日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

鯨も災難

2006-04-14 17:12:04 | 社会・政治
海保の実況見分終了 高速船事故 (西日本新聞) - goo ニュース


高速船「トッピー4」の事故は最初鯨と衝突した可能性が考えられていたが、この記事では「船体のへこみは衝突や船体が高速走行で水面にぶつかり損傷したことも考えられる」ということで、最終結論にはまだ時間がかかりそうである。鯨が致命傷を負っていないことを祈るのみである。

それにしても海上を時速約80キロで航行できるとは驚きである。高速道路の制限速度なみではないか。なるほど海面上の物体は目に見えるかも知れないが海面下に何が隠れて居るでは分からないではない。そこを猛スピードでぶっ飛ばしているのだから考えたら恐ろしくなる。人間魚雷『回天』も水中速度はせいぜい50キロ、それを遙かに上回る速度で迫られたら鯨もたまったものではない。

海の先住生物である鯨の巡航速度は10キロぐらいである。『新参者』に「そこのけそこのけ」とばかり我が物顔で飛ばされたら避けようがないではないか。礼儀を守るのは人間の方である。「トッピー4」はクジラが嫌がる音波を出す「アンダーウオータースピーカー」を備えていたと云うことだが、鯨といわず海中の『障害物』を検知してそれを避ける責任は船の側にある。積極的な対策が急務であろう。

「寅さん」はいいな

2006-04-13 20:04:57 | Weblog

今週一杯NHKのBSで「寅さんシリーズ」を放映している。視聴者からの投票で選ばれたトップ5位を順番に放映して夕べはその第三位、マドンナは浅丘ルリ子だった。珍しくもマドンナと激しい言葉の応酬があったがそれはそれ、大雨の中、傘を持たずに出かけたマドンナを駅まで出迎えて大きな番傘に入れて連れて帰るシーンがいい。タイトルの相合い傘である。

寅さん映画は途中でうとうと寝てしまっても目覚めてしばらくするとストーリーが自ずと繋がってくるのがいい。パターンが出来上がっているからでだから安心して居眠りが出来る。

それにしても寅さんは幸せ者である。家に帰ってきたら拗ねたり僻んだりもう大ぴらに自分の感情を爆発させる。そのために家に帰ってくるようなものである。『甘え』を許す家の存在が大きい。

なによりも羨ましいのは毎回違ったチャーミングな女性と細やかな情を交わすことである。もともと寅さんを結婚させる意図がないのだから余計な打算を物語に入れる必要はさらさらない。結婚を潔く諦めるとこんなにも素晴らしいロマンの世界が大きく広がるなんてこの映画で喧伝されては少子化対策に躍起の厚生労働省も気になることだろう。

少子高齢化の高齢者にもまだ夢がある。愛妻老妻はもはや空気のようなもの、意識することもなくなると独身者と同然である。もちろんどんなに素晴らしいマドンナに出会っても結婚なんて不埒なことを考えない限り寅さんと同じではないか。こういう高齢者のマドンナ物語をまたシリーズで作る監督が居てもいいような気がする。ヒットは疑いなかろう。

話がつい脱線したが、分かりやすい寅さん物語で解けない疑問もある。寅さんが店を開いたときの商品がどういう経路で寅さんの手元に届くのか、どう考えても分からない。寅さんのあの鞄の中に納まる筈がないし、仕入れのお金の出所も心配だ。心配といえば国民年金の掛金もちゃんと払っていたのかどうかも気にかかる。

寅さんの生活している場所の雰囲気を味わいたくて昨年の10月、葛飾は柴又まで出かけた。生憎の大雨で柴又駅から帝釈天参道のお団子屋さんの前を通り帝釈天まで、さらに川縁まで足を伸ばしてあの土手を歩きたかったが足元がジュルジュルでズボンの下の方もグショグショになってしまった。「お琴・三味線張替処」の張り紙が珍しくて写真を撮ったら鏡の私の姿も写っていた。上の写真がそうである。やはり一人旅であろうか、雨具の用意のない女性によほどお入りなさいと声をかけたかったが、携帯の折りたたみ傘では道具不足で寅さんになり損ねた。


偉かった昔の教授

2006-04-09 17:58:32 | 学問・教育・研究
私が卒業実験のために所属した研究室では教授は既にベンチワークから退き、実際の研究指導は助手の先生から受けた。研究室でのあらゆることから始めて実験材料、実験器具などの取り扱い、実験手技にデータのまとめ方、論文の書き方のすべてを日々の『共同生活』を通じて教わってきた。

助手の先生と書いたがその当時研究室で面と向かって先生と呼びかけたのは教授ただ一人で、助教授、講師、助手の先生方はすべて「さん」付けで呼んでいた。私の所属する研究室のみならず、他の研究室の方に対しても同じであった。これは大阪大学理学部の伝統的な習わしであったのだろうか。この当時の雰囲気についてはまた機会を改めて記したいと思う。

