鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃんや爺や  阿倍野を歩く~♪

2015-08-01 20:26:32 | デジカメ散歩
大阪市阿倍野区と言うのが正式な地名だっせ~

昔から「阿部野」とか「あべの」とも書かれますんや。

最近は「あべのハルカス」が有名になりましたけどな。

今回は隠れた阿倍野・阿部野・安倍さん を紹介しまひょ。

(熊野街道から あべのハルカスを望む)



道幅が4mぐらいの細い通りでっけど中世には熊野街道の
大坂では熊野三山や住吉大社への参詣で賑わった街道でっせ。

あやふやで、はっきりしない地域もおますけど。

(熊野街道の道標)







江戸時代には八軒家浜(現在の天満橋)が起点でしたんや。

中世には「渡辺の津」とか呼ばれてたそうでんな。

京都から船で淀川を下り、渡辺の津からは標高20mぐらいの
上町台地を徒歩か輿で上皇さまや平安貴族が約200km先の
熊野権現を目指したのがこの熊野街道だったんでっせ。

スタートから約7kmでっさかいに、まだ始まったばっかり。

(熊野街道を 南方向に撮影)



まずは阿倍野区の地名に成ったとの説もある神社へ行きまひょ。

前々回に少しお話ししました熊野九十九王子の大阪府で唯一
同じ場所に現存すると考えられる「阿倍王子神社」でっせ。

大阪府である摂津の国と和泉の国には九十九王子神社が
二十二社も在ったそうですが現在ではここのみでんな。

当然ながら現在も熊野街道に面して鳥居が建ってますんや。

(阿倍王子神社の 鳥居)



(阿倍王子神社の ご神木)





参道の両側に、ご神木が四本植えられてますんやけど
何故か三本だけに、保存樹との表示板が添えられてま。

ご神木の参道を通り抜けると拝殿で、熊野大社の本宮と
同じ建て方になっているんだって。

拝殿は太平洋戦争の空襲で焼失し戦後に再建された物。

ここは熊野九十九王子の第五番目の摂社になるんだとか。

中世の上皇さまや平安貴族は九十九王子神社を順番に
お参りし合わせて旅の安全を祈願したんでしょうな。

(阿倍王子神社の拝殿)





(阿倍王子神社 由緒書き)



現在はこの神社の裏手が「あべの筋」と呼ばれる大通りで
熊野街道はこの「あべの筋」を左にしたり右にしたりして
おおむね、平行しながら泉州から紀州へと続いてますんや。

当時の大阪ではここ上町台地の西側は直ぐに海岸だったとか。

船場や大阪の繁華街であるキタやミナミはまだ海の中だった。

だから江戸時代の紀州街道はまだ存在しなかったのかも?

在ったとしても漁民が往来する小道に過ぎなかったのかな。

(阿倍王子神社 太鼓の稽古中)



氏子の子供さんたちが夏祭りの太鼓の練習をされてまっせ。

画像の左手が「あべの筋」の大通りに抜ける参道ですわ。

地元の方はここからも出入りされるんでしょうが
正式な参拝は鳥居のある熊野街道やと思いまんねんけど。

蛇足ながら明治維新までは、この上町台地から東側を東成郡
上町台地の下から海側を西成郡と呼んでましたんや。

それに南側が住吉大社の社領で住吉郡と呼ぶ荘園でんな。

現在は西成区と言えば「釜ヶ崎」をイメージする怖い街。

だけど江戸時代には西成郡は現在の新大阪駅を含む大阪の
繁華街やベイエリアを全て含んでいたんでっせ。

(阿倍野区 阿倍野元町 住居表示)



対する摂津の国・東成郡は四天王寺や大坂城など中世までは
中心街として栄えたものの江戸時代には衰退に向かう訳でんな。

この辺りは江戸時代には摂津の国・天王寺村大字阿倍野
明治時代には住吉郡に編入されたこともおましたんや。

住居表示を見てもらったら阿倍野区の阿倍野元町
この辺りが「あべの」の地名を生む元祖なんでしょうな。

その一つが先程の、阿倍王子神社から来ているとの説が。

次はもう一つ、混乱させるような名前が出てきまっせ。

(安倍晴明神社の 鳥居)





(安倍晴明神社 由緒書き)





安倍晴明(あべのせいめい)ちゅうお方ご存じかしら?

