鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

奈良市・元興寺の  かえる石

2015-08-23 14:52:51 | デジカメ散歩
奈良の元興寺に伝わる有名なお話でっせ。

3年前に訪れた際のブログではスルーしたんでっけど
最近の画像が種切れでおます、そんな訳で悪しからず。

(真言律宗 元興寺の東門)(国の重要文化財)





ここ10年ぐらい前から有名になった奈良町におますんや。

有名な割には観光客があまり訪れない隠れた名刹でっしゃろな。

昔は南都七大寺とも称された大きな寺院だったんでっせ。

現在は極楽堂と呼ばれる一僧坊だけしか残ってまへんけど。

(世界文化遺産 元興寺の石碑)



訪れる観光客は極楽堂と呼ばれる本堂を一周して
デジカメで記念撮影したら、お仕舞でっかな。

(国宝 極楽堂の本堂)











それじゃ~ 今回の「かえる石」のお話に入りまひょ。

この極楽堂の裏手に目立たない感じでヒガンバナに囲まれ
本堂に向かって静かに安置されてますんや。

(かえる石 説明板)



この「かえる石」は戦後の1958年(昭和33年)に大阪市内から
移設されたんでっけど、実に色んな噂や迷信に包まれた不思議な石で
現在は、有縁無縁一切の霊を供養して極楽カエルに成就されたんだって。

(元興寺境内の かえる石)



元は大坂城に置かれていた石だそうで、太閤秀吉がこの石を
特に愛したとかで、この石に座って瞑想に耽ったとの伝説も。

大坂城が落城した際にはこの石の下に淀君や女房衆が
埋められたとも伝えられてますんや。

淀君の遺体が発見されなかったのでこんな伝説が
生まれたようで彼女の怨念が込められているとか。

徳川幕府が大坂城を再建した際には邪魔なので乾櫓の
対岸のお堀端に打ち捨ててしまったんだって。

(大阪城の天守閣と 内堀)



それからと言うものは、この石からお濠に身投げする人や
変死した方の遺体がこの石の真下の濠で発見されるそうな。

江戸時代の「雲根志」という奇岩や標本を分類・考察した
書物にも大坂城堀島町にこの石が在ると記されてまっせ。

現在の大阪府庁舎から追手門学園が在る辺りに成りまっかな。

(大阪城 西側のお濠)



1940年(昭和15年)にある男性がこの真下のお濠で
浮いているのが発見され、一命を取り止めたそうでんがな。

警察の調べで石の上からお濠に飛び込んだんだろうと言われ。

私は石に座って写生をしていたら甘い香りが漂ってきて
十二単の女性が数人の腰元を伴って現れたと証言。

手招きをされたとこまでしか記憶がないと証言。

気が付いたらお濠に落ちていたと言う話でっしゃろ。

江戸時代のお話だと言われていた流言が昭和の時代に。

大阪城を管理していた大阪の第四師団が慌ててこの石を
現在の大阪府警本部のある辺りに動かしたそうでっせ。

戦争中は一時この石が行方不明になっていたようでんな。

戦後になって法円坂の雑木林でこの石が発見されて
しかるべき~ 大きな寺院に納めて供養すべきとの声。

そんな経緯から奈良の元興寺にお願いすることに成ったとか。

(元興寺 裏手の石仏群)



元興寺では毎年7月7日には、この「かえる石」の前で
供養の法会が行われ、参拝者が「かえる石」に水をかけ
無病息災と「かえる石」の供養を大大的にやるんだって。

最近は「無事かえる」とか「福かえる」とか読み替えて
置物とし玄関先や庭先に置かれてるのが良く見られまんな。

最後は興福寺の五重塔と猿沢の池を張り付けておきまひょ。

(興福寺五重塔と 猿沢の池)



猿沢の池から南へ歩いて10分ぐらいの処におまっせ。

奈良町は若い男女で賑わいますが元興寺はお年寄りが
立ち寄るぐらいのひなびたお寺でっけど。

今日はこれぐらいでお仕舞にしまっさ。

来週も保存中の画像からになりまんねん。

ほな~ これで、さいなら~♪















コメント (18)
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