大学院に入ってからも同じ研究室で卒業実験の続きを修士課程の研究課題とした。修士論文は英文で書くのが決まりであったのでこの書き方も厳しい指導を受けたものである。そして修士論文に手を加えて学会誌に投稿することになった。自分の出した実験データに基づいた初めての論文で受理されて印刷物になり始めて手にしたときの興奮と感激はひとしおのものであった。

この論文の著者には助手の先生、私、教授の三名が名を連ねた。助手の先生こそ何も知らない新参者の私にテーマを与えて文字通り手を取り足を取り指導したのであるから、この論文の著者名のあり方は至極当然のことであった。その後私が博士課程に進みすべての実験を私が一人で行った研究成果を私が第一著者として論文に発表するのもまた自然の成り行きであった。

私の所属した研究室では大学院生一人一人が自分のテーマを持っていた。与えられたものもあれば自分で考えて承認を得たものもあった。従って論文の著者は三名というのが一つの標準のようになっていた。本人と直接の指導者、そして教授である。実験に関してはすべての実行責任は大学院生本人にあった。直接指導者とは一つの実験が終わるとそのデータの正しさの検討からはじまりその解析、解釈を徹底的に議論したものである。もちろん研究室セミナーで進行過程を随時報告するなどすべてがオープンであった。

論文の草稿作りから完成までも二人の密接な共同作業があり、完成した論文原稿を教授に提出して査読を受けてOKを頂くと学術誌に投稿するのが常であった。このような作業過程が研究の手順として私への『刷り込み』になったのである。ちなみに私の恩師はOK教授、OKを出すからではなくてそれがイニシアルなのである。

いつの間にか年月も経ち私が助手となって大学院生を直接指導する立場となった。ある大学院生の研究成果を何部かに分けて学術誌に投稿することになり論文原稿を教授に提出した時のことである。著者名を大学院生、私、教授とした。提出後私はある緊張感にとらわれていた。この研究テーマは私が大学院生に与えたものであるが、研究手法も新しくまたデータの解析法が数式めいたものを取り入れたことがあり、それが教授のお得意とされる分野でないだけにいろいろと不審点が出されるだろうし、それに納得していただけるためにどのように説明をすべきなのか腐心していたからである。

ことは思いがけない形で決着した。「私には内容が正しく理解できないから、私の名前を論文から外してください」と教授が私に言われたのである。この言葉をどう受け取っていいものか私にはとまどいがあった。「訳の分からない研究を私の研究室でするな」とのお叱りか、と一瞬思ったりしたからである。しかし二三年にも及ぶ研究過程で進行状況は折々の研究室セミナーでご存じであるし、方向転換を示唆されたこともなかったことを思い出し、また投稿を止められたのではないからこれは言葉通りに受け取っていいのだ、と思ったときに緊張が一度に解けてしまった。

結局この論文は謝辞を教授に献じ大学院生と私の二人の共著として発表することが出来た。実はそれまでに教授をラストオーサーとする一連の論文がシリーズものとして20編ほど発表してきたが、ここに私をラストオーサーとする新たなシリーズを始めることにしてシリーズタイトルも改めたのである。これが原著5編に結実した。その研究の集大成を博士論文とした大学院生に私はさる財団の奨学金公募に応募することを勧め、幸い審査員の評価を得て新博士は研究費を獲得したのである。一方私は招待された国際会議で講演をして私をファーストオーサーとする連名の総説を学術書に寄せた思い出がある。

「内容が正しく理解できないから私の名前を論文から外してください」と言い切れる教授こそ若い世代を育てる名伯楽になりうるのではなかろうか。

一弦琴「夜開花」の期間限定ネット演奏

2006-04-07 20:11:46 | 音楽・美術
一弦琴もだんだんと楽しくなった。お師匠さんの後を追うのに汲々であった時期を通り抜けて、自分の演奏にも客観的に接することができるようになったからであろうか。

今、お浚いしているのが山田一紫作詞作譜の「夜開花」(やかいか)、1968年十月ハワイにて、と譜にある。

夕やみの むらさき 重き 垣づたい
あやしく白き 花ひらく
一夜のいのち 闇のしじまに 誰をまつらん
見あぐれば なかぞら高く 夏の月

メキシコ原産の月下美人がハワイにどうたどり着いたのだろう、そう言えばこの山田一紫さんも何故ハワイにおられたのだろう、なんてとりとめのないことも脳裏に浮べながらもこの唄の心をどのように表現すべきだろうかと試行錯誤を繰り返している。

