木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

夕暮れに染まる生駒山 饒速日命の引力

2024-03-11 00:29:40 | 随想
夕暮れに染まる生駒山を平城京跡から眺める。

奈良県と大阪府との境界になっている生駒山。
大阪府側から眺めれば朝日が昇り、
奈良県側から眺めれば夕日が沈む。

生駒山の東側一帯には神武天皇が東征するより
以前から饒速日命を奉戴する古代王朝がありました。
古代縄文祭祀の一族である登美一族が支配し、
その指導者が長脛彦でした。
生駒山の西側一帯は山麓までが海であり、瀬戸内海
を東征してきた神武天皇の軍を長脛彦が率いる
古代縄文一族が撃退した事から昭和初期の皇国史観
により長脛彦の名前を語る事はいつしかタブーと
された事が奈良県生駒市一帯の伝承から分かります。

戦前や戦時中は演説会場や集会所には常に憲兵が
見張り、弁士が長脛彦の事を話すと憲兵が
「弁士、注意!」
と演説を制止したり時には連行したと奈良県生駒市
一帯の伝承は伝えます。
行き過ぎた統制ですね。
言論統制や検閲がある世の中に進歩はありません。
戦後の自虐史観も問題ですが戦前、戦時中の
皇国史観も問題です。
普遍的な歴史認識に立脚する必要性を感じます。

戦後しばらくの時期まで、奈良県生駒市一帯は
長脛彦の子孫が住む場所だとして様々な圧力を
受けた事が奈良県生駒市一帯の伝承から分かります。
やり過ぎですね。

通史では長脛彦に敗れた神武天皇の軍は紀伊半島
を迂回して熊野から大和盆地に入り、再び長脛彦の
軍と戦い撃破して橿原にて即位し初代天皇になった
とされています。
しかし奈良県生駒市一帯の伝承では熊野から大和盆地
に入ってきた神武天皇の軍を長脛彦の軍は再び撃破
していると伝わります。
そして神武天皇の軍がいよいよ降伏かという時に
空から不思議な光が降り注いだと伝わります。
それを見た長脛彦の軍が奉戴する饒速日命が
「これは和睦せよ、という天の知らせだ」
と感じ降伏寸前だった神武天皇の軍との和睦を
長脛彦に命じたと伝わります。

ところが二度目の勝利目前の長脛彦の軍は納得
できず怒りを滲ませます。
奈良県生駒市一帯の伝承では様々な説があり、
①和睦に納得できない軍により長脛彦は殺害された
②和睦に反対した長脛彦が饒速日命により殺害された
③長脛彦が自害する事で軍を納得させて神武天皇の軍
 と和睦した
④長脛彦は今の青森県辺りに亡命して新たに縄文王朝
 を築いた
という説があります。

更には本当は和睦した後に神武天皇が今の学園前近く
の富雄の付近で即位したのだが、余りにも不都合な
ために当時は未開の地だった橿原にて即位した事
にして歴史を改竄したとの伝承もあります。
つまり当時の都は今の学園前近くの富雄付近だった
との伝承もあります。
面白いですね。
事実かも知れません。

ちなみに饒速日命が天からの和睦の知らせだと
感じた不思議な光が降り注いだ事から今の学園前近く
の富雄付近が金鵄の発祥の地とされています。
好奇心が湧きますね。
生駒山の東側には登美ヶ丘とか富雄、登美という
地名が今もあり、これは神武天皇の東征以前に
この一帯を支配していた古代縄文一族の登美一族
の名前に由来します。

また西暦570年頃に生駒山の東側一帯に隕石が
落下し、当時の王朝が全滅したという伝承も一帯
にはあります。
何が真実なのでしょうか。
生駒山系北部にあるイカルガ峯に饒速日命による
天孫降臨が伝わります。
付近にある河内磐船神社には巨大な磐座が鎮座
しており饒速日命が祀られています。
また奈良県生駒市の白庭台駅の近くに饒速日命の
墓がひっそりと祀られています。

古事記や日本書紀は日本の歴史を封印するため
に藤原不比等が編纂したものだと言えます。
古事記や日本書紀により隠されたものは何なのか。
古事記や日本書紀により改竄されたものは何なのか。
この辺りに太古から古代の日本の秘密がありそうです。

その1つが饒速日命の存在でしょう。

夕暮れに染まる生駒山を眺める度に饒速日命の
引力のようなものを感じます。

コメント
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