観月橋駅から平等院で有名な宇治駅へ向かって
京阪電鉄宇治線で四つ目の黄檗駅で下車。
(奥に見える土塀が 萬福寺)
駅から歩いて約10分ぐらいの処に有名な萬福寺と言う
黄檗宗の大本山がおますんや。
先ずは門前にある食堂で茶蕎麦を食べて腹ごしらえでんな。
宇治茶の近くなのでこの辺りでは茶蕎麦が名物なんですわ。
(茶蕎麦 & 黒豆茶)
ご存知のように日本には三つ禅宗の宗派がおますんや。
曹洞宗 臨済宗 この二つは鎌倉時代に中国から伝わりました。
黄檗宗は江戸時代の4代将軍 徳川家綱公の時代に中国の
隠元禅師という方が江戸幕府の援助で萬福寺の開祖に。
江戸時代には末寺が1千を超える大きな宗派になったとか。
ここは当時、後水尾天皇の生母で中和門院さんの屋敷跡を
生家の近衛家から幕府が買い上げてお寺を造ったんだって。
後水尾天皇(当時は法王)さんも黄檗宗を篤く帰依したようでっせ。
(萬福寺 総門)
このお寺は17世紀頃の中国は明時代の臨済宗の様式を伝えています。
総門の屋根に見えるのはシャチホコだと考えて入山したんでっけど
本当は中国の想像上の動物で摩加羅(まから)と呼ぶ動物なんだって。
なんでも女神を守るワニから出ているとの説が有るんだって。
左右の屋根が低い日本のお寺には見られない牌楼(ぱいろう)と呼ぶ
中国独特の様式で造られた門だと書かれてまんな。
(萬福寺の 三門)
此処からが正式な萬福寺の境内になるんでしょうな。
それじゃ拝観料の500円を支払って奥へ向かいまひょ。
(萬福寺 ご朱印) (ご朱印は別に300円)
(黄檗宗 萬福寺の案内絵図)
日本のお寺なら山門を通り抜けたら多宝塔や本堂がおますわな。
此処では天王殿(てんのうでん)と呼ぶ玄関のようなお堂がおます。
中国のお寺ではこれが一般的だそうでっせ。
(萬福寺 天王殿=てんのうでん)
大きな布袋さんが入口に座ってはりまっせ。
その布袋さんは中国では弥勒菩薩の化身とされてますんや。
周囲を囲むように四天王像と布袋さんの裏側には韋駄天像が。
お祀りされているお堂のようですわ。
(萬福寺 韋駄天像)
禅宗のお寺には韋駄天さんが必ず置かれてますな。
中国では本尊を守護するのが韋駄天さまなんだって。
(四天王像)
最近は拝観料は徴収するくせに撮影禁止のお寺が多いでっしゃろ。
ここは、その点では雲水さん(修行僧)だけは撮影を禁止のお願いで
仏像やお堂の内部などは写させてもらえるのでラッキーでしたわ。
(萬福寺の回廊)
徳川幕府が許可し建立した禅寺なので葵の紋が入ってまっしゃろ。
西暦1661年~1671年まで掛かって完成したんだとか。
何故に4代将軍の徳川家綱公がこれほどの肩入れをしたんだろう?
