昨年までは冷房の部屋に長く居ると、小生体調があまり良くない状態になりましたが、
今年は冷房の部屋でないと過ごす事が出来ない様な猛暑で大変です。
日本も亜熱帯地域になったのでしょうか。
そのためか今は冷房の部屋に24時間居ても体調が悪くならないから不思議です。
さて今日は久し振りの雨のお蔭で気温が下がり、扇風機だけで過ごしましたが、
外の空気を入れ込むと空気が柔らかい感じで何と も気持ちが良く過ごす事が出来て有難かったです。
終わり
昨年までは冷房の部屋に長く居ると、小生体調があまり良くない状態になりましたが、
今年は冷房の部屋でないと過ごす事が出来ない様な猛暑で大変です。
日本も亜熱帯地域になったのでしょうか。
そのためか今は冷房の部屋に24時間居ても体調が悪くならないから不思議です。
さて今日は久し振りの雨のお蔭で気温が下がり、扇風機だけで過ごしましたが、
外の空気を入れ込むと空気が柔らかい感じで何と も気持ちが良く過ごす事が出来て有難かったです。
終わり
日立製作所本社機電罷業本部に勤務していた小生は、40台中半近くから技師長さんと
二人だけの組織SG(Strategic Group)に属し、関連工場が発展していくための
研究開発の管理と推進業務を主として担当したため、関連工場で毎期行われる研究開発の現状と
今後の在り方等を検討する「開発会議」の司会を担当しました、
そのためその他の用件を含めて日立工場のある日立市には度々訪れていました。
しかし退職してからは一度も行っていませんので、日立駅は田舎の駅と言う印象をずっと持ち続けていました。
所がこの頃「日立駅そのものが観光名所」という記事を見てびっくり。
早速インターネットで日立駅を調べ下記の「日立駅について」を作成し仲間に送付しました。
ご興味のある方はお読み頂ければ幸いです。
終わり
日立駅について 020:08:17
1 日立駅の歴史
日立駅は1897年に「助川」駅として開業しましたが、1939年に助川町が日立町と合併し日立市が発足し助川町が消滅したため、
同年日立駅に改名されました。
茨城県近代化遺産になっている小生が知っている日立駅
駅開業当時の駅舎は、現在の駅構内から見て南西側に設けられていましたが、1914年に線路の反対側の場所(海岸口)に駅舎が移転されました。
その後跨線橋改札口や北口の開設を経て、1952年に中央口が新たに設置されました。そして海岸口駅舎と中央口駅舎が300メートルほど離れており、
どちらの駅舎を利用してもホームの列車停車位置まではかなり歩く必要があっため、2011年に新たな橋上駅舎に改築され駅舎が統合されました。
2 ガラス張りで海を眺めることができる駅舎新しい日立駅
日立駅は海に浮いている様な駅で、日立市出身の建築家 妹島和世による作品として知られており、美しいガラス張りの橋上駅舎や
日立駅自由通路が2012年にグッドデザイン賞を、2014年には鉄道関連では唯一の国際デザインコンペティション「ブルネル賞」の優秀賞を受賞するなど、
これまでに11の賞を受賞しており、駅そのものが観光名所です。
空から見た日立駅
上の写真で海に平行の2階建ての白い建物は日立駅舎で、海に直角の建物が自由通路です。
この幅8m、全長139mの自由通路により、商業施設が建ち並ぶ西口と海に近い東口とが一体的につながるとともに
「海」と「まち」を繋げています。なお通路内には水平型エスカレーター約50m設置されています。
海岸口日立駅
駅舎と入り口付近
水平型エスカレーター
自由通路は反射性の高いコンクリート床とガラススクリーン、アルミパンチングメタル天井で仕上げられており、
「海」や「まち」の景色が映り込んで、建物全体にやわらかく広がり、外部と内部がゆるやかに繋がる開放的で
透明な空間となっています。
自由通路の先端にある「SEA BiRDS CAFE(シーバーズカフェ)」は、絶景天空カフェの異名を持ち、全面ガラス張りで
席に着けば目線の高さに水平線があり、まるで海に浮かぶガラス箱のようです。
外の青い建物が自由通路の先端にある「SEA BiRDS CAFE(シーバーズカフェ)
右がSEA BiRDS CAFE
日立駅情報交流プラザは自由通路中央口北側にあり、イベントや観光案内などの情報発信や
路線バスの交通案内などを行う「情報センター」をはじめ、日立市の土産品・特産品などの紹介や販売を行っており、
