日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

加古川線の記事で買い出し列車を思い出す

2011-01-16 19:11:49 | 昔話
今日は日曜日なのに不断より早く起きた。加古川で親戚の法事が営まれるからである。タクシーで最寄りのJR駅に駆けつけたが電車が遅れている。しかし予定の時間に乗ることが出来た。元来は一つ前の列車なのである。東の方では雪で徐行運転していたらしい。朝早く東京駅を発った従弟たちも新幹線がかなり遅れたとのことである。冬期の移動には何かと気を遣う。

ところでこの加古川に関して、昨日のasahi.comに次のような記事(抜粋)があった。

阪神大震災、迂回路で活躍した加古川線 ファン、今でも


 週末には鉄道ファンがやってくる。切符を1区間買って迂回する「大回り」。加古川駅で隣の東加古川駅まで3.6キロ区間の切符を180円で買い、加古川線経由で宝塚線の尼崎駅で神戸線に戻れば182.4キロの旅を楽しめる。昨夏、仲間と回った加古川市の主婦(59)は「おしゃべりして、ホームでお弁当を食べて。すごく楽しかった」。

 とはいえ、迂回路を利用するのは休日に10人ほど。それが4千人に達したのは、1995年1月17日の阪神大震災直後だ。JR神戸線は地震後1週間でも甲子園口駅(西宮市)と須磨駅(神戸市須磨区)の27.5キロ区間が不通となり、全線復旧は4月1日だった。

 このため、加古川線は大阪と神戸を結ぶ迂回路に。福知山線と接続する谷川駅では、1日平均260人だった乗り換え客が8500人に膨れた。直通列車(加古川―谷川間)も1日9本から2月初めに45本になり、各地からディーゼル車をかき集めた。

 一時は廃線もささやかれたが、震災で評価は一変し、45億円で2004年に全線を電化した。

震災後、私は当時京都に単身赴任しており、週末神戸の自宅にJRで帰る時、不通区間は代替バスが走っていた。今日加古川に行く途中に気がついたことであるが、蒸気機関車が走っていた頃は、西明石を出ると大久保、土山の次が加古川だった。それが今は大久保と土山の間に魚住駅が、土山と加古川の間に東加古川駅が出来ていた。この沿線がベッドタウン化したニーズに応えたのであろう。この辺りから大阪方面に出るのに、この迂回路が利用されたのであろう。明1月17日が阪神・淡路大震災記念日なのでこの記事が出たのだろうが、私が加古川線で思い出すのは戦後間もない頃の買い出し列車なのである。

私は敗戦を朝鮮で迎えた。戦時中でもとくに食料不足を感じたこともなく、日本が戦争に負けるやいなや京城の青空市場では目を見張るような様々な食料品が溢れかえっていた。備蓄食料品がどういう流通経路かはいざ知らず流れ出したのであろう。それだけに引き揚げてきてからの食糧難がわが一家に重くのし掛かってきた。1945年11月に引き揚げた直後は高砂に住んだが、この一帯は父母の地元とて親類縁者に厄介をかけていたことと思う。そして翌1946年に神戸に移り住んだ時から、折に触れて買い出しに出かける父について行くことになった。私が小学6年から中学1、2年にかけてである。

買い出しと言っても見知らぬ農家を廻るような才覚は父にはなく、ほとんどが親戚巡りであった。荷物が増えそうな時に私に動員がかかり、出かけたのが加古川線沿線であった。そのうちの一つが母方の伯母の家で、さつま芋の収穫時期には芋掘りを手伝いに行って、蒸しあがった芋をたらふく食べ、ルックサックに一杯詰め込んで貰っては担いで帰った。10キロは優に超えていただろうが加古川線の滝野駅まで1里以上の道をものともせずに歩き通した。この当時山陽本線は旅客列車であるが加古川線は貨車が使われていた。貨車に人間が乗るのである。超満員の旅客列車が加古川駅に着くやいなや乗客が先を争ってプラットフォームを疾走し、加古川線の列車に乗り込むのである。ある時、目に入る貨車が全部満員なのに一車両だけ人が沢山乗り込んでいる。それっとばかり乗り込もうとして唖然とした。貨車の反対側の扉が開いていて、先に乗り込んだ人が後から入って来る人に押されて線路上にどどっと落とされていたのである。今Googleで「買い出し列車」の画像検索をすると、その凄まじい情景を目にすることが出来るが、貨車の買い出し列車は残念ながら出てこない。父方の叔母の家には厄神駅から歩いていったし、加古川駅からは母方の叔母の家を頼っていった。

今日はその叔母の連れあいであった叔父の33回忌法要であった。息子が6人、そのうちの一人が以前洋食屋がどんぶりや屋に でも味噌屋は味噌屋に登場した従弟である。味噌屋の店頭に自分の文章が張り出されていることは知っていなかったが、味噌業界の団体に関わっていたのでその繋がりであろうと言っていた。帰りの加古川駅で加古川線への乗り換え口が目に入ったが、買い出し列車はもちろん、震災時の迂回路もだんだんと遠のいていく。より彼岸に近づいたせいであろうか。




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