日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

邦楽(一弦琴)を学ぶ難しさ

2006-04-26 18:05:13 | 一弦琴
邦楽といっても若い女の子が歌っている現代の音楽のことではない。日本古来の音楽である。雅楽、声明、琵琶曲、能・狂言、地歌・箏曲、三味線音楽などで、ビクターから出ている「日本音楽まるかじり」(VZCD8224~5)でその一端を知ることが出来る。

このCDに付属の小冊子に徳丸吉彦氏の「日本音楽入門」という解説があるが、その中に邦楽、といっても一弦琴であるが、を学ぶにあたって私を悩ませている問題の起こりが明快に述べられている。日本伝統音楽の口頭性と書記性なのである。引用させていただく。

《日本の音楽文化を理解するための(第二の)鍵は、口頭性と書記性の並存です。ここでは、口頭性を身体によって音楽を伝承する仕掛け、と考えてください。これに対して書記性は、楽譜を使って音楽を伝承する仕掛けです。(中略)日本の面白いところは、非常に古い時代から、楽譜を持っていて、しかも、実際の伝承に際しては、口頭性を重視してきたという点にあります。》

この《楽譜を持っていて、しかも、実際の伝承に際しては、口頭性を重視》というところが解説者にとっては面白いことかもしれないが、習う側から云うと悩みの種、せっかく楽譜がありながら楽譜が用をなさないことが多いからである。

一弦琴にも楽譜がある。私の師匠の考案になる譜では琴の音階と拍子が記されており、細かい演奏法は直接に教えていただく。たとえばある表記がトレモロであることを教わると次にその表記が出てくるとトレモロを奏でられのである。ところが歌詞は琴の音階の横に記されているが一文字一文字の音階は記されていない。従って歌そのものは弦と歌の『ズレ』や独特の『節回し』を含めて口伝になってしまう。

楽譜に基づいてここは実際にこう演奏するのだと教えていただける分には特に問題はない。その通り覚えればいいからである。ところが『その通り』が必ずしも不動ではない。たとえば『ズレ』。その前にこの『ズレ』について藍川由美さんが文春新書『「演歌」のすすめ』で説得力のある解説をなさっているのでこれもまた引用させていただく。

《日本音楽においては声と楽器とが、洋楽のように同時的に(同じリズムで)進行するのでなく、両者の間にズレ(食い違い)があることは周知の現象である。これは「ポリリトミーク」(復律動)などと称されるものであるが、三味線音楽にも箏曲にも存する一般的ないちじるしい現象である。洋楽では歌は楽器とぴたりぴたり合って進行するのが立派な唱法であるが、邦楽ではこのような唱法は「楽器にくっつく」もとと言われ、幼稚な唱法としてはいせきされるのである。
 この歌と楽器のズレという技巧は楽器が歌の邪魔をせず、歌を生かすように工夫されているのであり、やはりその根本には単音に対する限りない憧憬の念が働いていると思われる。(中略)この声楽上の技法は確かに西洋音楽においては味わうことの出来ない邦楽の一大特色と言わねばならない。》

そう、この『ズレ』こそわが命、一弦琴に合わせて歌を唱う醍醐味の一つがここにあるのだが、これが楽譜の上で必ずしも明示されておらず、また師匠の演奏も結構融通無碍なのである。だからどの『ズレ』方が正しいのか自分でもはっきりしないのである。試みに私が師匠の唱法とは異なるが自分のリズムに合う『ズレ』を意識的に持ち込んでも、注意されるのは十辺に一度ぐらいなので、いつの間にか自分流儀に唱う部分も定着してきた。これが『口頭性』の鷹揚なところなのか弾力性に富んでいるところに人間味を私は感じる。

私がそれよりも困るのは一弦琴の演奏そのものが楽譜から逸脱する場合である。お師匠さんの弾かれる演奏が楽譜とは明らかに違う場合がままある。そこで私は図々しく(年の功!)「楽譜通りではこのようになりますが・・・」と私が演奏するとそれが正しいことは認めていただける。しかし、「私はこう習ってきました」と師匠が仰るともうお手上げである。『口頭性』をより重視するのなら当然その一言にひれ伏さないといけないのであるが、私は「それなら何故楽譜を改めないのか」と切り返したくなるのである。

