日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

在朝日本人の回想 『鐘紡永登浦工場』跡

2005-04-15 15:52:07 | 在朝日本人
私は『鐘紡』のおかげで大きくなった。父が鐘紡に勤務していたからである。高砂の鐘紡社宅で生まれ、神戸の兵庫工場の社宅から幼稚園に通い、京城永登浦の社員アパートに住んでいる間に永登浦国民学校に入学した。昭和16年の4月である。

この社員アパートは煉瓦造り三階建ての堂々たる建物であった。それが工場敷地内に何棟もあり、また似たような作りの工員アパートも棟を連ねていた。冒頭の写真は前の建物が私が半年間通った幼稚園で、後ろの建物群が工員アパートであったと思う。



この写真は幼稚園の手前にある道で、奥の方に見える建物が社員アパート、女の子は幼いころの亡妹である。またアパートのベランダに座っているのは妹、そして屋上でにこやかに突っ立っているのが私である。





このアパートに入っている間に私は『はしか』に罹った。両親の気遣いを一身に浴びていることをなんだか誇らしく感じたのが、熱のある身体で水洗便所にしゃがみ込んでいた時のことである。何故かその時の状況が今も記憶に新しい。

このアパートはなかなかモダンな造りであった。水洗便所に加えて台所にはダストシュートがあり、暖房はスティーマー(と家ではカタカナ名で呼んでいた)であった。建物の地階は通路になっていて外気に曝されることなく浴場に歩いていけた。売店もあったように思う。

吉田裕著「日本の軍隊」(岩波新書816)に興味を引く記述があった。
《軍近代化の問題として、建造物の面でも、この時期にきわめて現代的な様式のものが登場していることを指摘しておこう。1928年に竣工した歩兵第三連隊の兵舎が代表的なものだが、この新兵舎は鉄筋コンクリート四階建て、「当時としては、最新式エレベーター四、リフト二を設備し、便所は全て水洗式、採暖はすべて蒸気暖房を採用し」ていた》(143-144ページ)

この兵舎の内容と比較すると、当時の『鐘紡』にどのような将来への展望があったのか、中途半端ではない本格的な建物を真面目に建てていたことがよく分かる。

幼稚園ではおやつの時間があった。大きな丸いビスケットに熱々のミルク。容器の表面に膜が張っていたのを思い出す。園長さんは工場長であったのだろうか、修了書に「片岡勉」と名前が記載されていたように思うが、記憶はもはや定かではない。

わが家に3人ほど兵隊さんが分宿したことがあった。母が張り切ってご馳走を作っていた。演習か何かの折で、民宿するようなシステムでもあったのだろうか。軍用犬係の兵隊さんで、何かの知らせで慌ただしく飛び出していったので後を追っかけて行った。すると犬同士が喧嘩をしたのであろう、一匹の頬肉がダラリと垂れ下がっているのを目にした。

敷地のはずれには広い畠があって、そこで採れたトマトを食べたことがある。鮮やかなピンク色で種がプチプチしてとても香ばしい味がした。その味を今でも時々思い出して、美味しそうなトマトを見つけては味わうが、その頃の味に優ったものにはまだ残念ながらお目にかかれないでいる。

入学した永登浦国民学校は木造の建物で、簀の子の板を踏んで下駄箱から校舎に上がったように思う。担当の先生は山田先生、丸顔の年配の男性教師でオルガンを上手に弾きこなされたのが印象に残っている。一学期間在籍しただけで一年生の夏休みに三坂国民学校に転校した。永登浦の滞在は一年未満だったことになる。

ソウルオリンピックの前年だったか、ソウル駅から地下鉄に乗って永登浦を訪れたことがある。しかし下調べをしていなかったこともあって、以前住んでいた場所を見つけることはできなかった。京城のわが家の旧跡探しに本格的に取り組んだのは、私が仕事を辞めた1997年夏のことである。通訳をお願いして永登浦では元鐘紡の工場跡ということで探して貰った。お年寄りを見つけて尋ねたのが功を奏して、あっけないほど簡単に工場跡が見つかった。それが思いがけなく昔の面影をかなり残していたのである。