徳川家には宗旨である浄土宗があり江戸では東叡山の天台宗も在る。
どうも~ 中国からやって来た隠元さんにも分からない事が多い。
60歳を超えているのに弟子を連れて日本へやってきたとか。
3年で中国へ帰るのを諦めて、最後は黄檗山 萬福寺にて死亡。
清国に追われた漢民族の明国残党から助けを徳川幕府に求めたとの説も。
単に明末清初の中国から逃れただけなのかもしれないけど。
当時は堕落していた禅宗を本来の禅宗に戻したかったとの
徳川幕府の願いが隠元禅師を利用して新しい宗派を作らせたとも。
(萬福寺の本堂 大雄宝殿=だいおうほうでん)
大雄宝殿と大きく書かれた額は隠元真空大師の直筆なんだって。
その下で一階軒下の額は二代目の木庵禅師の直筆とのこと。
それにしても隠元さんや二代目の木庵さんは達筆ですな。
隠元禅師から14代までは中国人の僧侶が萬福寺では住職に
江戸時代の後半になってから、やっと日本人の住職になったとか。
隠元さんは自分が中国の福建省で住職をしていたお寺と
全く同じ名前の黄檗山 萬福寺と名付けたようですね。
それで中国のお寺を「古黄檗」と呼び日本の方を「新黄檗」と
今日でもそう呼ばれていると案内書には書かれてまんな。
江戸時代には臨済宗 黄檗派と呼ばれていたそうで明治に成ってから
黄檗宗という禅宗の宗派として新たに認められたそうですわ。
(真空の 扁額)
「真空」とは隠元さんが真空大師の尊号を朝廷から得た処から。
本堂の中央には本尊の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)と脇侍仏二体
本尊さまを囲むように十八羅漢像が配置されてますんや。
日本では普通は十六羅漢像だけど中国では十八羅漢像なんだって。
こんな処でも中国の臨済宗の本来の姿を伝えているとも。
(萬福寺本堂の 十八羅漢像)
中国的な画像を1~2枚貼り付けて置きまひょ。
日本のお寺とは雰囲気が違いまっしゃろ。
良く見れば中国らしい建築技法が各所に見られますんや。
この木魚(もくぎょ)も隠元さんが中国から伝えた物だそうで
今日ではいろんな宗派で使われるようになったんだって。
(萬福寺 法堂)
ここで雲水さんが座禅を組み、師匠から禅問答の説法を受けるお堂。
現在も中国から伝わった唐韻の言葉でのみ、お経が読まれるんだって。
(巡照板=じゅんしょうばん)
禅寺へ行かれたらこんな板が掛かってるのをご存知かしら?
黄檗山 萬福寺でも毎朝4時が起床で夜9時が消燈との決まり。
それを知らすために経を唱えながら巡照板を叩いて雲水さんが
回廊を走り回ることを毎日続けるのも修行の一つなんだとか。
(雲版)
(開版 かいぱん)
これらも雲水さんが修行で叩く鳴り物のようでんな。
隠元さんと言えばインゲン豆が一番有名かもしれまへんな。
他にも西瓜(すいか)なども隠元禅師が日本に教えたとのこと。
中国から伝わったものを今でも萬福寺では育てているようですわ。
(原始ハス)
鉄ちゃん爺やは若いころに一度だけ訪れてるはずだが
こんな大きな寺院だったとは記憶も薄れてしまってました。
今はやりの中国や韓国からの観光客も立ち寄らないし
京都では隠れた名所とでも言えるかも知れまへん。
これで黄檗山 萬福寺のお話はお仕舞いにしまひょ。
ほんなら~ これで さいなら~♪
京阪電鉄宇治線で四つ目の黄檗駅で下車。
(奥に見える土塀が 萬福寺)
駅から歩いて約10分ぐらいの処に有名な萬福寺と言う
黄檗宗の大本山がおますんや。
先ずは門前にある食堂で茶蕎麦を食べて腹ごしらえでんな。
宇治茶の近くなのでこの辺りでは茶蕎麦が名物なんですわ。
(茶蕎麦 & 黒豆茶)
ご存知のように日本には三つ禅宗の宗派がおますんや。
曹洞宗 臨済宗 この二つは鎌倉時代に中国から伝わりました。
黄檗宗は江戸時代の4代将軍 徳川家綱公の時代に中国の
隠元禅師という方が江戸幕府の援助で萬福寺の開祖に。
江戸時代には末寺が1千を超える大きな宗派になったとか。
ここは当時、後水尾天皇の生母で中和門院さんの屋敷跡を
生家の近衛家から幕府が買い上げてお寺を造ったんだって。
後水尾天皇(当時は法王)さんも黄檗宗を篤く帰依したようでっせ。
(萬福寺 総門)
