Linkman#41  乱読の後始末

-乱読、精読、積読-

書籍に触発されて「思考と空想」は、知の荒野を駆け巡るのか…

時間をほどく        小栗康平(朝日新聞社)

2007年01月01日 | 本と雑誌
Hitorigaten
 「泥の河」を初めて見たのはいつのことだったろうか?田村高廣が演じる手品のシーンが妙に印象に残っている。
 子どもの目線から捉えた映像が新鮮であり、その後の監督の「立ち位置」は既に確立されていた、と強く感じる次第

○まだ社会化されていない時間、いのちの時間といいたいような、ふくよかで融通無碍な、とらえどころがない全体性へと戻りたいのだ
○助監督は他のパートの助手さんと違って何の技術ももたない。(中略)にもかかわらず、なぜ現場を右だ左だということができるのか。それは、人間そのものの魅力、人間の力量でしかない
○死者は、生者にとって最も意味のあるときを選んで死んでいく
○「映像」のためのテキスト:①「映像」は作られたものである ②言葉と映像の違い ③映像をかたちづくる三つの要素 サイズ、アングル、モンタージュ
○画像には痛みがない、他人事である、抜け落ちてしまったものがいっぱいある
○折り合いがつかずなにごとも受け入れまいとひりひりするようにして過ごしていた若いとき
○吉田喜重:手つかずの時間としての未来と、手遅れの時間でしかない過去によってのみ、かろうじて人生は語られるものであれば(中略)この現在という時間は(中略)ついに語ることができず
○セルゲイ・エイゼンシュテイン:モンタージュ理論-物語という時間から外れなければ、空間はどのように変えてもいいのだ
○経費の削減をいうのであれば、中央の省庁をこそ小さくすべきで、税の権限委譲もしないまま、蛇口の先を絞るのは本末転倒
○もともと、世界は隙間だらけなのだ。森に風が渡るように個別と個別とは離れている。それで気持ちがいいはずだ

コメント
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