門衛所で私が訪ねてきたわけを説明して、もし建物が残っていたらぜひこの目で眺めさせて欲しい旨を申し入れた。現在は軍需産業の工場になっていて、部外者が簡単に入れるところではなかったようであるが、何人もの方とあれやこれや話している間に、私の思い出話にも興味を持っていただいたようである。そして決め手になったのはアパートにあった『ダストシュート』で、私がその話をすると、確かに『ダストシュート』のある建物を知っていると一人が言い出したのである。そこだけなら見せてあげようということになって車で案内された。実はそれぐらい構内が広いのである。工場を囲む昔からある煉瓦塀をお目にかけよう。ほんの一部なのである。



何カ所か煉瓦造りの建物に連れていかれ、遂に、私が住んでいたのとまったく同じ棟なのかどうなのかは分からないが、明らかにそれとおぼしき建物に行き当たった。



建物全体の形は歩行姿の妹の背景のと同じ、また窓の下にある張り出しは間違いなく妹が腰を下ろしていたところであろう。そして屋上の柵は私の背景に写っているものに似ている。ただ上屋の位置関係からすると現形の裏側になるのであろうか。間違いなくかって住んでいたアパート群が残っていたのである。それも手入れがよく行き届いた形で。50数年ぶりの再会であった。

ほかにもはっきりと存在が確認できたのは、昔の幼稚園の写真で右端、アパートの上に抜き出た屋根の形の建造物である。煉瓦塀の遙か彼方の外れにある門から撮ったのが下の写真で、同一であることが分かる。



戦後50年を経て、そして過酷な朝鮮戦争を生き抜いて、かって『鐘紡』が築き上げた建造物が依然として使用されていたのである。後で工場の方に話を伺った。あのアパートも壊そうとする動きがあったそうである。ところが余りにも頑丈に出来ているので、壊すのに費用がかかりすぎる。それなら、と言うわけで一部の社員アパートを改装してゲストハウスとして活用することにしたそうである。

武藤山治、津田信吾といった骨太の経営者が築き上げた世界に冠たる『鐘紡王国』の覇気、使命感、そして現場の職人魂。その一つの結実としての『永登浦工場』が、時代もまた持ち主も変わっても、半世紀にわたり、韓国に人達に使われ来た現実は、政治の世界とは異なる、人々の『本音』を素直に映し出したものと私は受け取るのである。

一方、粉飾決算を繰り返していたとして最近報じられた『カネボウ』の責任あるべき経営陣のモラルの崩壊は、惨めとしかいいようがない

最新の画像もっと見る

11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2006-04-07 01:25:54
多彩な写真に驚きました。

僕の祖父と祖母も、永登浦=えいとほうに住んでいて、鐘紡に務め、きっと写真にもある社員寮で僕の父は生まれました。そして敗戦がなかったらそのまま文中にある学校に行っていたと思います。鐘紡の工場では、うちの祖母は優しく現地の朝鮮人にも教えていたといいます。

ところで当時の工場や寮がそのまま現存していることに驚きました。この国は歴史を湾曲するのは許せませんが、建物を大事に使うことに関してはまあそれなりに評価できると思います。ソウル駅とかソウル市庁とか・・・

祖父母の話に出てくる永登浦の日本語読み「えいとほう」は、なにか悲しくて、切ない響きがします。日本人の、日本人町の栄華(文字通り何もない荒野をあそこまで発展させた!)とその後の理不尽な引き揚げという歴史を思うときに、一族の血が、日本人としての血が悲しいイメージを連想させるから。けいじょう、ちょうせんそうとくふ、まんしゅう、しきしまどおり、やまとほてる、などを聞いてもそのような思いを抱きます。

