下鴨神社を出て次は何処へいこうかな?
やってきたバスに乗ってから考えましたんや。
北大路通を西へ走り、西大路通を南下するらしい。
それじゃ、北野天満宮へ行くことにしまひょ。
北野白梅町のバス停で下車となりますんや。
反対側には京福電鉄の駅舎が見えてまっせ。
(京福電鉄 北野白梅町駅)
最近は「嵐電」の愛称で呼ばれる方が多いかも?
現在は京福電鉄の北野線はここが終点だっせ。
鉄ちゃん爺やが高校生だった昭和33年頃までは
北野天満宮の前に、終点の北野駅がおましたんや。
だから現在は何で? ここが終点になってるの?
(京福電鉄 モボ2001形)(旧塗装の車両)
元は北野天満宮へお詣りする方の為の路線でした。
それが今出川通りの道路拡張と京都市電延長の為に
現在の西大路通りで終点となったんですわ。
その市電も廃止になり、今はバス利用が中心かな?
それじゃ~ 10分ほど歩くことにしまひょ。
今出川通りを東へ向かい、小さな川を渡ると左手に
大きな鳥居が見えてきましたで。
(北野天満宮 一の鳥居)
戦前までは「宮」を名乗れるのは、ご祭神が天皇か
皇祖にあたる神社しか許可されない時代がおました。
現在でも「神宮」と呼ばれる神社の大半がその主旨を
守ってますが、天神さまは戦後になってから「宮」に
復帰でんな、普通なら「大社」と名乗るべきかも。
民間人をお祀りする神社として、天満宮は例外で
その理由などは、後で書き込ませてもらいまひょ。
(北野天満宮の 参道)
(神の使い なで牛)
ご祭神の「菅原道真公」は「丑歳」のお生まれだった。
亡くなられたのも「丑年」の「丑の日」だったとか。
亡くなられた、ご遺体を牛に乗せて運ぼうとしたら
牛が座り込んで、動かなくなったとの伝説も。
そんな訳で各地の天神さまには牛が神の使いとして
境内に「なで牛」として置かれてまっしゃろ。
鉄ちゃん爺やも腰痛だから「なで牛」の腰の辺りを
なでてお願いして行きまひょ。
(北野天満宮の 楼門)
(菅原道真公の 御歌)
これは、小倉百人一首に登場する和歌でんな。
手向山とは、奈良公園の手向山八幡宮にお詣りした
その際のことを詠んだものだとされてますかな。
(北野天満宮の 神紋が描かれた提灯)
「星梅鉢の神紋」は良く知られているようで、各地の
天神さまでも、共通の神紋として見かけまっしゃろ。
でも~ 「三階松の神紋」は此処だけの物かしら?
(北野天満宮 世継ぎの梅)
この梅の木は明治天皇の皇后であった正憲皇太后が
ご成婚される際に、京都御所から持ち出されて
お手植えされたけど、近年になり枯れてしまったとか。
それで京都御所から譲り受けた、二代目の梅の木だとの事。
(北野天満宮 本殿への回廊)
北野天満宮は一の鳥居から楼門を潜り抜けて、拝殿へ
真っ直ぐに向かえば本殿があるのが普通でっしゃろ。
北野天満宮は画像で見て頂けば分かると思いまっけど
一旦は左へ曲がって、中門を潜る様式になってますんや。
これは奥に地主神社が昔からあって、それを避ける為に
本殿は中心線から左側に、配置されているんだとか。
(北野天満宮 中門=三光門)
この立派な三光門を潜ると前方に本殿が見えてきまっせ。
この中門と東門は国の重要文化財に指定されてるんだって。
見上げると立派な彫刻が施されてまっせ。
(三光門の 彫刻)
それでは、本殿へお詣りさせてもらいまひょ。
若い頃に来たきりで、50数年ぶりかもしれまへん。
(北野天満宮 本殿)(国宝)
本殿は昭和34年に国宝に指定されたそうですわ。
豊臣秀頼が造営した約400年前の建物なんだって。
天満宮は日本全国に在って、学問の神様として受験生や
親御さんには、篤い信仰が今でも続いてまっしゃろ。
だけど元々は恐ろしい怨念を持つ神として朝廷から
「怨霊=おんりょう」鎮めるためにお祀りされたのが
