Linkman#41  乱読の後始末

-乱読、精読、積読-

書籍に触発されて「思考と空想」は、知の荒野を駆け巡るのか…

うるさい日本の私、それから  中島義道(洋泉社)

2009年10月17日 | 本と雑誌

Hitorigaten

 大家族から核家族へ、さらに独居世帯が急増する中、旧来の生活習慣や近所付き合い等は、死語となるのだろうか…
 地縁・血縁・義理人情等、多くの「しがらみ」に雁字搦め、息も絶え絶えの日常生活を送ってきたロートルとしては、徹底した「個人主義」に憧れるものの、極端なナイーヴさには若干の疑問を覚えたものである。
 しかし「音」とは別だが、所謂環境への配慮という点で、街の光「イルミネーション」に関しては、違和感を持った次第…
(ベルリン滞在数週間は、静謐な都市の暗闇を満喫できたものだったが…)

○個人的体験から出て、個人的体験から養分を得て、個人的体験といつもつながって、しかも普遍的な問題を示したいと願っている
○今さら「黒人としての誇りをもて」と言われても、自分たちの目には白人の肉体と白人の所有するすべてのものが美しく価値あるものに「見えてしまう」。そして、自分たちに属するすべて無価値に見えてしまう。「そう見えてしまう」ことに抵抗できない(「遠い夜明け」)
○苦しみのうらにある滑稽さ
○集団行為は原理的に醜いから、原理的に不正だから、原理的に悪だからである
○「苦しんでいる」と言いながら行動しない人々
○不特定多数が集合する街では、あかの他人には何もしないのがいちばんの得策
○観念的な季節感 →権力によって認可された観念的自然感によってつくられてゆく
○日本人の感受性が向かう「自然」とは、定型的、観念的自然 →人工的自然 →与えられた「文化空間」から発せられるおびただしいサインも疑問を覚えない

コメント
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