祖父母はもう旅行できないように老いてしまいましたが、きっと将来何度にも渡って、新しい家族が出来たら連れてきてここを訪れることになると思います。

たしかに、民族で協和しながら半官のような形で、文字通り大陸的スケールで稼動していた鐘紡は、当時の見る影もなくなってしまいましたね・・
懐かしさを覚えました (lazybones)
2006-04-07 22:13:46
コメントを寄せていただきありがとうございました。とくにご祖父母が生活しておられたと伺い、それだけで目頭が熱くなりました。ひょっとしたらお互いの足跡が鐘紡の社宅のどこかで交差していたかもしれません。

国としては日韓関係は難しいこともあるでしょうが、私にとってはそこで育ったかけがえのない大事な場所です。そこで生活している人々に親近感を抱きその幸せを願うのはまったく自然な感情なのです。『歴史問題』はほどほどにしてお互いに前向きになって欲しいとせつに願っています。

それにしてもよくぞこの小文を見付けていただいたものと感謝いたします。
永登浦! (osaka-keiko)
2007-02-16 00:20:15
このブログを書かれてからもう一年もたとうかと言うときになり、書き込みをさせて頂きます。

私の父は1931年生まれ、1998年に亡くなりました。
私は父に、子供時代のことを聞いたこともありませんでしたし、父の両親、兄妹がどのように亡くなってしまったかもほとんど聞かない間に亡くなってしまいました。
最近になり、あるきっかけで父の子供時代のこと、祖父母、家族のことを知りたいと思い、調べるようになりました。調べると言ってももう同世代の親類は亡くなっているか、あまり話を聞ける状態ではありません。
母が知っていたのは、父は小さい頃に大陸に行っていて、祖父(父の父)は紡績会社(東洋紡?)の偉いさんだったらしいと言うくらい。それが満州なのか、朝鮮なのかもはっきりしませんでした。
それが今日、新たに「朝鮮半島」「えいとふぉー」という暗号のようなヒントをもらい、さっそくネットで調べていました。「朝鮮半島」と「紡績会社」はヒットするのですが「えいとふぉー」は全く何のことだか判りません。私には「8×4」という制汗剤しか思い浮かばなかったのです。
もしかして、音の近い地名かもと思い、目を凝らしていろんなページを探していたところついに、「永登浦」…「えいとうほ」という地名を発見しました。今年96歳になるおばあちゃん(父の母の兄の嫁)が「えいとふぉー」と覚えていて、それを皆がそのまま聞き伝えしていたのですね。
これだと思い、さっそく「永登浦」を調べていてこのブログにたどり着きました。当時と現代の写真がたくさん載っていて感無量。亡き父と、祖母に「ここなん?!」と思わず話しかけてしまいました。
「東洋紡」と思っていたようですが思い違いで、地理的に永登浦だと「鐘紡」なのでしょうか?
私は父の子供時代もそうですが、ここで苦労をしたに違いない祖母たち、女の方々の思いを知りたく思っています。
現地にも行ければと思いますが、軍需産業の工場ともなるとなかなか訪れることもできないのでしょうか。
でも今日は本当にこのブログを見つけられたのが嬉しく、また、寄せて頂きます。長々とすいませんでした。ありがとうございました!
よくぞ見付けて下さいました (lazybones)
2007-02-16 16:57:43
感想を寄せていただき有難うございました。

私が永登浦国民学校に入学したときに、あなたのお父さんが上級生でいらした可能性が高いと思います。鐘紡にゆかりの方なら、当然このアパートでお暮らしだったでしょう。私より年長の方ゆえ、もっといろいろとご存じだったことでしょうに、当時の思い出話を語り合えないのが残念です。

父はカメラ好きで、夜、自分でよく現像に焼き付けを楽しんでいました。戦後引き揚げの時に、ネガフィルムを持ち帰って、それから焼き付けたのがここに掲載した写真です。そのネガフィルムもいつの間にか行方不明になってしまいました。先ほどの震災で気付かずに処分してしまったのかもしれません。それだけに私も思いが残ります。