予習より復習、とお師匠さんが仰る。そうだと思う。譜だけを見ても弾き方はともかく唄い方がさっぱり分からない。口伝のおもしろさであり難しさである。差し向かいで教えを受けているときにはなるほど、と理解したような気になっても、帰り道で口ずさんでいるうちに早くも怪しくなってくる。帰宅後に譜を頼りに再現しようとしてもしっくり来ない箇所が次から次へと出てくる。

録音機のない時代からのお稽古法なのでお師匠さんの唄はあえて録音はしない。変なものを後に残したくないから、とお師匠さん嫌がられる。仰るとおりなので録音は自分一人でお浚いをしているときにする。聞きかえしては自分の耳に自然に聞こえるかどうかで手直しをしていく。これが復習になるのか予習になるのか云いようがないが、自分で納得がいく唄い方になったところはやはり次回のお稽古で注意しているお師匠さんの唄いかたと一致することが多い。もちろん違っている場合も結構ある。でもこの時は自分の唄とどこがどう違うかがはっきり分かるので、今度は間違いなく正確に記憶に刻まれる。

日本全国で何人ぐらいが一弦琴のことをご存じだろう。そして実際に演奏されている方だと何人ぐらいだろう。ふとこのようなことを考える切っ掛けがあった。一弦琴を取り上げたブログに出会したのである。私がいろいろと考えてきたようなことを実に素直に要領よく記されている同好の士の出現を嬉しく思った。そこで私も現在の習作を一時的に公開してみる気になった。たまたま出会って興味を持っていただけるようなことになれば望外の喜びである。

公開を期間限定(多分4月8日まで)としたのは来週のお稽古で間違いなく唄い方が変わるからである。この「夜開花」をクリックして開いた画面で更に「YoruHirakuHana」をクリックしていただくと、唄が流れるはずである。ご感想などをお寄せいただけると有難い。なお録音はどうかご遠慮下さい。

論文に名を連ねる資格のない教授とは

2006-04-02 18:20:56 | 学問・教育・研究
研究者が論文を発表する際に著者は誰で順番がどのようになるのか、その判断基準を極めて率直に現場の研究者がブログに公表しておられる。東北大学大学院医学系大学院教授の大隅典子さんで、その一部を引用させていただく。

《さて、今回の論文について言えば、最終的に何人の著者になるのかは、まだ決定されている段階ではありません。
Main contributorsは二人います。
データの貢献度としては、その研究に関わった時間経過の違いもありますので、片方の人の方がより大きいと判断できますので、筆頭著者としてはequally contributedではありません。
データを出すということについていえば、直接は実験をした訳ではありませんが、私はさまざまなsuggestionsをしています。
また、研究の方向性を決めたり、研究費を獲得し、研究場所を提供しているのは私です。したがって、私はlast authorとしての資格が十分にあると思われます。
他に、試料等を提供して頂いた方も共著者に加わることになります。》

紫色フォントで強調したのは私であるが、この部分は研究室を主宰する教授として自然な考えが出ていて、ほとんどの研究者は異論を抱かないだろうと思う。それほどまで『学会』に定着した考えなのである。しかし私はそれにあえて異論を唱えてみようと思う。それは3月31日のブログ「捏造論文問題 疑わしきは罰せよ」で私が述べたように、《自分で実験をしない、その実、実験をもはや出来なくなった教授の存在が『捏造論文』の横行を許している》と考えているからである。

以下、大隅教授の文章を引用させていただくが、これは持論を進めるための取っかかりとするだけのことであって、教授を個人的にとやかく申し上げる意図はこれっぽちもないことを最初にお断りする。もう一つ、私は国立大学時代の人間であるので制度の理解が現行のシステムとはそぐわない面もあるかも知れない。しかし問題の本質を論じる妨げにはなるまいと思うので私の異論を述べていく。

①《研究場所提供》
教授になり諸々の制約から解放されて一つの研究室を主宰する。大きな喜びであり新しい研究への意欲が掻きたてられる。研究室の整備から始まり実験器具、薬品、高価な装置を揃えていく。国立大学であれば校費だけで大きな実験装置の購入は到底不可能であるので科学研究費などを申請して資金稼ぎに励む。そのようにして作り上げた研究室だから当然愛着も生まれてきてわが子のようにも思えてくる。『自分の城』なのである。だからこそ《研究場所を提供》とする発想が出て来たとしても頷けないことはない。ところがこれが間違いなのである。

国立大学であれば土地建物は国有財産で個人のものではない。もちろん研究室も私物ではない。国有財産の管理システムの一環として研究室に管理責任者は置かれるが、これは元来火元責任者としてのものであり、その場所の使用を許可する権限のものではない。あくまでも国有財産が損なわれることのないように管理責任を負うのである。

大学院生がある教授の指導を受けるということは、授業料を払っている大学院生の権利であって、正当な理由がない限り教授はそれを拒否することは出来ない。また大学の組織上、教授の研究グループに助手などの教官が加わっている場合にも研究場所を提供しているのは教授ではない。たとえばある教授が定年退官を迎えると教授以外の教官が全員残っている研究室に新任教授が着任することがある。この新任教授から在来の教官が《研究場所を提供》された、という発想は起こりえない。