始まりで、非業な死を遂げた方をお祀りする神社でした。
「御霊信仰=ごりようしんこう」と言いまして平安時代
怨みを持って死んだり非業な死を遂げた人間は
人々を脅かすような天災や疫病を招くと信じられてました。
「菅原道真」は平安時代には最も恐れられた怨霊でしたんや。
(北野天満宮 ご朱印)
醍醐天皇と藤原時平の策謀により大宰府に左遷されて
ご当地で亡くなられたのが903年(延喜3年)2月25日
だから天神さまの縁日は毎月25日となってまっしゃろ。
醍醐天皇の皇太子や藤原時平の自身も急死してしまい
左遷の謀議に参加した右大臣源光も狩りの最中に溺死。
おまけに次の皇太子も幼くして亡くなりますんや。
世の人は菅原道真公の祟りが原因だと考えたんだって。
醍醐天皇は左遷の詔を覆し右大臣と正二位を贈位するも
疫病や水害がその後も続いたようでっせ。
今度は醍醐天皇の住まわれていた御所の清涼殿に落雷。
菅原道真公の左遷に関係した大納言・藤原清貫が即死し
近くにいた宮廷官僚の3人もほどなく死亡。
醍醐天皇も落雷からまもなく病気になり3か月後に崩御。
(国宝 北野天満宮 本殿)
醍醐天皇の皇子である村上天皇が947年(天暦元年)
北野の地に、「菅原道真公」をお祀りしたのが最初で
藤原時平の弟である藤原忠平が協力したとのことですわ。
その後、忠平の長男・藤原師輔が土地を提供して大きく
なったのが現在の北野天満宮の敷地なんだって。
時平の一族が断絶し、忠平の一族はその後に繁栄し
藤原道長で全盛期を迎える事はご存じだと思いまっけど。
(北野天満宮の中門を 本殿の境内から撮影)
「北野天満宮天神」の神号は987年(永延元年)に
一条天皇から与えられたそうですわ。
天皇陛下から命名されたので、現在でも天満宮の
名称を名乗ることが許されているんでしょうな。
日本三大天神と呼ぶことがおますんや。
ここ北野天満宮と亡くなられた大宰府天満宮は当然で
他に大阪天満宮か防府天満宮のどちらかを加えるとか。
四大天神にすれば良いのに、日本人は三大に拘って
人を迷わすような呼び方をするもんですな。
天満宮が学問の神様に変わったのは江戸時代の頃で
寺子屋の教材や、歌舞伎などが影響したんでしょうな。
(北野天満宮 参拝の栞)
(北野天満宮 境内の梅)
「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花
あるじなしとて 春なわすれそ 菅原道真公」
ここも梅の名所ですが、この時期は冬枯れでこんな感じ。
紅葉の時期は「もみじ苑」が在るんでっけど大人700円
しかも入場待ちの長い行列なので、諦めましたんや。
又の機会に、訪れることにして退散しまっさ。
(渡辺綱 寄進の石燈籠)
平安時代の源頼光の四天王の一人だった渡辺綱が京都の
一条戻り橋で、夜中に若い女性が家に連れて帰って欲しいと
頼んだので馬に乗せた処、これが女性に化けた鬼だった。
渡辺綱が刀で腕を切り落として、難を逃れた伝説がおます。
北野天満宮のご利益で、命が助かったとのことで渡辺綱が
石燈籠を寄進したと書かれてますな。
(境内に 織部燈籠 )
何でこんな場所に、キリシタン灯篭とも呼ばれ
古田織部が好んだと言われる「織部燈籠」が
置かれているのかは、分かりまへんでしたけど。
マリア様の姿が彫られているんでしたよね。
長くなりますので、本日はこれにてお仕舞い。
ほんなら~ これで さいなら~🎵
やってきたバスに乗ってから考えましたんや。
北大路通を西へ走り、西大路通を南下するらしい。
それじゃ、北野天満宮へ行くことにしまひょ。
北野白梅町のバス停で下車となりますんや。
反対側には京福電鉄の駅舎が見えてまっせ。
(京福電鉄 北野白梅町駅)
最近は「嵐電」の愛称で呼ばれる方が多いかも?
