梅田新歩道橋を書き込む予定でしたんやけど、6月10日に
「ROHTOよろこビックリ梅田新歩道橋」としてスタートしまんねんて。
何んだか大阪らしい面白い名前をつけまっしゃろ。
そんな訳で14日に梅田へ出かけまっさかいに写し直してきまっさ。
大阪のロート製薬さんが年間610万円(ロートのゴロ合わせ?)で
大阪市から3年間の命名権を取得して使用することに決まりましたんや。
詳しいことは来週に書き込ませてもらいまひょ。
梅雨入りしたんやけど今週は雨が降りまへがな。
まあ~ 5月やというのに早いこと梅雨入り宣言を出したのが間違いでしたかな。
(我が家に迷い込んだ雨蛙ちゃんです)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(我が家に咲いた紫陽花)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(我が家の花菖蒲)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
雨は降りまへんけど花は梅雨らしいのが咲いてまっしゃろ。
ほな~ 町内を散歩しまっせ。
(我が町内のメイン通り)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
我が家も含めてこの辺りは近鉄さんが昭和の30年代前半に宅地開発を
しはりましたんや。
室町時代のお城の跡ちゅう訳で「城山住宅」と呼ぶようになったそうですわ。
(公共施設循環バス停)
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この辺りは不動産が安い時代だったんで各々の敷地が約100坪ぐらいおますんや
そんな訳でほとんどが一戸建ての住宅になってまんな。
鉄ちゃん爺やより少し年配の方が多く住んでいるので子供さんの姿が見られまへん。
ただ、年配の方が亡くなって不動産が売りに出されると一区画が三つぐらいに
分割されて小さい家が増えてきた感じもしますんやけど。
(安閑天皇皇后 春日山田皇女御陵)(かすがやまだひめみこ)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
安閑天皇の御陵も在りまっけど、その皇后さんの御陵も200mぐらい離れた処に
どちらも我が「城山会」という町内会のエリア内になりますんや。
画像の参道は宮内庁の所有地で150mぐらい先に御陵が在るんですわ。
(安閑天皇皇后 春日山田皇女 高屋陵)(かすがやまだひめみこ)
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この春日山田皇女というお方は第24代仁賢天皇の娘さんで弟の第25代武烈天皇が
崩御されてお世継ぎが無くヤマト王朝が一旦断絶したと言われてますんや。
日本書紀によると応神天皇四世の孫を北陸・越の国(現在の福井県)から招き
春日山田皇女の姉さまである手白香皇女の入婿として皇位を嗣いだとされてます。
同時に継体天皇の長男も妹の春日山田皇女と結婚することになったようですわ。
この第26代継体天皇が歴史的には存在が確実と考えられている現在の
天皇家のルーツだと鉄ちゃん爺やは考えてますんや。
第27代安閑天皇は継体天皇がまだ越の国に居られた時に尾張の連・草香の娘との
間にお生まれになった長男で「勾大兄皇子」(まがりのおおえのみこ)と呼び
歴史上にこの後、よく出てくる大兄皇子(おおえのみこ)の初代のお方でっせ。
(安閑天皇皇后 春日山田皇女 高屋陵)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
古市古墳群には古代の天皇と伝えられている御陵が七つばかりおますんやけど
全てがお堀に囲まれていて近づくことは出来まへんのや。
この安閑天皇皇后 春日山田御陵だけはお堀がなくて入ろうと思えば墳丘に
登ることが可能でっせ(立ち入りは禁止になってます)。
10年ぐらい前に墳丘が崩れて復旧工事がされる前に鉄ちゃん爺やも
一度だけ内緒で墳丘に登ったことがおますんや。
目測で測ったら80m四方の敷地を持つ方墳だと思いますけど。
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
こんな感じで安閑天皇皇后 春日山田御陵の周囲は民家で囲まれてますんや。
この時代にはまだ皇后という名称は決まってませんでしたので
正式には「大后」(おほきさき)と呼ぶのが正しいんでっせ。
このお方が歴史上に一度だけ登場したことがおますんや。
興味のない方はスルーしておくれやす。
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第27代安閑天皇そして同腹の弟である第28代宣化天皇が相次いで崩御されました。
春日山田皇后のお姉さまの子供である第29代欽明天皇が即位される前に
こんな話が日本書紀の欽明天皇即位前紀に書かれてまっせ。
「余 若年く識浅くして未だ政事に閑ず 山田大后は明らかに百揆に閑ひたまえり」
「請ふ 就てで決めよ」
(欽明天皇)余は年も若く未熟で知識も浅く政治に通じていない
山田大后はそれができる、よって天皇の位に就いて政治を行って欲しい。
「山田大后いわく、萬機の難きに婦女に安ぞ預かむ」と固守されたとか。
(山田大后)萬機に難しい政治なのに婦女子では務まらないですよ。
そんな訳で第29代欽明天皇は若いながら即位され約30年ちかくの間
天皇の位に就かれたと書かれていますね。
普通ならこんな身内のお話を日本書紀に書き込む必要はおまへんのやけど
書き込んであるということは大事な言い伝えだったんでしょか。
日本で初の女性天皇はこの欽明天皇の皇女である推古天皇なのはご存知でしょうが
春日山田皇女がひょっとしたら女性天皇初代になった可能性があったようですな。
当時の皇室財産は大后が管理すると同時に後継の天皇を決めるのにも
大きな発言力を持っていたようでんな。
この大后である春日山田皇女が皇室財産を握っていて、しかも前王朝の血統を
受け継ぐと同時に欽明天皇には叔母にあたる朝廷の実力者であったんでしょうね。
欽明天皇の母親にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)はこの時には
既に死亡していたんでしょうか日本書紀には何も書かれていませんな。
