末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

ボケ爺さんの補聴器事件顛末記

2015-06-27 20:15:30 | 困った事
見えなくなった耳掛け式補聴器


一昨昨日の朝、補聴器をつけようとして探すと左耳用の耳掛け式補聴器が見当たりません。

前日草花を刈り取った時に、何処かに落としたに違いないと思い

早速庭の中を探しましたが見つかりません。

それでは刈り取った草花を入れた大きな袋の中に入っているに違いないと

袋の中から草花を取り出して調べてみても見つかりません。

一度目は眼鏡をかけずに調べたので、今度は眼鏡をかけて調べましたがやはり見つかりません。

この補聴器はシーメンス製の耳掛け式補聴器で、確か27万ほどしたものですから

年金生活者にとっては無くなると痛手です。

小生と補聴器

実は小生人様より早く確か60歳前に補聴器を使用し始めており、今考えると早すぎた様です。

そんな事から現在まで結構多くの補聴器を買っており、現在残って使用している補聴器は次のものです。

現在残っている補聴器

オクチオン社の耳穴式補聴器

現役で働いていた当時に最初に購入した補聴器ですから、高くても良いものをという事で

オーダーメイドで作ったため、両耳で80万でした。

写真の一番上のこの補聴器では、音の強さを4段まで切り替えることが出来、

音の切り替えも補聴器を外して調整するのではなく、

耳に入れたまま一方の補聴器に例えば一回触れると最低音、二回触れると次の音という様に

両方の補聴器の音の大きさが簡単に調整されます。小生は現在3段切り替えで使用しています。

高かっただけに調子が悪い時には購入した店に持ってゆくと無料で直してくれます。

この補聴器は現在でも外出時や、人様が我が家に見えた時に使っており、重宝しています。

シーメンスの耳掛け式補聴器

実はリタイアー後のある時、上の耳穴式補聴器が家の中で見つからなくなったため

高いオクチオン社の同様の物を購入するのは諦め、少し安価なものをと購入した補聴器で写真の2番目のものです。

所が無くなったと思っていた耳穴式補聴器が、ある時家具の間に落ちていたものが幸いにも見つかりましたので

この耳掛け式補聴器は、家にいる時にのみ使用するようになりました。

シーメンスの耳穴式補聴器

ただ右耳に入れる補聴器も必要なため、結局3種類の耳穴式補聴器を購入しましたが

現在では耳掛け補聴器と同じシーメンス製の写真3番目の耳穴式補聴器を使用しています。

其の他補聴器

講演会などでは耳穴式補聴器より、別の補聴器が良いのではと思い購入したのが集音器タイプのもので

先ず写真下の左側一台購入したのですが、その後その機種の新タイプが出たために

写真下の右側の新しいタイプも購入しました。

所が何と古いタイプの方が、なんだか音も使い勝手もよくて、今でも専ら古いタイプを使用しています。

今回の事件

こんな事で補聴器に投じた金額も馬鹿にならない金額になっており、今回見えなくなった時には

大分ショックを受けて探したわけです。

結局一昨昨日は見つからなかったため、止むを得ずシーメンスの右耳に使用していた耳穴式補聴器の左耳用を発注し

昨日午後到着して、やっと両耳に補聴器をいれる事ができました。

またもや何と見えなくなった耳掛け式補聴器が出現