さらには、市民の創作作品、学校事業による作品の展示、演奏会やイベントなどに使用することができる
「多目的ホール」があります。
日立駅自由通路の海側先端部は、太平洋が一望できる絶景のオーシャンビュースポットです。
絶景を望みながらイベント等が開催できる「展望イベントホール」があります。
展望イベントホール
展望イベントホールからの眺め
「日立駅情報交流プラザ(ぷらっとひたち)」は、駅利用者の利便性向上、多様な交流を促進するための施設として、
日立駅自由通路中央口北側にオープンしました。
日立駅情報交流プラザでは、イベントや観光案内などの情報発信や路線バスの交通案内などを行う「情報センター」をはじめ、
日立市の土産品・特産品などの紹介や販売を行っており、さらには、市民の創作作品、学校事業による作品の展示、演奏会や
イベントなどに使用することができる「多目的ホール」があります。
また、日立駅自由通路の海側先端部には、絶景を望みながらイベント等が開催できる「展望イベントホール」があります。
終わり
長野県諏訪市湖柳町について
小生が終戦の年まで育った諏訪市(当時は上諏訪町)の湖畔の小さな町湖柳町は
小学校、旧制中学校、旧制高等女学校の校長官舎や独身の先生の下宿もあり先生が多く住んでおり
小生の父も高等女学校の教師、中学の担任の先生の家も我が家から3分の場所にありました。
そしてお店は一軒もなく、いわばサラリーマンの町でした。
また我が家、その両隣の家でも庭から熱い湯がこんこんと湧き出ており、掛け流しの風呂が楽しめました。
幼友達について
小学校に入る前からの近所の幼友達は6人おり、皆でよく悪戯をして遊びましたが
それでも皆旧制諏訪中学の入試に合格して通いました。
諏訪は非常に寒く、諏訪湖は全面氷結して御神渡りも見られましたが、足袋も履かずに高下駄で中学に通いました。
大人になって何時頃からかこの仲間は、諏訪の助役をされたA君を除き皆東京近辺に住む様になりました。
そして6人の他に、湖柳町住んでいて中学生になって仲間になった3人が加わり
本ブログに度々登場する湖柳会がつくられました。
当初は男性だけでしたがその後夫婦で集まるようになり、マージャンと食事を楽しんできました。
然し昨年から今年にかけて幼友達6人のうち4人が亡くなり
幼友達で残ったのは同じ柏市に住むI君と小生の二人だけとなりました。
I君は家が離れているため会う事もなく年数回電話で連絡しており。今年も正月にはお話が出来たのですが
この頃電話すると「この電話は使われていません」との応答で心配です。
88歳の小生の平均寿命は80歳ですから、多くの仲間が亡くなるのも当然かもしれないと諦めています。
なお御神渡りとは、気温が下がると氷が収縮して裂け、そこに下の水が上がって結氷し、気温の上昇に伴って氷が膨張して、
裂け目の氷が持ち上げられる現象です。
昔から諏訪では、諏訪大社の神が渡ったものとして、その方向や出来ぐあいによって
その年の豊凶を占っています。
御神渡りの写真
第四龕の前から第三龕、第二龕、第一龕方向
第三龕(左側)と第四龕(右側)
ホキ石仏第一群第三龕は平安後期の作で
伝観音菩薩立像、伝釈迦如来坐像、大日如来坐像、阿弥陀如来坐像、伝勢至菩薩立像の5像です。
キ石仏第一群第三龕の5像
上の写真で見られる通り、 伝観音菩薩立像は上半身は確認できない状態です。
横から見た中心三像
中心3像正面から 中尊に金剛界大日如来。右に釈迦如来 左に阿弥陀如来
中心の三尊は中尊に金剛界大日如来を配し、右に釈迦如来、左に阿弥陀如来が並んでいます。 三尊とも膝前が長く広いのが特徴で、如来像の台座には願文や経巻納めたであろう円や四角の孔があります。
終わり
ホキ石仏第一群第二龕
ホキ石仏第一群第二龕 は、臼杵の石仏群の中で古園大日如来、ホキ石仏群の阿弥陀三尊像とならぶ傑作で、
特に彫技に優れた平安後期の作です。
ホキ石仏第一群第二龕
上の写真で、向かって左の柱のすぐ右に写っているのは第一龕の観音菩薩立像です。
ホキ石仏第一群第二龕アップ
向かって左から愛染明王坐像、薬師如来坐像、阿弥陀如来坐像、伝釈迦如来坐像です。
ホキ石仏群の中心的な存在である中尊の阿弥陀如来は、静まった顔で、眉・目・髪を墨で描き、量感あふれる姿が特徴です。
三尊とも彫技は優れ、平安後期の作といわれる。
左から見た三如来。左から薬師如来坐像、阿弥陀如来坐像、伝釈迦如来坐像
右から見た三如来
中尊の阿弥陀如来像
薬師如来坐像
薬師陀如来像
終り