K.テツのひとりごと

行動記録、趣味の話などを書いてゆきます

9月度「信長公記」を読む会

2024年09月07日 | 講座・会合

9月3日(火)、9月度「信長公記」を読む会がありました。出席者は最近では最も少ない11人でした。私は写真展の搬入作業があるため、途中で退席させて頂きました。

テキストは 巻十二(14)氏政甲州表へ働の事 の10月晦日の段(宇喜多直家の赦免)から。テキストに入る前に砂川先生のお話は毛利との「境目」の宇喜多、南条から佐々木、塩冶・・・まで話は果てしなく広がりました。

10月30日には備前の宇喜多直家が赦免され、その名代として宇喜多与太郎が摂州古屋野まで上り来て信忠中将へ御礼を申し上げた。取次いだのは羽柴秀吉である。

*前年にも宇喜多直家は秀吉を介し赦免を願い出たが、信長は許諾しなかった。なぜ今回は許諾したのか・・・はわからないが、「境目」の宇喜多の帰属は信長にとっても幸甚だったに違いない。有岡の目途が立ったからかもしれない。

*「WHY」が大事なのに、日本の教育は知識を詰め込むばかりだ。(砂川先生の言葉)

*信長がすぐに上洛することがわかっているのに、信長ではなく信忠にお礼を申し上げたのか。直家は織田家に奉公することを約したと考えられる。

11月3日、信長公は上洛し、その日は瀬田橋の御茶屋に宿泊した。そして番衆や伺候してきた客たちへ白の御鷹を披露し、翌日に京へ入った。
入京した信長公は11月5日、二条御新造が終了したので禁裏へ献上したい旨を奏聞した。これを受けた禁裏では早速 陰陽博士に日取りを調べさせたうえ、吉日の11月22日に 誠仁親王様が新御所へ行啓されることに定まり、その準備が進められていった。

*瀬田橋は信長が天正三年七月に信長が建造した。また白鷹は4ヵ月前の7月25日に奥州の遠野孫次郎が献上した珍しい鷹。

*二条御新造の位置につては前回配布された地図で確認した。

 

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