今朝小生の部屋を何となく見回していると、見えなくなった補聴器が落ちているではありませんか。

でも折角耳穴式を両耳購入してしまったため、耳掛け式補聴器はお蔵入りです。

家内からは保管の仕方が悪いからと、居間と小生の部屋に補聴器を外した時に必ず入れておくようにと

比較的大き容器が置かれましたので、これからは今度の様な事は起こらないだろうと思っていますが

ボケが進んで今度は容器の存在も忘れてしまうのではと心配です。

以上恥ずかしながら、ボケ爺さんの補聴器事件の顛末です。



インターネットの事件と我が家の花6月20日 その1

2015-06-20 18:35:40 | 怖いこと
長野から戻りそろそろ1週間になりますが、再開しますのでよろしくお願いします。

インターネットの事件

帰宅早々とんだ事件に遭遇しました。

実は楽天カードの支払い通知がインターネットで届いたのを見ると

全く利用したことの無いCDなどの貸付をするサイトに75000円の支払いが行われていたことです。

先ずは次なる被害を防ぐために、そのカードを廃棄する手続きを取りました。

そして支払いを行ったサイトにも連絡して調べて頂くと、小生にはよく理解できないのですが

下記の回答がありました。

「当サイトでも貴方様のクレジットカード番号は登録されていないので、

今回はクレジットカード情報自体の被害ではなく、お客様の楽天カードアカウントが

第三者に乗っ取られてしまっていることが考えられ、そのアカウントに該当のクレジットカードを登録していたため、

結果的に身に覚えのないカード請求がきているという状況が考えられます」

小生インターネットを利用し始めてから27年になり、今迄インターネットの便利さだけを感じており

色々の支払いもインターネットを利用していましたから、まさかこんな事が起きるとは夢にも思っていませんでした。

これからは支払い法についても色々工夫しなければと思っています。

今回は幸い昨日楽天カード会社から、「この不明請求については請求を取り消す」という連絡を受けホットしています。

皆さんも同じ様な被害を受けぬ様ご用心頂けたらと思い、今回の事件をご披露しました。

我が家の花

薔薇

長野から帰ると、何時もは薔薇の花は散る前に摘花していますが、暫く摘花していなかったため

特に黄色の薔薇には沢山の花がついており、早速摘花しました。

摘花された沢山の花

思い切って摘花したため、花が少なくなってますが、花芽を持った新しい枝が手前に出ています。


花が少ない黄色の薔薇

花芽を持った新しい枝

ピンクの薔薇もある程度摘花しましたが、それでも何時も程の数の花が咲いています。

以前と変わらぬ状態のピンクの薔薇

朝顔

朝顔が大分伸びてきて花もつきだしました。


伸びだしてきた朝顔

青い花

赤い花





高野辰之記念館 その2

2015-06-06 14:20:32 | 旅行
高野辰之作詞の懐かしい歌
 
1) 春が来た:高野辰之作詞・岡野貞一作曲

 春が来た 春が来た どこに来た 山に来た 里に来た 野にも来た 
  
  花が咲く 花が咲く どこで咲く 山に咲く 里に咲く 野にも咲く

  鳥が鳴く 鳥が鳴く どこで鳴く 山で鳴く 里で咲く 野でも鳴く」

  この歌は明治43年(1910)刊行の「尋常小学読本唱歌」に発表。

2) 春の小川:高野辰之作詞・岡野貞一作曲

 「春の小川は さらさら流る 岸のすみれや れんげん花に 