このお寺は17世紀頃の中国は明時代の臨済宗の様式を伝えています。
総門の屋根に見えるのはシャチホコだと考えて入山したんでっけど
本当は中国の想像上の動物で摩加羅(まから)と呼ぶ動物なんだって。
なんでも女神を守るワニから出ているとの説が有るんだって。
左右の屋根が低い日本のお寺には見られない牌楼(ぱいろう)と呼ぶ
中国独特の様式で造られた門だと書かれてまんな。
(萬福寺の 三門)
此処からが正式な萬福寺の境内になるんでしょうな。
それじゃ拝観料の500円を支払って奥へ向かいまひょ。
(萬福寺 ご朱印) (ご朱印は別に300円)
(黄檗宗 萬福寺の案内絵図)
日本のお寺なら山門を通り抜けたら多宝塔や本堂がおますわな。
此処では天王殿(てんのうでん)と呼ぶ玄関のようなお堂がおます。
中国のお寺ではこれが一般的だそうでっせ。
(萬福寺 天王殿=てんのうでん)
大きな布袋さんが入口に座ってはりまっせ。
その布袋さんは中国では弥勒菩薩の化身とされてますんや。
周囲を囲むように四天王像と布袋さんの裏側には韋駄天像が。
お祀りされているお堂のようですわ。
(萬福寺 韋駄天像)
禅宗のお寺には韋駄天さんが必ず置かれてますな。
中国では本尊を守護するのが韋駄天さまなんだって。
(四天王像)
最近は拝観料は徴収するくせに撮影禁止のお寺が多いでっしゃろ。
ここは、その点では雲水さん(修行僧)だけは撮影を禁止のお願いで
仏像やお堂の内部などは写させてもらえるのでラッキーでしたわ。
(萬福寺の回廊)
徳川幕府が許可し建立した禅寺なので葵の紋が入ってまっしゃろ。
西暦1661年~1671年まで掛かって完成したんだとか。
何故に4代将軍の徳川家綱公がこれほどの肩入れをしたんだろう?
徳川家には宗旨である浄土宗があり江戸では東叡山の天台宗も在る。
どうも~ 中国からやって来た隠元さんにも分からない事が多い。
60歳を超えているのに弟子を連れて日本へやってきたとか。
3年で中国へ帰るのを諦めて、最後は黄檗山 萬福寺にて死亡。
清国に追われた漢民族の明国残党から助けを徳川幕府に求めたとの説も。
単に明末清初の中国から逃れただけなのかもしれないけど。
当時は堕落していた禅宗を本来の禅宗に戻したかったとの
徳川幕府の願いが隠元禅師を利用して新しい宗派を作らせたとも。
(萬福寺の本堂 大雄宝殿=だいおうほうでん)
大雄宝殿と大きく書かれた額は隠元真空大師の直筆なんだって。
その下で一階軒下の額は二代目の木庵禅師の直筆とのこと。
それにしても隠元さんや二代目の木庵さんは達筆ですな。
隠元禅師から14代までは中国人の僧侶が萬福寺では住職に
江戸時代の後半になってから、やっと日本人の住職になったとか。
隠元さんは自分が中国の福建省で住職をしていたお寺と
全く同じ名前の黄檗山 萬福寺と名付けたようですね。
それで中国のお寺を「古黄檗」と呼び日本の方を「新黄檗」と
今日でもそう呼ばれていると案内書には書かれてまんな。
江戸時代には臨済宗 黄檗派と呼ばれていたそうで明治に成ってから
黄檗宗という禅宗の宗派として新たに認められたそうですわ。
(真空の 扁額)
「真空」とは隠元さんが真空大師の尊号を朝廷から得た処から。
本堂の中央には本尊の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)と脇侍仏二体
本尊さまを囲むように十八羅漢像が配置されてますんや。
日本では普通は十六羅漢像だけど中国では十八羅漢像なんだって。
こんな処でも中国の臨済宗の本来の姿を伝えているとも。
(萬福寺本堂の 十八羅漢像)
中国的な画像を1~2枚貼り付けて置きまひょ。
日本のお寺とは雰囲気が違いまっしゃろ。
良く見れば中国らしい建築技法が各所に見られますんや。
この木魚(もくぎょ)も隠元さんが中国から伝えた物だそうで
今日ではいろんな宗派で使われるようになったんだって。
(萬福寺 法堂)
ここで雲水さんが座禅を組み、師匠から禅問答の説法を受けるお堂。
現在も中国から伝わった唐韻の言葉でのみ、お経が読まれるんだって。
(巡照板=じゅんしょうばん)
禅寺へ行かれたらこんな板が掛かってるのをご存知かしら?