現在は京福電鉄の北野線はここが終点だっせ。
鉄ちゃん爺やが高校生だった昭和33年頃までは
北野天満宮の前に、終点の北野駅がおましたんや。
だから現在は何で? ここが終点になってるの?
(京福電鉄 モボ2001形)(旧塗装の車両)
元は北野天満宮へお詣りする方の為の路線でした。
それが今出川通りの道路拡張と京都市電延長の為に
現在の西大路通りで終点となったんですわ。
その市電も廃止になり、今はバス利用が中心かな?
それじゃ~ 10分ほど歩くことにしまひょ。
今出川通りを東へ向かい、小さな川を渡ると左手に
大きな鳥居が見えてきましたで。
(北野天満宮 一の鳥居)
戦前までは「宮」を名乗れるのは、ご祭神が天皇か
皇祖にあたる神社しか許可されない時代がおました。
現在でも「神宮」と呼ばれる神社の大半がその主旨を
守ってますが、天神さまは戦後になってから「宮」に
復帰でんな、普通なら「大社」と名乗るべきかも。
民間人をお祀りする神社として、天満宮は例外で
その理由などは、後で書き込ませてもらいまひょ。
(北野天満宮の 参道)
(神の使い なで牛)
ご祭神の「菅原道真公」は「丑歳」のお生まれだった。
亡くなられたのも「丑年」の「丑の日」だったとか。
亡くなられた、ご遺体を牛に乗せて運ぼうとしたら
牛が座り込んで、動かなくなったとの伝説も。
そんな訳で各地の天神さまには牛が神の使いとして
境内に「なで牛」として置かれてまっしゃろ。
鉄ちゃん爺やも腰痛だから「なで牛」の腰の辺りを
なでてお願いして行きまひょ。
(北野天満宮の 楼門)
(菅原道真公の 御歌)
これは、小倉百人一首に登場する和歌でんな。
手向山とは、奈良公園の手向山八幡宮にお詣りした
その際のことを詠んだものだとされてますかな。
(北野天満宮の 神紋が描かれた提灯)
「星梅鉢の神紋」は良く知られているようで、各地の
天神さまでも、共通の神紋として見かけまっしゃろ。
でも~ 「三階松の神紋」は此処だけの物かしら?
(北野天満宮 世継ぎの梅)
この梅の木は明治天皇の皇后であった正憲皇太后が
ご成婚される際に、京都御所から持ち出されて
お手植えされたけど、近年になり枯れてしまったとか。
それで京都御所から譲り受けた、二代目の梅の木だとの事。
(北野天満宮 本殿への回廊)
北野天満宮は一の鳥居から楼門を潜り抜けて、拝殿へ
真っ直ぐに向かえば本殿があるのが普通でっしゃろ。
北野天満宮は画像で見て頂けば分かると思いまっけど
一旦は左へ曲がって、中門を潜る様式になってますんや。
これは奥に地主神社が昔からあって、それを避ける為に
本殿は中心線から左側に、配置されているんだとか。
(北野天満宮 中門=三光門)
この立派な三光門を潜ると前方に本殿が見えてきまっせ。
この中門と東門は国の重要文化財に指定されてるんだって。
見上げると立派な彫刻が施されてまっせ。
(三光門の 彫刻)
それでは、本殿へお詣りさせてもらいまひょ。
若い頃に来たきりで、50数年ぶりかもしれまへん。
(北野天満宮 本殿)(国宝)
本殿は昭和34年に国宝に指定されたそうですわ。
豊臣秀頼が造営した約400年前の建物なんだって。
天満宮は日本全国に在って、学問の神様として受験生や
親御さんには、篤い信仰が今でも続いてまっしゃろ。
だけど元々は恐ろしい怨念を持つ神として朝廷から
「怨霊=おんりょう」鎮めるためにお祀りされたのが
