8月3日(火)10時から8月度 信長公記を読む会がありました。コロナ感染症がまた拡大、兵庫県にまん延防止等重点措置画彩発令されたこともあってか出席者は少なく7名でした。
テキストは巻十一(8)播磨神吉城攻めの事 からです。本文の概要は下の通りです。
・6月26日、滝川・明智・丹羽の各勢は敵方への備えとして三日月山へ上り、
・同時に羽柴秀吉・荒木村重は高倉山の手勢を払って書写山まで引き揚げた。
・そして翌27日には中将信忠の軍勢が神吉城を取り囲み、城の北から東の山へかけて信忠・織田信孝・林秀貞・細川藤孝・佐久間信盛らが前後左右に段を連ねて布陣した
・志方城に対しては織田信雄が陣を据え、同時に丹羽長秀・若狭衆が城の西の山に陣を布いて敵に備えた。
・これらの備え手を除く滝川・稲葉・蜂屋・筒井・武藤・明智・安藤・氏家・荒木の諸勢は、神吉城めがけ押し寄せた。寄せ手はまたたく間に外構えを攻め破って城を裸城にし、そのまま本城の堀を越えて城壁を突き崩し、数刻にわたって猛攻を加えた。このとき織田信孝は足軽と先を争って奮闘した。
・織田勢は一気に城を抜くことは難しいと考え、その日は一旦攻撃の手を緩めた。そして翌日になって竹束をつらねて本城塀際まで詰め寄り、堀を草で埋め、築山を盛って城攻めを続けたのだった。
・この時羽柴秀吉は但馬国へ出兵していた。そして以前のごとくに国衆を服属させ、竹田城に羽柴秀長を入れ置いたのち、自身は書写山へ軍勢を返した。
*この戦には北陸の柴田勝家以外のほぼ全軍が動員されている。信長がこの戦を重視していたことがわかる。
*織田信孝は足軽と先を争って奮闘とあるが、砂川先生は信孝の性格が信長に似ていると読むことも出来るが、織田家の中での信孝の立場も有るだろう、長男信忠、次男信雄に負けまい、信長に認めてもらおうという気持ちからこのような行動に出たのだろう、太田牛一も信孝の立場を理解しているからこの話を挿んだのだろうと仰る。
*秀吉が神吉城攻めに参加せず但馬に出兵した理由については公記には書いていない。別所が反旗を翻したのは秀吉のせいではないが、責任を感じて名誉挽回を狙ったことも考えられるし但馬から引き揚げる行きがけの駄賃の行動とも考えられる。
*レジュメの 7月16日付け新免弾正左衞門尉あて羽柴秀吉書状からみると、7月14日に竹田城に入城と書いてあるが、いつ但馬に入り、何時東播磨の神吉に赴いたかは書いていない。但馬入りは高倉山を陣払いした6月26日に2,3日後であろうか。また神吉城落城が7月20日とすると、それまでには神吉に着いていたのだから2,3日の行程で竹田から神吉まで戻ったことになる。
*この頃の戦はそれまでとは異なり工兵、輜重など事前準備が重要で、そのことは資料などからわかるのだ。
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