  すがたやさしく 色うつくしく 咲けよ咲けよと ささやき如く」
 
  田園の春の風景を想像させるこの歌は、辰之少年の幼年時代を過ごした郷里の小川河骨川ではなく、

  東京の真ん中代々木を流れていた河骨川とその付近のイメージをもとに作られたのだといわれています。
  
現在の河骨川で、川辺にはこの歌の歌碑もあります

春の小川の歌碑(借用写真

  この歌は大正1年(1912)「尋常小学唱歌(四)」に発表されました。

3) 朧月夜:高野辰之作詞・岡野貞一作曲

 「菜の花畑に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし

  春風そよ吹く  空を見れば 夕日かかりて  匂い淡し」
 
  鐘の音は、高野辰之の故郷にある真宝寺の鐘との事です。

真宝寺

真宝寺の鐘楼

  なお菜は野沢菜で、野沢菜漬は信州の代表的冬の味覚で小生も大好きです。

 高野辰之が小学校の教師時代、下宿していた飯山市は、戦前菜種の特産地でした。

 今でも菜の花の種類こそ違いますが、遅い春を迎える四月頃、奥信濃の千曲川ぞいは一面黄色い花に彩られます。

 晩年を過ごした野沢温泉村には、この歌の歌碑と記念館「おぼろ月夜の館」があります。

Sさんと平和の塔

真宝寺のすぐ近くに、日本国憲法第2章戦争の放棄の条文を書いた石碑と平和の塔があります。

戦争の放棄の条文を書いた石碑

平和の塔とSさん

実はこの塔の「平和の塔」の字は,車を運転して案内してくださったSさんがお書きになった字で、

ここで初めて知ったのですが、Sさんは書家で書道の先生をされておられるとの事でした。

以上の事情から、Sさんにはお断りなしで、Sさんが写っている写真を掲載させて頂きました。

4) 故郷:高野辰之作詞・岡野貞一作曲

 「兎追いし かの山 小鮒釣りし かの川 夢は 今も めぐりて  忘れがたき 故郷」

 この歌を聴いたり歌うと、人々は、故郷を想い出し、それぞれの故郷の情景が浮かんできます。

 この歌は大正五年(1914)「尋常小学唱歌(六)」にはじめて登場しました。

今回立寄ったふるさと橋欄干には、「故郷」のメロディパネルが設置されていて、

マレットで順番に叩くと「故郷」のメロディーを演奏することができます。

写真の白い所がメロディパネル
 

5) 紅葉(もみじ):高野辰之作詞・岡野貞一作曲


 「秋の夕日に照る山紅葉 濃いも薄いも数ある中で 松を色どる 楓)や 蔦も 山のふもとの裾模様」
 
  この詩は、高野辰之が郷里と東京を往復するのに使った信越本線熊ノ平駅付近から風景を詠んだといわれています。

明治44年(1911)刊行「尋常小学校唱歌(二)」に発表されました。

  熊ノ平駅は、横川と軽井沢の中間、山とトンネルに挟まれた駅で今はありません。

  小生も新幹線が出来る前は、長野の家に行く時にこの駅を何度も通りました。

  当時は急勾配をアプト式鉄道でゆっくり走っていましたから、周囲の景色もゆっくり堪能できました。


なお最後に、前回のブログに寄せられた崎山言世さんの下記コメントを掲載します。

「名作唱歌は合議で作られたので、特定の作詞者の名前を挙げるのは、学術的には正しくありません。

高野岡野のゴールデンコンビというのは何の文書的根拠もないので、

大先生とメディアが推測して作り上げた俗説にすぎません。」


  
 