黄檗山 萬福寺でも毎朝4時が起床で夜9時が消燈との決まり。
それを知らすために経を唱えながら巡照板を叩いて雲水さんが
回廊を走り回ることを毎日続けるのも修行の一つなんだとか。
(雲版)
(開版 かいぱん)
これらも雲水さんが修行で叩く鳴り物のようでんな。
隠元さんと言えばインゲン豆が一番有名かもしれまへんな。
他にも西瓜(すいか)なども隠元禅師が日本に教えたとのこと。
中国から伝わったものを今でも萬福寺では育てているようですわ。
(原始ハス)
鉄ちゃん爺やは若いころに一度だけ訪れてるはずだが
こんな大きな寺院だったとは記憶も薄れてしまってました。
今はやりの中国や韓国からの観光客も立ち寄らないし
京都では隠れた名所とでも言えるかも知れまへん。
これで黄檗山 萬福寺のお話はお仕舞いにしまひょ。
ほんなら~ これで さいなら~♪
中国だとその反りの上に玄奘と孫悟空と八戒と沙悟浄の像が、
並んで立っているように見えます。
かなり広大な面積のようですね。
京都でも鎌倉でもそうですが、昔の寺院は広くて立派ですね。
正しく中国のお経。
それにしても大変大きなお寺さん
デジカメ散歩にはもってこいですね~。
毎日雨が降って私のデジカメ散歩が出来ていません
今日も1日中雨降りです。
なんでも在日の華僑の方が大勢で支援してお寺を維持しているとのHPでの書き込みがありますね。
明治時代に南側が陸軍の火薬庫に接収されたと何処かの書物に書かれてますので
現在では9万坪は無いでしょうね。
でも大きなお寺であることには間違いはありませんけど。
晋茶料理と呼ばれる精進料理を予約すれば食べられるんですが今回はパスしました。
2000円~7000円ぐらいのお値段でしたかな。
晋茶料理は「晋=あまねく 大衆と茶を供する」
こんな意味から出来た言葉だそうですよ。
ボタンを押すと唐音でお経や梵唄などが流れるそうです。
一度聞いたらお経のイメージが変わるとか書かれていましたよ。
残念ながら今回はデジカメに専念してしまい聞き漏らしましたけど。
どうしてかなあ。
インゲン豆!
そうでしたね。
夫が言っていたのを思い出しました。
寺(在大和郡山)の住職が何代目かの管長を務めたとかで・・・
子どもの頃は親と一緒に幾度か行っていますが、最近は全く行っていません。
ほとんど記憶から消えてしまいました。
年と共に是非行ってみたいと思っているのですがなかなか行けず、ゆっくり拝見して行った気分にさせて頂きました。
出来れば近々出かけてみたいですね。
臨済宗や曹洞宗の方が有名かもしれませんが
17世紀ごろの中国の正統な臨済宗を伝えているは
黄檗山の萬福寺だと書かれていました。
でも日本語で唱えるお経じゃないので我々凡人には違和感はあるようです。
在日の華僑の方には今でも篤い信仰があるそうですけど。
富山県高岡の禅宗のお寺へお参りしてから少しだけ
興味が湧きまして宇治の萬福寺へでかけました。
先週も大阪の堺市に在る南宗寺へ立ち寄りました
ここは臨済宗の大徳寺派のお寺でしたけど。