末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

トレド大聖堂 その3

2011-12-30 18:30:16 | 海外旅行
いよいよ今年も後一日を残すだけになりましたね。
今日で大聖堂の紹介を終わらせたいと思いますので
少し長くなりますがお付き合い頂ければ幸いです。

聖具室

聖具室全景(お見苦しい写真で失礼)

ここはミサに使用される聖杯や聖衣などを保管するための部屋ですが
多くの絵画が展示されていて、スペインの有数の美術館にもなっています。

部屋の奥中央には、エル・グレコの名作「聖衣剥奪」が飾られており
その周囲には、上の二人に加えて、ティツアーノ、ラファエロ、カラバッジョ、
ダイク、ゴヤ、その他多くの画家の絵が飾られています。


天井はタリアの画家ルッカ・ジョルダーノ(17世紀)のフレスコ画が覆っています。


天井画


エル・グレコ作「聖衣剥奪」


キリストが十字架かけられる直前の衣服を剥がれる姿を主題にしたもの


聖歌隊席

多くの大聖堂の聖歌隊席は
美しい彫刻などで装飾された木製の座席が見られますが
ここはスペインでも特に立派なものの一つです。

正面は16世紀に作られた大きな鉄格子で護られています。

聖歌隊席正面の鉄格子

椅子

聖歌隊台には、立派な木彫りの椅子と
周囲の大理石の彫刻や円柱が見られます。

聖歌隊台

椅子は上下段に二組あります。
下段には15世紀に作られたくるみ材製の50個のゴチック様式の椅子があり
背あてには城攻めのシーンが彫られています。

上段には16世紀に作られた70個のルネッサンス様式の椅子があります。

下段の椅子

城攻めシーンの彫り

パイプオルガン

部屋の左右には様式の異なるパイプオルガンがあります。

パイプオルガン

パイプオルガン


エル・トランスバレンテ(EL Transparente)

大礼拝堂の後方にある天井につくられた大きな明かり取りの窓で
彫刻に縁取られ、内側にはフレスコ画が描かれています。
この窓の正面にある祭壇に光をとり入れる目的で18世紀に造られました。

エル・トランスバレンテ

エル・トランスバレンテのアップ


エル・トランスバレンテの祭壇

18世紀に作られたこの祭壇には
漆喰像、絵、ブロンズ鋳物、また色々の色の大理石の彫刻から出来た
多くの天使や聖母子が見えます。
この祭壇はエル・トランスバレンテの作者と同じです。

エル・トランスパレンテの祭壇

高い天井に作られたエル・トランスバレンテを通って
日々祭壇を数分間照らす一条の光は
あたかも祭壇が天へ上昇しているという印象を与えています。



聖体顕示台(The Monstrance) 

重要な宝石や価値ある美術品が収められている宝物室があり
その中で最も需要なものが16世紀に作られた聖体顕示台です。

聖体顕示台

高さ2.5米、重さ200キロで、金、銀、宝石でつくられており
製作者のドイツ人は、制作に7年半の歳月を費やしたとの事です。

年に一度聖体節にトレドの街を練り歩くので有名です。


トレドの工芸品


トレドの工芸品と言えば象嵌細工、刀剣、槍等が有名です。

象嵌細工は、非常に古くからのもので
鉄板の表面に金糸や銀糸を嵌め込んで色々の模様を作ったものです。

トレドの街を歩くと象嵌細工屋さんが仕事をしているのが見られました。
記念に買ってきましたが、時間とともに輝きが薄れてきており残念です。

記念の象嵌細工

まだご覧にいれたいものもありますが、余り長くなりますので
これで終わりとします。

最後に
 

  
本年は思いもよらず「いい色」が終了になり
お仲間はあちこちのブログに散りましたが
その後も引き続いて暖かいコメントを賜っており
本当に有り難く感謝しております。 

来年も引き続きご厚誼を賜りますようよろしくお願い申し上げます。

小生今年は今日を持って投稿は最後とし
来年は5日頃より再開する予定です。

では皆様におかれましては、どうぞ 佳い新年 をお迎え下さい

トレド大聖堂 その2 ステンドグラスと大礼拝堂

2011-12-28 21:46:32 | 海外旅行

大聖堂内部

今日から大聖堂の内部の様子をご紹介する事にします。

身廊の状況(高い柱やステンドグラ)

