Kuni Takahashi Photo Blog

フォトグラファー高橋邦典
English: http://www.kunitakahashi.com/blog

「断片」に過ぎない写真

2008-02-04 07:45:38 | 報道写真考・たわ言
前回のブログで、写真の捏造についてや、天気を撮る仕事で同じ苦労をされている同業の方からのコメントがあったので、写真という媒体について、僕らの日常の仕事に絡めてちょっと書いてみようと思う。

まず、写真というのはそもそもそこに存在するすべてのものを表せるものではなく、眼の前の光景の一部をフレームに入る範囲で切り取って写しているに過ぎない。だから、そこには何を見せて何を見せないかというカメラマンの意図が入り込むことになるし、テーマの決まっている撮影の仕事なら、それに一番見合った題材を探してそこに意図的に焦点をあてることになる。

天気状況を写す場合など、同じシカゴという街の中でも、場所によって雪の積もり方も違えば風の吹き方も違う。雪のニュースにあわせる写真なら、すぐに除雪車で雪が掃かれてしまう大通りよりも、積もった雪がそのままになっている路地のほうが味のあるものが撮れるかも知れないし、また風のニュースなら建物の関係で突風が起こりやすいスポットにいけば、強風を表現する写真が撮りやすくなる。

だから、その一枚の写真がその瞬間のシカゴという街すべての天気を表現しているわけではないし、それはあくまでも断片的な事象にすぎない。しかし、それもれっきとした現実の気象状況の一部を記録したものである限り、新聞写真としては十分に事足りるわけだ。

ちなみにそれはあくまで提示された「現実」からカメラマンが何を選ぶかという「選択」の問題であって、何もないところから自分の求める光景を偽造する「捏造」とは全く次元の違うものだということははっきり言っておきたい。

注意が必要なのは、この「断片的なこと」を読者が「すべて」だと勘違いしてしまうことだ。だから、僕らは「どこで、だれが、いつ、どこで、どうした」という基本的な写真の説明(キャプション)を可能な限りきちんとつけるし、それによってその写真の「断片性」をはっきりさせることができる。そのあとはもう読者の判断に任せるしかない。

戦場取材を例にとってみても同様なことがいえるだろう。例えばイラクやソマリアなどで報道されているものだけをみていると、まるで国じゅうで戦闘がおこっているかのような錯覚に陥るが、実際に現場に行ってみると意外と人々は普通に日常生活をおくっていたりする。これも僕自身を含めてカメラマンたちが戦争を報道しようという意図をもっているから、撮るものが戦闘や難民など悲惨なものばかりになるわけで、逆に意図と視点を変えれば戦場の中でも平和な光景ばかりを撮ってくることも可能なのだ。

写真というものは所詮、現実の「断片」を切り取るものでしかなく、撮影者が何を訴えたいか、という意図によってその断片も変わってくるということはすでに書いたが、僕ら報道カメラマンたちは切り取るためのその「断片」を探すのに日常の仕事の中で四苦八苦するわけだ。それを求めて2時間3時間と街を歩き回ることもあるし、締め切り時間のある新聞の仕事ではそれが見つからずに、妥協したものしか撮れずふがいない思いをすることも少なくはないのだ。