日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

梅田望夫著「ウェブ進化論」を読んで

2006-03-21 17:56:22 | 読書

「ウェブ進化論」(筑摩新書)が評判だと云うことで買ってみた。私もご多分に漏れずWindows XPを載っけたPCとGoogleをいろいろと検索に利用しているが、この本はWindowsやGoogleの扱い方ではなくて、人間の知的活動にPC(+OS)とGoogleがどのように関与するかを教えてくれる。

ネットの「こちら側」と「あちら側」という話が出てくる。「こちら側」は《インターネットの利用者、つまり私たち一人一人に密着したフィジカルな世界》であり、「あちら側」とは《インターネット空間に浮かぶ巨大な情報発電所とも云うべきバーチャルな世界》なのである。「なるほど、なるほど」と頷く。

「こちら側」のことは分かりやすい。目の前にあるパソコンのことだから。「あちら側」もネットを介してアクセス出来る諸々の情報と受け取ればそれだけのことであるが、世の中には全世界の全情報を取り出しやすい形で組織化しようと考えた人がいるらしい。いわば人間の『脳細胞』を人工的に作り上げることに相当するのだろう。しかしどのような原理で組織化しようとするのかそれは分からない。

私のブログへのアクセス解析をたどってわれながら驚いたことがある。Googleで(green grass the old home town)をウエブ全体から検索するとなんと私のブログ記事が1010万件の検索結果の第4位に出てくるのである。



また(在朝日本人)を検索すると206万件の第1位にランクされてくる(3月21日午前10時現在)。



自分の発信した結果が人の目に触れやすい形で検索結果に出てくることは嬉しい。しかしそんなに値打ちのあることを書いたという自覚もないのに、どういう基準で百万とか千万とかいう大層な数の記事の中から私の記事が上位にランクされたのか、その理由が分からないのである意味では不気味でもある。このランク付けの裏にGoogle独特のノウハウがあり、それで情報を組織化しているのであろう。しかしその仕組みを明かさずに結果だけを示されるのでは『神のお告げ』と変わりない。

「こちら側」を築き上げた代表がマイクロソフトのビル・ゲーツで「あちら側」を作りつつあるのがグーグルのセルゲイ・プリンとラリー・ページだそうである。と、もっともらしく引用したが、私はプリンとかページいう人の名前はこの本で始めて知った。元来日常品を使用するのにそれを作っている会社の創始者の名前なんか知る必要はなにもないからである。

著者がビル・ゲーツにセルゲイ・プリンとラリー・ページの名前をわざわざ取り上げているのは余人の考えつかないものを作り出した彼らが大天才ということをただ云いたかっただけかも知れない。しかし私にはビル・ゲーツはともかく『神のお告げ』を作り上げる後の二人は大魔神のように思えてくるのである。

全ての情報を公開するとの大義名分はいいものの、公開するにあたってのたとえばランク決定法も同時に公開されないことには真の情報公開にはなっていない。「こちら側」も「あちら側」もとどのつまりビジネスがらみである以上、『オープンソース』も限界があるということだろうか。ランク付けは情報操作そのものである。利用者が納得できる原理・原則でランク付けがなされているかどうか、それを隠されては話にならない。

時代は「こちら側」から「あちら側」へと進化してきてさらには『あらぬ側』に進むのであろうが、『情報管理』を他人任せにしないことが『個』をもつ人間として生き残る最低限の条件であるように思った。著者の意図とは異なるだろうがこのことを考えさせただけでもこの本は刺激的であった。

生徒も先生と一緒にWBCの試合を観ればよかったのに

2006-03-21 00:04:04 | 社会・政治
大阪の小学校教諭、授業中にWBC観戦 「気になって」 (朝日新聞) - goo ニュース

徳川慶喜公の孫で高松宮妃殿下の妹である榊原喜佐子さんの書かれた「徳川慶喜家の子ども部屋」に出てくる話であったと思う。学習院に通っていた頃、昼食後の授業の常として眠たくなる。そこで漢学者の塩谷温先生の授業が始まると先生に「長恨歌を」とお願するのがいつものことで先生が朗々と吟じられるのを子守歌に快く午睡をむさぼった、というのである。その本がどこかに雲隠れして内容の確認ができていないが大筋はこの通りであると思う。その続きがあって、夢うつつに聞いていたのであろうがその長恨歌が今でもしっかりと脳裏に刻まれている、というのである。

そのようなやんごとなきお方とは縁遠い話であるが、私が中学生の頃吉川英治著「宮本武蔵」大好きの国語の先生がおられて、授業の時にわれわれ生徒が「宮本武蔵」とおねだりすると、気の向いた折には講釈師よろしく「さわり」を語ってくださったものである。

厳密に言えば本来の授業から逸脱しているこのような話を何故思い出したかというと、上の新聞記事を読んだからである。私が生徒なら「先生、WBCの試合をテレビで一緒に観ませんか」と仲間と一緒に持ちかけるかも知れないし、教師なら「先生は試合が気になるのでテレビを観たいけれど、一緒に観たい人」とか云って生徒に手をあげさせ、多数決かなんかで一緒に試合を楽しむのではなかろうか。プリント学習がどのようなものか知らないが、それより大事に作り上げていきたいのは教師と生徒の心の触れあいである。WBCの観戦もその一助にもなろうかと思うのだが「ゆとり教育」のゆとりはどこに行っているのだろう。