先にこの大聖堂は5身廊とも言われていると書いたように
各廊では、大きなアーチ状の柱、高い天井、
それに美しい沢山のステンドグラスが見られます。


大きな柱と天井とステンドグラス

ステンドグラスの数は750を越えており
14世紀から17世紀に亘って作られました。
然し特にスペイン内戦中に、ステンドグラスは多くの損傷を受け
20世紀に大規模の修復が行なわれ、その輝きを取り戻しています。


ステンドグラスの一例

高さがよく分かる柱とステンドグラスの列


中央礼拝堂

大聖堂には、中央礼拝堂をぐるりと囲むように
22の礼拝堂がそれぞれ美しさを競うように並んでいます。

中央礼拝堂外観

中央礼拝堂外観

礼拝堂の外側には素晴1らしい鉄格子が見られます。
この鉄格子は工芸家が10年の歳月を費やして制作したものです。


鉄格子とステンドグラス

正面から見た鉄格子と奥に祭壇屏

中央にある皇帝カルロス5世の紋章である双頭の鷲が際立っています。
鉄格子中央双頭の鷲

祭壇屏

礼拝堂の中には15世紀から16世紀かけて27人の工芸家が協力して
制作した彫像や金銀線加工などが施された彩色の祭壇屏があります。


祭壇屏

祭壇屏は5仕切りになっており、中央の仕切りはやや大きく
そこにはキリストを抱くマリアの坐像、聖体顕示台等が
そして最上部には、キリストのはりつけの像があります。

その他の仕切りには、キリストの生涯の重要な20場面が精巧に描かれており
ヨーロッパで最も美しいものです。

なお左右には皇帝や枢機卿の墓があります。


祭壇屏細部




トレド大聖堂 その1外観

2011-12-27 18:56:18 | 海外旅行
南側から見たトレド大聖堂

年賀葉書、正月準備の整理や飾りつけ、病院行き等で
延びていたトレドの続きを掲載します。

今回ご紹介するトレド大聖堂は、外から撮った写真が少しあるだけで
内部は全く無く、多分撮影禁止だったと思われます。

それに困った事に内部の記憶が殆どありません。
これは多分この旅で、ローマではバチカン宮殿を見ており
内部の写真も沢山残っていることから
その印象が余りにも強く残っているためかと思われます。

止むを得ませんので、インターネット上の色々の資料と、
現地で入手したガイドブックを参考にしてご紹介する事にします。


トレドの大聖堂(カテドラルCathedral)について


Google mapの空から見た大聖堂

トレドの大聖堂は「トレド大司教の大聖堂」とも呼ばれ
大司教がいる大聖堂で、スペインでのカトリックの総本山で
スペインゴシック建築の最高傑作とも言われています。

この大聖堂は、1227年に着工し完成は1493年と
2.5世紀という長い時間をかけて建設が行なわれました。
そのためムアー様式(イスラムの影響を受けた、スペイン地方の様式)と
スペインルネッサンス様式という明白に異なる建築様式が採用されています。

大きな礼拝堂が中央にあって、
70の円形天井と88の柱で構成された5つの脇廊があり
壁側には小さな礼拝堂がぐるっと取り囲んでいます。
建物の長さは113米、幅は57米、高さは45米あります。

大聖堂建築について

大聖堂のイメージを持っていただくために
小生自身も大聖堂建築について不案内であったので
調べた結果を、必ずしも正確でないかもしれませんが
基礎的なことをご参考まで下記します

大聖堂を平面図に表すと、下図の様にほとんどの場合東西に伸びる廊と
廊に交差する南北の翼廊(袖廊ともいう)が十字形を描いています。
廊は西が入り口で、西正面は外観で最も装飾的な部分となっています。

3廊式大聖堂の平面図

廊の数は通常奇数であり、その数によって
単廊式、3廊式、5廊式などに分類されます。

廊のうち中央に設けられるものは、通常高い天井と広い幅を有しており
身廊と呼ばれます。
身廊の両脇に設けられる天井の低い廊は側廊と呼ばれ
身廊と側廊、または側廊どうしの間はアーチで区切られています。

トレド大聖堂は5廊式で、側廊の天井も高く
また外側の側廊は身廊より広い幅を持っており
5身廊の聖堂とも呼ばれています。

トレド大聖堂の平面図

なお身廊は入口から翼廊に至るまでの部分をいうこともあり
そこは参拝者のいすが並んでいる場所です。

その奥には内陣(主祭壇を安置するための聖職者専用の空間)
そして祭壇、祭壇の後ろの後陣等があります。


トレド大聖堂西正面

正面の門の左側には塔が、右側にはモサラベの礼拝堂のドームがあります。
その間には3つの門があります。


西側正面(横長写真3枚を繋ぎ合わしたもの)


