日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

アジサイ かって京城三坂通神井台の庭に

2008-06-04 17:27:28 | 在朝日本人
梅雨に入り昨日も午前中は雨がわが物顔に降っていた。雨上がりの午後庭に出ると、日ごとにふくらみを増すアジサイの色が目を楽しませてくれた。鉢植えにしていたのを三株地植えにしたが、そのうちの一株だけがいち早く開花した。茎の高さはまだ50cmほどで、子供の頃の思い出にある身の丈ほどの高さにはまだまだ届かない。



昭和16年の夏休みに当時の朝鮮京城府の永登浦から三坂通神井台(しんせいだい)の家に引っ越した。庭は何段かになっており、その先は低い石垣があるだけで朝鮮神宮のある南山に繋がっていた。多分その山に向かって私が立っているのだと思うが写真が一枚アルバムに残っており、その下に「京城、三坂通、神井台庭内」と父が書き込んでいる。この写真には残念ながら写っていないが、庭の一隅に背の高さほどのアジサイが群生していて青色の大輪を咲かせていた。両親はもう亡いし5歳下の次弟以下は幼すぎたから、私の記憶だけにとどまっている花である。以前この家に住んでいた日本人が植えたのだろうか。



この神井台の家の前に石段があった。今の隠宅と同様、もともと山を切り崩して造成したからであろう。この石段に座っている私は当時国民学校一年生で、三角形の帽章が三坂国民学校のものである。帽子はまだ新しいが、運動靴はいかにもあわれな姿である。靴紐はないし、それよりなにより右靴が大きく破れている。すでに南洋からの輸入に頼らないといけないゴムが貴重品で、運動靴も配給制になっていたと思う。しかもぼろぼろであれ古い靴との引き替えだった。学校で交換したような記憶があるので、もしかしたら国民学校児童への特配があったのかもしれない。



石段を下りて前の道路を左へ歩いていくと自然と山の中に入っていったように思う。その途中、家の斜め向かい数軒先に吉田さんという上級生の家があった。少年倶楽部という雑誌が沢山揃っていて見せて貰うのが楽しみだった。一年生だったのに遠慮もなしに上級生の家によくぞ押しかけたものだ。よほどのおませだったのだろうか。

先日京都で催された関西三坂会で、同じテーブルの元上級生に住んでいたところを尋ねられて「三坂通りです」と答えると、さらに「神井台?」と聞かれた。私が以前三坂通りの旧居を訪ねたときに、この神井台の方は様子がすっかり変わっていてこの家(跡)を見つけることが出来なかったので、この方に当時の事情をお聞きしようと思ったが、同級生との話に戻られたのでそのままになってしまった。

夏休みにアジサイを手がかりにあの辺りを歩き回って旧居跡にでも辿り着ければ、と思うが、もう様変わりで無理なような気がする。


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1 コメント

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「京城1930」企画展を観る (近藤耿爾)
2011-05-30 11:29:38
引退後家系家譜を纏めているところです。
縁近くは伯父、伯母、父の兄弟姉妹の先代から、あるいは縁遠くは井上候、寺内伯までつながる祖父、曽祖父の兄弟姉妹の先々代から、我が家は韓半島(朝鮮半島)や中国東北地方(旧満州)には何かと縁のあることを知りました。

5月中旬ソウルと済州島を10日間のばかり周って来ました。たまたま清渓川文化会館での「1930年京城」の企画展を知り、好機と観てきました。残念ながらその場には日本語の解る学芸員
が不在のようで委細を得ることは適わずでした。
当時の地図・資料も幾つか得て、父も咸興より時々訪ねていた京城の伯父伯母の住まい界隈の南山洞(南山町)や、厚岩洞(三坂通界隈、)の当時の雰囲気を残す街並みを観て参りました。
三坂小学校、第二高等女学校に通っていた従姉(二周り近くも上)より聞いたそれらの跡地と現状は解りました。しかし、住まいは「つるがおか」のみで旧住所地番は聞けずで解らずじまいでした。裏路地は今なお昔の雰囲気を残している様子でした。

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