始まりで、非業な死を遂げた方をお祀りする神社でした。
「御霊信仰=ごりようしんこう」と言いまして平安時代
怨みを持って死んだり非業な死を遂げた人間は
人々を脅かすような天災や疫病を招くと信じられてました。
「菅原道真」は平安時代には最も恐れられた怨霊でしたんや。
(北野天満宮 ご朱印)
醍醐天皇と藤原時平の策謀により大宰府に左遷されて
ご当地で亡くなられたのが903年(延喜3年)2月25日
だから天神さまの縁日は毎月25日となってまっしゃろ。
醍醐天皇の皇太子や藤原時平の自身も急死してしまい
左遷の謀議に参加した右大臣源光も狩りの最中に溺死。
おまけに次の皇太子も幼くして亡くなりますんや。
世の人は菅原道真公の祟りが原因だと考えたんだって。
醍醐天皇は左遷の詔を覆し右大臣と正二位を贈位するも
疫病や水害がその後も続いたようでっせ。
今度は醍醐天皇の住まわれていた御所の清涼殿に落雷。
菅原道真公の左遷に関係した大納言・藤原清貫が即死し
近くにいた宮廷官僚の3人もほどなく死亡。
醍醐天皇も落雷からまもなく病気になり3か月後に崩御。
(国宝 北野天満宮 本殿)
醍醐天皇の皇子である村上天皇が947年(天暦元年)
北野の地に、「菅原道真公」をお祀りしたのが最初で
藤原時平の弟である藤原忠平が協力したとのことですわ。
その後、忠平の長男・藤原師輔が土地を提供して大きく
なったのが現在の北野天満宮の敷地なんだって。
時平の一族が断絶し、忠平の一族はその後に繁栄し
藤原道長で全盛期を迎える事はご存じだと思いまっけど。
(北野天満宮の中門を 本殿の境内から撮影)
「北野天満宮天神」の神号は987年(永延元年)に
一条天皇から与えられたそうですわ。
天皇陛下から命名されたので、現在でも天満宮の
名称を名乗ることが許されているんでしょうな。
日本三大天神と呼ぶことがおますんや。
ここ北野天満宮と亡くなられた大宰府天満宮は当然で
他に大阪天満宮か防府天満宮のどちらかを加えるとか。
四大天神にすれば良いのに、日本人は三大に拘って
人を迷わすような呼び方をするもんですな。
天満宮が学問の神様に変わったのは江戸時代の頃で
寺子屋の教材や、歌舞伎などが影響したんでしょうな。
(北野天満宮 参拝の栞)
(北野天満宮 境内の梅)
「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花
あるじなしとて 春なわすれそ 菅原道真公」
ここも梅の名所ですが、この時期は冬枯れでこんな感じ。
紅葉の時期は「もみじ苑」が在るんでっけど大人700円
しかも入場待ちの長い行列なので、諦めましたんや。
又の機会に、訪れることにして退散しまっさ。
(渡辺綱 寄進の石燈籠)
平安時代の源頼光の四天王の一人だった渡辺綱が京都の
一条戻り橋で、夜中に若い女性が家に連れて帰って欲しいと
頼んだので馬に乗せた処、これが女性に化けた鬼だった。
渡辺綱が刀で腕を切り落として、難を逃れた伝説がおます。
北野天満宮のご利益で、命が助かったとのことで渡辺綱が
石燈籠を寄進したと書かれてますな。
(境内に 織部燈籠 )
何でこんな場所に、キリシタン灯篭とも呼ばれ
古田織部が好んだと言われる「織部燈籠」が
置かれているのかは、分かりまへんでしたけど。
マリア様の姿が彫られているんでしたよね。
長くなりますので、本日はこれにてお仕舞い。
ほんなら~ これで さいなら~🎵