西側正面(案内書の写真)



塔の高さは92米で、大きく二つの部分があり
下部四角の4段の構造物、その上に小尖塔がつい8角形の構造からなり
夫々は別の人物により設計されました。

また最上部には三つの冠がありますが、それは
ローマ教皇が被った三つの冠から構成された教王冠を模ったものだそうです。

なお塔は当初左右に作られる予定でしたが
片側の地盤が悪いため中止され、礼拝堂が作られました。



正面には三つの門があり、中央に「許しの門」(Door of Forgiveness)、
右側に「最後の審判の門」(Door of Forgiveness)、
左側に「地獄の門」(the Door of Hell)があります。

許しの門

許しの門

15世紀に作られたこの門から入った悔恨者には
贖宥状が与えられた時があった事から許しの門と呼ばれました。

現在この門は通常は閉じられており
新しい大司教が就任した時とか、特別の場合にのみ使用されます。

許しの門前のktemple

ライオンの門(Door of the Lions)

ライオンの門

この門のある場所がどこか分かりませんが
大きな門の中で最も美しいもので、15世紀に造られました。

門の前の鉄柵の上を飾る大理石のライオンによってその名が付けられました



スペイン トレドの思い出 その1

2011-12-21 12:39:28 | 海外旅行

 
トレドの町中央の塔は市街中心にある大聖堂
 

旅行の概要

未だ暫くは写真撮りに外にでられませんので
1993年ツアーでのスペインとイタリヤの旅の思い出を掲載します。
 
 字の記録は見つかりませんが
記憶に残っている事も多く写真も残っており
 
スペインでは、バルセロナ、マドリード、トレドを
イタリアでは、ローマ、ベニス、ミラノ等を廻た様です。
 
小生はもっぱらビデオ撮りで、写真は家内か同行者が撮りましたが
9×25センチという横長の変則的なプリントが多いので
出来るだけトリミングして掲載しました。
 
トレド(Toledo)について

先ず古都トレドから紹介する事にしますが
残念ながらトレドの写真は僅かしか残っていません。
幸い現地で購入したトレド紹介本がありましたので
その写真も利用してご紹介します。

トレドはスペイン中央部の都市で、マドリードから南に71kmにあり
タホ川に囲まれた丘の上に位置しており
ヨーロッパでも古い都市の一つで、要塞化した町です。
 

トレドの町
手前がタホ川。中央奥の塔がトレド大聖堂。右奥はアルカサルの城
 
別の角度からのトレドで、何となく要塞を感じさせます。
手前にはホタ川があります
 

トレドの地図  

トレドの歴史

    紀元前192年にローマの軍隊がトレドを征服したことが           
        ローマの文書に残っています。
その後6世紀にはゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化を融合させ

西ゴート王国の首都となり栄えました。

8世紀にはアラビア人(イスラム教徒)に征服されますが
11世紀にはキリスト 教国となり、スペインの政治・文化の中心的役割をはたし、                                        
16世紀にはスペイン王国の首都となりました。

しかし数年後には首都がマドリッドに移され
トレドは徐々に衰退を始め現在に至っています。

世界遺産登録

トレドは現代化をまぬがれて
古代ローマから2千年紀にわたる文明の痕跡を残していること
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教による異文化の交錯した地となり
「町全体が博物館」と言われておる事から
トレド大聖堂など旧市街全体が古都トレドとして
1986年に世界遺産に登録されました。

門、橋、城砦

要塞の町ですから、町に入るには幾つかの門、橋及び城砦があります。

 
ピサグラの門
 
ピサグラの門はトレドの最も重要な門で16世紀に建てられました。
両側面には花崗岩で出来た二つの塔があり
門上部にはハブスブルグ家の双頭の鷲がはめ込まれています。
 
                                                           
アルフォン6世の門

典型的なアラビア風のこの門は9世紀初頭に建てられました。
この門の当初の名前はピサグラの旧門でしたが
11世紀初頭に3世紀に亘って回教徒の占領下にあったトレドを
アルフォンソ6世がキリスト教徒の軍隊を率いて
入城し再征したためです。
 
 