モーツアルトの曲にしても演奏者によって、指揮者によって楽譜は同じでも曲の解釈がことなりそこに演奏者、指揮者のスタイルが生まれる。邦楽の『口頭性』も似たようなもので同じ流派であっても同じ曲が演奏者によってかなり異なって聞こえるのではなかろうか。たとえば「今様」を一堂で弾き比べをすれば分かることである。

こう考えると邦楽が重視する『口頭性』も『伝承性』に各師匠の『個性』が入りこんだものであるような気がする。となると教わる方も最初から師匠の『癖』まで引き継ぐことはないように思う。せっかく楽譜があるのだから『書記性』を重んじて楽譜通りの標準的演奏法を教えていただき、技倆も上達し理解が深まるにつれて『癖造り』に入っていけばいいのではなかろうか。私が教える側なら多分そうするだろうと思う。


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2 コメント

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日々の練習から (琴音)
2006-04-27 09:50:09
若輩ながらわたくしも演奏について

日々悩んでおります。

曲の理解もさることながら、本来の演奏ではない

『癖の伝授』にならないようにするためには

一体どうすればいいのでしょうか???

そもそも、現存の会で「もともとの一弦琴演奏」

をできる会があるのでしょうか???

歴史を丁寧になぞり、この琴の復活のあとを

たどって考えてみたなら、確実な伝承は

なされなかったと、考えられないでしょうか?

また、もともと演奏自体が『確立』されていたわけでは

ないのかもしれません…。



いろいろ考えて、自分がいま習っていることも

実は違うんじゃないかと思いだしてきて

非常に迷う時期がありましたが、

いまは、基本的にはかわらずとも

その曲をどのように弾くかは、

日々の練習のなかでその曲自身が教えてくれる、

そんなふうに思うようになりました。

曲想というのか、それが「ここをこんなふうに弾いてくれ」

といっているように感じるときがあるのですが

しかし、それも弾く人の感じ方やその人の内包する音律

というものも違うかもしれないので、決まってくるわけではないのでしょう。

演奏する人の感性がその曲をきめるのは

邦楽に限らずいえることかもしれませんが。



あと、女性のなよなよした、あるいはすらすらと

うまく弾くようなことは、この琴には似つかわしくない

という箇所がよくとりあげられてうちの会でも

話のものだねになるのですが、ある意味同感です。

ただ、年配の女性のかすれ気味の声、というのは

この琴の歌として、たいへん味わいがあるように

思いますよ。年輪を感じるというか(でも、小さい声はだめですね~~)



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何を目指して取り組むか (lazybones)
2006-04-30 12:00:39
私も教わる立場の人間として答えが簡単に出てこない疑問をあれやこれや抱えています。それだけに琴音さんの『悩み』を身近に感じます。



『伝承』ということ一つを取り上げても分からないことばかり。

『伝承』とは『心』と『型』を伝え受け継ぐこととだろうと思います。しかし古人(いにしえびと)の奏法を目の前で眺め琴の響きに歌声を直接耳で聴けば少なくとも『型』はそれなりに会得できるだろうと思いますが現実にはあり得ないことです。



『心』にしてもまたしかり、タイムスリップして私が江戸時代に舞い戻ったとしても、その時代の一弦琴奏者と実のある話が出来るとは思えない。彼らが備えていた教養が私には皆無だからです。



だから『心』と『型』という言葉はあり得てもそれぞれの言葉が伝える内容が私にとって無に等しいのです。その意味では私にはいわゆる伝統音楽を受け継ぎ伝える素質はありません。では目の前にあるのはただ『虚無』かといえばそうではありません。



自分で気持ちよく唄えて快く聴ける、その境地に到達したいのです。気持ちよくはわりと唄えます。ところがその録音を聴くと快くは響いてこないのです。ひょっとすると一生その境地には至らないのではないか、と思いつつもお師匠さんとの稽古に臨みまた自ら学習を重ねています。



私のこの思いは琴音さんの言われる「演奏する人の感性がその曲をきめる」と相通じているような気がします。
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