまた再婚する時は、また私が神父として立ち会いますよって、言ってるようなものじゃない?
それをあえて言うのは、後で個人的に質問した私に対し、神父が答えていたことだけれども、『私がこの仕事をしているのは、布教活動の一環だと考えているからです』とのこと。
『日本では、まだまだイエス・キリストを信仰する人が少ないです。あなたもそうですし、今回の結婚式に参加された皆様もそうでしょう?そんな人達に対し、少しでもイエス・キリストの教えを広めることができたら、これほどの喜びはありません』と、真剣に話す姿を見て、こういう布教の仕方もあるのかと思った。
で、結論はバイトなんかじゃなく、ガチの神父だということだ。
神父「あなたも宜しかったら、是非とも近くの教会を訪ねてみてください。神の慈悲に、必ず感動するでしょう」
感動はすると思う。
確かに、日蓮正宗には無い感動がね。
それはどうしてかって言うと、聖書は現代語訳で説くから。
それを神父が、舞台役者のように語って聞かせるから。
でも、日蓮正宗では、基本的に古文のまま指導するから。
で、特に御僧侶方は感情を込めて説くわけではないから。
だから私は、今のところ御書を読み聞かされて感動したことはない。
だけど、聖書を読んで感動したことはある。
それでも、私はキリスト教に行こうとは思わない。
私の信心の原点は、顕正会にある。
だけど、顕正会の原点は日蓮正宗にある。
そして実際、御加護を頂戴している以上、それを否定はできない。
今でも複雑だよ。
特に感動なんて無いのに、でも、御加護はある。
ちゃんと自行をしていれば、それに見合う御加護はある。
恐らく、キリスト教にはそれが無い。
だから、聖書の読み聞かせで感動できるように装うのだと思う。
信心で悩んだ時、他の宗教に触れることも1つの手だと思ったね。
私は少なくとも、日蓮正宗はどの宗教よりも正しいと思っている。
だから、キリスト教の手の込んだ感動くらいでは動かない。
だけど、若い人は……あれに黙されてそちらに行くだろうね。
報恩坊でもキリスト教に行っちゃった人達がいたし、学会歌“森ケ崎海岸”にも、『基督の道、我往くと』という歌詞がある。
日蓮正宗にも、あのような感動があれば……。
多分、私も結婚できればそうなのかもしれない。
取りあえず、今のところはこんな所かな。
また何か、書きたいことがあったら、書きたいと思います。
ありがとうございました。
2泊3日の沖縄旅行、無事故の御加護を頂戴した御本尊様には感謝の念に絶えない所であります。
楽しい旅行であったなら、その時に撮影した写真も交えて紀行文を寄稿するところでありますが、あいにくとそこまで楽しいものであったかと言われると、正直首を傾げざるを得ません。
よって、写真は最低限に、弟の結婚式に参加してみての感想だけを、まずは書きたいと思います。
参加者は親族のみ。
新郎側は実兄の私、両親、そして母方の伯母。
新婦側は両親と妹夫婦。
妹夫婦も結婚して2~3年ほどになり、まだ子供はいないらしい。
つまり、参加者の中で独身者は私だけしかいない。
このアウェイ感は半端無かったね。
結婚式は10月31日に執り行われたのだが、その前日の30日の夜に、皆で前夜祭的な食事会をしようということになった。
新婦とその両親を乗せた飛行機が、乗り継ぎ先で欠航するというアクシデントはあったものの、何とか食事会には間に合った次第。
私以外の家族は盛り上がっていたのだが、42歳独身男には振れるネタが無かったのか、まあ、浮いてるの何の。
新郎の実兄とはいえ、弟の新婚相手に気安く話し掛けるのもどうかと思ったし、かといって義妹夫婦とも共通のネタが無いわで、あー、こりゃ御祝儀だけ渡して、俺だけ石垣島辺りにでも高飛びすれば良かったかなと思った。
新婦側にも、私みたいな独身者がいれば、何とかその人とネタを合わせる努力もできたのだが、何せリア充家族。
弟の嫁には、他にも兄弟がいるらしいが、既にそちらも結婚してお子さんもいるとのこと。
そのお子さんが小さい為、どうしても今回は参加できないという話はしていた。
私は完全に引き立て役。
向こうの御家族にも、『随分陰キャな人だなぁ。あれじゃ結婚できなくて当然だなぁ』とでも思われただろう。
あながち間違っていない評価なので、反論はしない。
いや、私もバカだね。
従兄達も独身者なのだが、彼らとLINEで話したら、『オマエ、バカだなぁ。どうせ独身中年ニキの居場所なんて無いんだから、御祝儀だけ渡して石垣島にでも高飛びしろよ。俺ならそうする』とか、『いやあ、雲羽君ってマジメだね。本来はそれ評価されるものだけど、あいにくと女はそんなクソマジメでツマラナイ男とは結婚したくないってさ』って言われたね。
雲羽「いや、報恩坊では評価してくれるんですよ」