これからも朝鮮のことを折にふれて書き残しておきたいと思いますので、またどうかお立ち寄り下さい。 
ありがとうございます! (osaka-keiko)
2007-02-19 01:26:17
今度父の郷里へ行った際に、アルバムを探してみます。(残っているらしい)どんな写真が出てくるのかすごく楽しみです。同じ建物が映っているかも!!
また、当時のことが判るご推薦の本などありましたら、お教えいただければ幸いです。
どうぞこれからも、いろんなお話をよろしくお願い致します。
公大綿社宅跡地 (とみいまさのり)
2007-03-22 00:39:03
上海、青島、天津と中国租界にあった旧公大(現カネボウ)社宅跡地を追いかけており、この記事を拝見いたしました。元々韓国の日本時代の住宅地と住宅の調査研究をしてきて、20年前から永登浦の労務者住宅地の調査も昔の道林町(今の文来洞)を中心にやってきておりました。この頃の関心はそんな工場社宅や労務者住宅の中で、当時の鐘紡の社宅が居住環境として群を抜いてすばらしかったのではないかと強い関心を持っております。3年前からソウルの漢陽大学建築大学院の招聘教授をしており、ソウルにいることが多いので是非韓国の鐘紡社宅も訪ねてみたいと思います。差し支えなければ現住所を教えていただけると助かります。因みに三坂小学校は後者が現在もあり、そこを卒業された方々は同窓会を組織し、当時の地図を作成したり、10年ほど前までは現地を訪ねられたりしていました。
鐘紡工場跡地の現在 (とみいまさのり)
2007-04-01 21:32:17
2007年4月1日1号線永登浦駅前新世界百貨店裏の工場跡地を訪ねました。現(株)京紡の敷地です。衛星写真で検索したところ工場の残っているのはこの地域だけだったので早速調査にむかいましたが、すでに建物は1つも無く敷地は大工事中でした。京紡の名前から想像するにこの敷地が戦前の鐘紡工場跡と考えますが、いかがでしょうか。ここは京紡(株)の事業主によって2006年度から再開発が始まり、現在は地下掘削の最中で、事務所兼アパート、ホテル、ショッピングセンターが現京紡百貨店と連結して予定されています。ソウルでも鐘紡の武藤山治のロマンが体験できると思い、期待して訪ねましたが残念でした。次回当時の地図資料で位置を再確認したいと思いますが取急ぎご報告まで。
お知らせに感謝 (lazybones)
2007-04-03 11:45:04
とみいさま、
永登浦にありました鐘紡工場の現状をお知らせいただいて有難うございました。私が訪れたときの記録など、探してみようとおもいながらそのままになっております。
あの地域が再開発されるのも時の流れのように思います。その意味では私が再訪を果たせたのはラッキーであったと思います。
京城の旧居もその時はまだ残っていましたが、こちらもいずれは取り壊される運命にあることでしょう。この方も記録を残そうと思いますので、またの折にどうぞお立ち寄り下さい。
懐かしいです (マリダー)
2009-03-10 03:46:22
私の叔父が、政府より譲り受け、そのままの場所で紡績会社を経営してました。
写真の建物の中、アパート、工場、事務所棟全てしってます。懐かしいです。アパートは日本からの単身赴任の方が使用してましたよ。
事務所も解放前のままつかってました。
一階が事務所で二階は会議室、社長室とうがありました。二階の叔父の部屋で叔父に会った記憶が昨日ことのようです。工場の中も社員食堂も覚えてます。広大な工場でした。
裏門と表門とで町名、韓国では洞名ですが、ちがいました。表門は永登浦の駅が近かったですよ。
懐かしさでいっぱいです (福田福光)
2011-05-05 18:57:35
私は昭和20年6年生でした。仁川の国民学校から3年生の時に永登浦国民学校へ転校しました。学校のすぐ前に鐘紡があったこと、通学路に東洋紡があったこと等懐かしく思い出しています。ちなみに父は三共製薬に勤務していました。終戦のドサクサで幼時の写真も残っていません。屋上の男児の写真等、このような服装だったと大変に懐かしい思いです。私は何故か駅長と綽名されていました。多分駅長のような帽子を被っていたのでしょう。昔の永登浦の地図が有りましたら是非見たいです。現状と比較できたらどんなに楽しいかと思ったりしています。