       サン・マルティンの橋

  このアーチ型の美しい橋は13世紀に造られたもので
右の外側の門は頑丈に要塞化していますが
内側の門は何回かの修復、その様子を失っています。
 
 
                           アルカンタラ橋とサン・セルバンド城 

この橋は9世紀にアラビア人により造られましたが
13世紀にタホ川の氾濫で破壊されたので、その上に建てたものです。
アルカンタラはアラビア語でアーチを意味します。
 


そんな橋の一つで


城 砦 

トレドは自然濠ともいうべきタホ川により
敵の攻撃から市を守っていましたが
北側には川がないため、北の奥の高い丘に城が造られました。
南に向けて無防備の市街が拡張されていったため
市街の北方を囲むように城塞が造られていきました。
 
     町の一番高い丘の上にあるアルカサルの城
 
町の要塞
 
 
町の要塞

市内の狭い道路

ところで市街を歩いてみると、
狭い道で全く要塞を感じない場所があるのが面白いです。


上の写真と余りにも異なった市内の様子


同じ狭い道でも、大聖堂が見えるここらの感じはまた違います



美しいトレドを眺められてご機嫌の二人。未だ小生60代初めだと少しは若い?
この写真はタホ川の対岸にある高台のホテルからの写真


次回は大聖堂を中心にご紹介の予定です。

 

 


え!靖国神社で競馬?

2011-12-17 18:37:51 | 珍しい事
競馬で思い出すドガの「競馬場の馬車」

競馬には殆ど縁がない小生ですが
日経電子版に出ていた記事にびっくりしましたのでご紹介します。
なお写真はインターネット上の写真を借用させて頂きました。

東京の競馬場と言えば、東京競馬場や大井競馬場の名前が浮かびますが
時代をさかのぼると、あちこちに西洋式の競馬場があった様です。


靖国神社参道での競馬

東京最古の近代競馬は靖国神社で行なわれました。

靖国神社は幕末から明治維新にかけての戦没者を祭るため
1869年(明治2年)に「東京招魂社」の名で創建され
1879年に靖国神社に改称されました。

第1回の競馬が行われたのは招魂社創設の翌年1870年で
年3回ある奉納競馬として実施されたもので
神事の一環でもありました。

競馬は境内の細長い参道の両脇に柵を巡らし
その端を結ぶ楕円形の一周1周約900米の楕円形の周回コースがあり
そこで行なわれたためカーブがきつく、落馬が絶えなかった様です。



この競馬は当初兵部省の主催で実施されていましたが
兵部省が廃止されるとその後を引き継いだ陸軍省が実施しました。


大村益次郎の銅像

多分皆さんご存知の大村益次郎の銅像は1893年にできており
競馬は1898年まで続きましたから、この銅像の周りを馬が走っていたわけです。


戸山学校競馬場

戸山学校競馬場は現在の早大理工学部の敷地と重なるような場所で
1879年から1884年まで存続した競馬場です。

米大統領グランド将軍の来日歓迎行事として
競馬を開催するために設置され、
この競馬大会には明治天皇も行幸し盛大に行なわれました。

この時運営会社の共同競馬会が設立され、近代的競馬規則も定められました。


上野不忍池競馬場

交通不便な戸山学校競馬から、集客アップをねらって、
1884年に上野不忍池競馬場ができました。

池の周り1周約1600米は、カーブも緩やかで良いコースだった様で、
初日には天皇臨席のもと政府高官や財界人がこぞって集ったそうです。

 
以降1892年まで春と秋に競馬が行われましたが
経営難のために止めてしまいました。


吹上御苑の競馬場

明治天皇は、競馬に対し非常に深い関心を持ち
皇居西の丸に円形に近い1周約738㍍の馬場をつくり
1875年に初めて競馬を行い、1884年まで続けられました。

競技としての西洋式競馬は当時社交の場であった様です。


目黒競馬場

目黒競馬場は1907年に日本競馬会により開設され
1932年には第一回日本ダービーが開催されましたが
1933年に府中の東京競馬場へ移転しました。

現在の東京都目黒区下 目黒四〜六丁目付近の目黒競馬場跡には
競馬場外周の曲線部分が現在でも残っており
交差点名やバス停に元競馬場の名があり
馬のモニメントがある記念碑が設置されています。



その他の競馬場

池上競馬場(大田区池上)、板橋競馬場(板橋)、羽田競馬場(羽田)
八王子競馬場があり、府中、大井競馬場のほかに10ケ所ありました。



日本最初の近代競馬は?

日本に西洋式競馬が持ち込まれたのは
江戸時代、開港直後の1860年に横浜・元町辺りで行なわれた様です。

詳細な記録があるのは1862年からで、現在の中華街辺りで行われました。