従兄「だから、本来は評価されて当然なんだけど、それが結婚に繋がらなかったら、そんなクソマジメも意味が無いって言ってんの!」
うーん……。
やっぱり、折伏は難しい。
どうしても、一般人は折伏する人を見るからね。
いくら、『法に依って人に依らざれ』とは言ってもね。
と、それはさておき……。
私が思うところがあったのは、結婚式本番だ。
会場はホテル敷地内のチャペルで行われた。
高級リゾートホテルのチャペルということもあって、かなり豪勢な造りでありつつも、シンプルな感じがする。
そこは令和って感じか。
平成バブルの頃の結婚式の話を聞いたら、そりゃもう……【お察しください】。
護国神社の信仰を個人的にしていると聞いてはいたが、お嫁さんがキリスト教式が良いとでも言ったのか、それとも予算の都合か(キリスト教式より、神道式の方が費用が高いらしい)。
キリスト教式ということは、神父だか牧師だかが来るということだ。
私はつい、日本人のバイト神父でも来るのだろうと思っていたが、どうやら違うようだ。
白人のスラッとした長身の、50歳くらいの白人神父がやってきた。
日本語はペラペラであったが、私が後で聞いたところ、バイト神父ではなく、沖縄県のキリスト教会を管理する協会的な所に所属し、ホテルなどの結婚式場から依頼があれば輪番で出向する、一応本物の神父であった。
尚、牧師というのはプロテスタント系のこと。
本人は『神父』と言っていたから、カトリック系なのだろう。
カトリックというと、プロテスタントよりも固いイメージがあるが、神父自身はそういう人物ではなく、アメリカ人的なノリのフレンドリーな感じであった。
もちろん、式そのものは厳かに行われたが。
とは言いつつも、本人が勝手な事を言ってる恐れもある。
そこで私は、神父の言葉に耳を傾むけて怪しい所が無いか確認してみた。
そうしたところ、恐らく彼は本物の神父であろうと判断した。
その理由は1つある。
神父は、『神への門は、いつでも開かれています。神はあなた達(弟夫婦)に、これから試練をいくつも課します。もしもその試練を乗り越えることが難しいと、少しでも悩まれた時は、いつでもこの教会に来てください』と言った。
太字の部分、これは本来、結婚式で言うには不謹慎ではないかと思った。
だって、結婚式場で『いつでも来てくれ』ってことはだよ?
離婚してまた再婚する時は、また私が神父として立ち会いますよって、言ってるようなものじゃない?
それをあえて言うのは、後で個人的に質問した私に対し、神父が答えていたことだけれども、『私がこの仕事をしているのは、布教活動の一環だと考えているからです』とのこと。
『日本では、まだまだイエス・キリストを信仰する人が少ないです。あなたもそうですし、今回の結婚式に参加された皆様もそうでしょう?そんな人達に対し、少しでもイエス・キリストの教えを広めることができたら、これほどの喜びはありません』と、真剣に話す姿を見て、こういう布教の仕方もあるのかと思った。
で、結論はバイトなんかじゃなく、ガチの神父だということだ。
神父「あなたも宜しかったら、是非とも近くの教会を訪ねてみてください。神の慈悲に、必ず感動するでしょう」
感動はすると思う。
確かに、日蓮正宗には無い感動がね。
それはどうしてかって言うと、聖書は現代語訳で説くから。
それを神父が、舞台役者のように語って聞かせるから。
でも、日蓮正宗では、基本的に古文のまま指導するから。
で、特に御僧侶方は感情を込めて説くわけではないから。
だから私は、今のところ御書を読み聞かされて感動したことはない。
だけど、聖書を読んで感動したことはある。
それでも、私はキリスト教に行こうとは思わない。
私の信心の原点は、顕正会にある。
だけど、顕正会の原点は日蓮正宗にある。
そして実際、御加護を頂戴している以上、それを否定はできない。
今でも複雑だよ。
特に感動なんて無いのに、でも、御加護はある。
ちゃんと自行をしていれば、それに見合う御加護はある。
恐らく、キリスト教にはそれが無い。
だから、聖書の読み聞かせで感動できるように装うのだと思う。
信心で悩んだ時、他の宗教に触れることも1つの手だと思ったね。
私は少なくとも、日蓮正宗はどの宗教よりも正しいと思っている。
だから、キリスト教の手の込んだ感動くらいでは動かない。
だけど、若い人は……あれに黙されてそちらに行くだろうね。
報恩坊でもキリスト教に行っちゃった人達がいたし、学会歌“森ケ崎海岸”にも、『基督の道、我往くと』という歌詞がある。
日蓮正宗にも、あのような感動があれば……。
多分、私も結婚できればそうなのかもしれない。
取りあえず、今のところはこんな所かな。
また何か、書きたいことがあったら、書きたいと思います。
ありがとうございました。