ほな~ 今日はこれでお仕舞いにしまひょ。 さいなら~
「ROHTOよろこビックリ梅田新歩道橋」としてスタートしまんねんて。
何んだか大阪らしい面白い名前をつけまっしゃろ。
そんな訳で14日に梅田へ出かけまっさかいに写し直してきまっさ。
大阪のロート製薬さんが年間610万円(ロートのゴロ合わせ?)で
大阪市から3年間の命名権を取得して使用することに決まりましたんや。
詳しいことは来週に書き込ませてもらいまひょ。
梅雨入りしたんやけど今週は雨が降りまへがな。
まあ~ 5月やというのに早いこと梅雨入り宣言を出したのが間違いでしたかな。
(我が家に迷い込んだ雨蛙ちゃんです)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(我が家に咲いた紫陽花)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(我が家の花菖蒲)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
雨は降りまへんけど花は梅雨らしいのが咲いてまっしゃろ。
ほな~ 町内を散歩しまっせ。
(我が町内のメイン通り)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
我が家も含めてこの辺りは近鉄さんが昭和の30年代前半に宅地開発を
しはりましたんや。
室町時代のお城の跡ちゅう訳で「城山住宅」と呼ぶようになったそうですわ。
(公共施設循環バス停)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この辺りは不動産が安い時代だったんで各々の敷地が約100坪ぐらいおますんや
そんな訳でほとんどが一戸建ての住宅になってまんな。
鉄ちゃん爺やより少し年配の方が多く住んでいるので子供さんの姿が見られまへん。
ただ、年配の方が亡くなって不動産が売りに出されると一区画が三つぐらいに
分割されて小さい家が増えてきた感じもしますんやけど。
(安閑天皇皇后 春日山田皇女御陵)(かすがやまだひめみこ)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
安閑天皇の御陵も在りまっけど、その皇后さんの御陵も200mぐらい離れた処に
どちらも我が「城山会」という町内会のエリア内になりますんや。
画像の参道は宮内庁の所有地で150mぐらい先に御陵が在るんですわ。
(安閑天皇皇后 春日山田皇女 高屋陵)(かすがやまだひめみこ)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この春日山田皇女というお方は第24代仁賢天皇の娘さんで弟の第25代武烈天皇が
崩御されてお世継ぎが無くヤマト王朝が一旦断絶したと言われてますんや。
日本書紀によると応神天皇四世の孫を北陸・越の国(現在の福井県)から招き
春日山田皇女の姉さまである手白香皇女の入婿として皇位を嗣いだとされてます。
同時に継体天皇の長男も妹の春日山田皇女と結婚することになったようですわ。
この第26代継体天皇が歴史的には存在が確実と考えられている現在の
天皇家のルーツだと鉄ちゃん爺やは考えてますんや。
第27代安閑天皇は継体天皇がまだ越の国に居られた時に尾張の連・草香の娘との
間にお生まれになった長男で「勾大兄皇子」(まがりのおおえのみこ)と呼び
歴史上にこの後、よく出てくる大兄皇子(おおえのみこ)の初代のお方でっせ。
(安閑天皇皇后 春日山田皇女 高屋陵)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
古市古墳群には古代の天皇と伝えられている御陵が七つばかりおますんやけど
全てがお堀に囲まれていて近づくことは出来まへんのや。
この安閑天皇皇后 春日山田御陵だけはお堀がなくて入ろうと思えば墳丘に
登ることが可能でっせ(立ち入りは禁止になってます)。
10年ぐらい前に墳丘が崩れて復旧工事がされる前に鉄ちゃん爺やも
一度だけ内緒で墳丘に登ったことがおますんや。
目測で測ったら80m四方の敷地を持つ方墳だと思いますけど。
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
こんな感じで安閑天皇皇后 春日山田御陵の周囲は民家で囲まれてますんや。
この時代にはまだ皇后という名称は決まってませんでしたので
正式には「大后」(おほきさき)と呼ぶのが正しいんでっせ。
このお方が歴史上に一度だけ登場したことがおますんや。
興味のない方はスルーしておくれやす。
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
第27代安閑天皇そして同腹の弟である第28代宣化天皇が相次いで崩御されました。
春日山田皇后のお姉さまの子供である第29代欽明天皇が即位される前に
こんな話が日本書紀の欽明天皇即位前紀に書かれてまっせ。
「余 若年く識浅くして未だ政事に閑ず 山田大后は明らかに百揆に閑ひたまえり」
「請ふ 就てで決めよ」
(欽明天皇)余は年も若く未熟で知識も浅く政治に通じていない
山田大后はそれができる、よって天皇の位に就いて政治を行って欲しい。
「山田大后いわく、萬機の難きに婦女に安ぞ預かむ」と固守されたとか。
(山田大后)萬機に難しい政治なのに婦女子では務まらないですよ。
そんな訳で第29代欽明天皇は若いながら即位され約30年ちかくの間
天皇の位に就かれたと書かれていますね。
普通ならこんな身内のお話を日本書紀に書き込む必要はおまへんのやけど
書き込んであるということは大事な言い伝えだったんでしょか。
日本で初の女性天皇はこの欽明天皇の皇女である推古天皇なのはご存知でしょうが
春日山田皇女がひょっとしたら女性天皇初代になった可能性があったようですな。
当時の皇室財産は大后が管理すると同時に後継の天皇を決めるのにも
大きな発言力を持っていたようでんな。
この大后である春日山田皇女が皇室財産を握っていて、しかも前王朝の血統を
受け継ぐと同時に欽明天皇には叔母にあたる朝廷の実力者であったんでしょうね。
欽明天皇の母親にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)はこの時には
既に死亡していたんでしょうか日本書紀には何も書かれていませんな。
ほな~ 今日はこれでお仕舞いにしまひょ。 さいなら~