そうそう~ 陰陽師(おんみょうじ)の安倍晴明さん。

十数年前にベストセラーにもなりテレビにも登場し
特に若いご婦人方には、大人気を呼んだものですわ。

(安倍晴明神社 拝殿)





おそらく~ 大阪の方でも訪れた事がない神社でっしゃろな。

町の鎮守様ぐらいにしか見えない、こじんまりとしたお社。

その安倍晴明さんが此の地でお生まれに成ったようでっせ。

(安倍晴明さんの像と 白狐)





平安時代の10世紀に生まれ藤原道長公の活躍した
11世紀初めまで陰陽師寮の筆頭と播磨守も兼務。

中級官僚を勤め従四位上の位を持つ実在の人物ですわ。

しかも~ 伝説によれば、母親は信太の白狐だったとか。

(葛之葉姫の 石碑)





安倍晴明さんの父親は安倍保名というお方だったそうですわ。

有るとき和泉の国・信太郷で村人に追われた白狐を助けたそうな。

その恩義に白狐が若い娘に化けて安倍保名にアプローチ。

白狐が葛之葉姫と称され安倍保名の妻に成ったようでっせ。

そして生まれたのが安倍晴明で、ある時に葛之葉姫が誤って
正体を見せてしまった(しっぽかな?)んだって。

安倍晴明がまだ幼いころのお話だったとの事。

「恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる
  信太の森の うらみ葛の葉」

こんな和歌を残して身を隠してしまったそうですわ。

安倍晴明は成人して京都へ上ったそうでんな。

安倍晴明は賀茂忠行を師に天文学や陰陽道を学び
京都で最高の陰陽師(おんみょうじ)に成ったとか。

彼に勝てる陰陽師はとうとう現れなかったんだって。

その子孫は土御門家となり暦などを司る家系になり
朝廷が暦を改定する際には常に重んじられたとか。

京都市の一条戻り橋には「清明神社」がおまっせ

ここは訪れてまへんけど一番大きくて立派だとか。

関東には少ないでっけど西日本には安倍晴明を祀る
神社があちこちに在るようでんな。

信太の森にも安倍清明神社が残っているようでっせ。

(龍神様と 晴明水)





(安倍晴明神社 社務所)



現在でも占いでこの神社は副業で儲けているのかしら?

この辺りは奈良時代の豪族・阿倍氏の本貫の地だったとか。

「天の原 ふりさけ見れば 春日なる
     三笠の山に いでし月かも」

阿倍仲麻呂が故国への望郷の和歌として有名でっしゃろ。

遣唐使で唐の国に渡り唐の皇帝に認められ唐の高官にまで
上り詰めるも日本への帰国を許されず最後は長安でしたかな
彼の地で亡くなったんでしたよね。

そんな訳で阿倍氏や安倍氏が住んだ地名が阿倍野区の
名称に成ったとの説が有るんですが、定かじゃおまへん。

(阿倍野区 晴明通りの 住居表示)



(清明通りの 旧家)



清明の名前が付いたマンションやビルまでおまっせ。

この辺りは太平洋戦争の空襲を免れて大正や昭和初期の
建物が残っている、閑静な住宅街でしたんやけど。

少しづつ変わって行くようにも見えまんな。

(歴史の散歩道 道標)



阿倍王子神社を安倍王子神社と間違えてるけど。

安倍王子神社と書かれてる文献があるのかしら

(あべの筋 松虫の交差点)



交差点を向こうの方へ行けば平野区から八尾市へ。

次の画像は反対側を撮影したものでんな。

松虫の交差点を越えて右側の細い道が熊野街道でっせ。

自転車が2台こちらへ向かってくる後ろ側でんな。

左側の広い通りが「あべの筋」で正式には大阪府道
大阪・堺・泉南線と呼ばれてますんや。

(あべの筋と 熊野街道の分岐点)



この近くには阿部野神社と言う元別格官幣社もおますんや。

長くなりますんで松虫塚と阿部野神社は次回にしまひょ。

ほんなら~ これでさいなら~♪





























コメント (18)
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