神社などの縁日に屋台が出る。このごろはどうなのか知らないが一昔前はその場所割りなどを仕切っていたのはいわゆる『ヤーサン』であった。自分の持ち物でもないものを使わせてやると恩をきせて場所代をとるのである。これは《研究場所を提供》する見返りに論文に名前を載せろの『ヤーサン』版とも云える。

②《研究費を獲得》
研究費の獲得は教授のみならず研究者全ての重要な仕事である。科学研究費をはじめとして少しでも可能性のあるところに研究費を申請する。この作業に費やす時間・労力は中途半端なものではない。場合によっては年中この作業で精一杯という教授も珍しくはない。私は贅沢の一つとして定年退官の2年前から研究費の新規申請を止めたがその時の解放感はえもいわれぬものだった。

科学研究費の申請でもいろいろと問題があった。私は幸いにもいい環境に恵まれて助手の時代から自分のやりたい研究テーマで研究費を単独名で申請し何回かに一度は成果があった。現在は若手研究者の育成が真剣に考えられて研究者本人が自分の名前で申請することが当たり前のようであるが、かっては申請書に教授の名前を載せることを当然とする風潮があった。

若手研究者が自分の名前で研究費を申請するというのは分かりやすい。自分でやりたいことを書き、それが認められたら自分で研究を推し進めればいいからである。若手と同じく自分で手を動かせて実験を行い、データを整理、解析し論文をまとめる、これが出来る教授は、多分希有の存在であろうが、何の問題もない。ところが手の動かせない教授が研究費を申請するとしたら問題が起こる。自分でやれない以上他人を当てにせざるを得ない。この教授にとって研究はもはや『自分でやりたい』ではなく『人にやって貰う』ことになっているのである。いわば工事現場の現場監督のようなもの、手を出さずに口を出す。それも口を出せるのならまだましで、研究室に出ても皆が何をやっているのやらさっぱり分からなくなり、認めたくないが邪魔者扱いされてそのうちに教授室に閉じこもってしまう。

《研究費を獲得》というといかにも最もらしいが、所詮他人を当てにしての作文で、申請資格に年間実働実験時間の制約を持ち込むと無資格教授が続出するであろう。高級セクレタリーの浄書のようなことは論文の著者うんぬんとは縁のない話である。

③《研究の方向性を決めた》
人間の考えて似たり寄ったりのものである。こんなことを考えついたのは世界で自分ただ一人、と思って自信満々になれることは研究者冥利ともいえるが、蓋を開けてみると世界のどこかで同じ時期に同じような内容の論文が発表されるということが稀にはある。私も現役時代に二度ほどそのような経験をした。

研究に駆り立てるモーティベーションは『アイディア』であると思う。世界で唯自分だけがと思いたい『アイディア』が湧いてきたとき、私は自分でそれを確かめてみたかった。それが研究者というものであろう。その確認が自分で出来ずに他人に依存すると云うことは研究者からの引退を公言しているようなものである。

《研究の方向性を決めた》というのは私には漠然としていてイメージが湧いてこないので、『アイディア』を出すというように言い換えたつもりであるが、多分内容的には大きくかけ離れているのではなかろうか。犬が立木におしっこをかけまわって自分のテリトリーを宣言するようなものなのだろうか、と想像する。

《研究の方向性を決めた》とは『教授』というポジションが云わせるだけのことであって、それがまかり通るのは黄門さんの印籠に皆がひれ伏すようなもの、旧来の陋習がなせる技である。

改めて念を押すまでもないが、私が問題にしているのはあくまでも『自分で実験をしない、その実、実験をもはや出来なくなった教授』なのである。自分の研究室があっていいアイディアも浮かび研究費もそこそこある。このように恵まれた研究環境にある教授が自分で手を下さないなんて私には信じられないのである。自分の研究を聴き知った大学院生をはじめとする若い仲間がわが門を叩いてくれる。共に実験をしデータを解析して議論を重ね研究テーマの求める解答を見いだしていく。これこそ研究の、いや人生の醍醐味ではないか。もちろん『捏造』の入り込む余地なんぞはこれっぽちもない。なぜ未練もなく現役の研究者をはやばやと引退する教授がいるのだろう。それにもかかわらず論文に名前を載せることに執着する。ここにauthorshipの形骸化が生まれる。

手を出さずに口を出すだけの教授でも遇する道はある。貴族教授と敬称させていただくが私もそのような方と話をしていて研究上の有益な刺激を受けたことも多く感謝の気持ちから論文で謝辞を献じさせていただいたこともある。貴族教授は伯楽に徹すればいいのである。