高野辰之記念館 その1

2015-06-04 16:25:53 | 旅行

高野辰之記念館の報告原稿を作っておきながら、掲載するのを忘れていましたので

遅れましたが掲載させて頂きます。

高野辰之記念館

 高野辰之記念館は、高野辰之の生涯と業績を顕彰するために、

辰之が学び教鞭をとった永田尋常小学校の跡地に、平成3年4月オープンした記念館です。

記念館にゆく階段

駐車場から記念館に行く階段の左右には、旧永田小学校跡地と高野辰之記念館と書かれた石碑があります。

旧永田小学校跡地石碑


高野辰之記念館石碑

 高野辰之記念館

記念館は純日本風の木造建築で、入り口正面の「ふるさとホール」を挟んで、

右側は商家風2階建て、生涯学習活動の場である「ふるさと民芸館」があり、

左側の記念館は平屋で、2棟の土蔵造りとなっています。年間約1万人が訪れているとのことです。

記念館全景

ふるさと民芸館入り口付近
 
展示室には辰之の生涯と業績紹介し、卒業証書や小学校時代のノート、家族への手紙を展示しています。


高野辰之について


高野辰之銅像

明治9年、長野県下水内郡豊田村(現中野市永江)の豪農家に生まれました。


移動中の車から撮った高野辰之の実家

辰之の歌の作詞、童話、学問や生活のすべての中に溢れる純粋一途な温かい人柄や

その大器となる基盤を育てたものの一つは、辰之を取り巻く豊かな自然環境であり、

もう一つは厳しさと慈愛に満ちた家庭環境でした。

家は代々農家でしたが、父親は優れた教養と高い道徳観の持ち主で、

小布施の豪商で有名な陽明学者、芸術家であった高井鴻山の開いた高井塾の塾生で、

農業のかたわらに月数回鴻山の元へ通い苦労しながら勉強に励んだ方でした。

辰之の本格的な文学研究は長野県師範学校卒業後の上田万年との出会いに始まりますが、

その文学好きは幼少年期からであり、14~15歳の当時日本文学全書24巻の第1編竹取物語、

伊勢物語から鎌倉、室町の近古文学まで読み通したそうです。

15歳で下水内高等学校を卒業し母校の永江小学校の教師を2年間勤め、長野師範に進学して4年間、

島木赤彦、太田水穂などとも交友を深め、和歌詩歌などを多く詠みました。

辰之は国文学における教育者でありながら、

日本のこころのふるさとを歌う「故郷」「紅葉」「朧月夜」など文部省唱歌の作詞もしました。

高野辰之と音楽

辰之は、明治の終わりから大正の始めにかけて作曲家岡野貞一と組み、

「日の丸の旗」「紅葉」「春が来た」「春の小川」「故郷」「朧月夜」などの作詞をしました。

日本人にながく愛唱されているこれらの歌には、故郷によせる優しい思いがこめられています。

辰之は、明治42年に文部省の小学校唱歌教科書編纂委員に委嘱され、

作曲者の岡野貞一とコンビで、今も多くの人に愛されている名唱歌を世に出しました。

また、全国各地の校歌100曲以上を作詞したことでも知られており、更に30編もの童話を書いています。

高野辰之が作詞した尋常小学校唱歌

日の丸の旗/白地に赤く、日の丸染めて・・・(一学年)、

紅葉/秋の夕日に照る山紅葉・・・(二学年)

春が来た/春が来た、春が来た・・・(三学年)、

春の小川/春の小川はさらさら長る・・・(四学年)

故郷/兎追ひしかの山・・・  朧月夜/菜の花畠に・・・(六学年)

高野辰之と文学

国文学者としては、国文学史教科書、近松門左衛門全集、日本歌謡史、浄瑠璃史、日本演劇史などの業績があり、

日本学士院賞を受賞しています。

高野辰之の学問観

辰之の学問の底流には「人間の喜びや悲しみの叫びが歌謡の起源、身振りは舞踊、物真似は演劇の起源」という考えがあります。 

『日本歌謡史』『江戸文学史』『日本演劇史』は代表的著作で、その研究は実証的で、資料の収集と検討分析に力を注ぎ、

日本の歌謡・演劇・民俗芸能の学術的研究に前人未踏の世界を開きました。

辰之は明治40年の覚書きの中で「その国の童話にはその国の国民思想がこもっている。

今日の小学校国語読本は、日本より外国の童話を多く採用している。

自分の屋敷の美しい朝顔に気付かないで、隣から貰った朝顔を眺めているようなもの・・・」と、嘆いています。

辰之はその頃、全国の小学校に依頼して各地に伝わる童話類の発掘をし、

その再話作品を凡そ50作、春陽堂から『家庭お伽話』として明治39年から45年にかけて発表しています。

高野辰之の斑山文庫

斑山と号された辰之は、古今の書画等を数多く収集しました。

大変貴重な物で、辰之は書画を保存するため、昭和3年に2階建土蔵造りの書庫を建て、

それを「斑山文庫」と称しました。文庫は昭和20年の東京大空襲にも耐え、貴重な品々を今に伝えています。

高野辰之の対雲山荘

昭和9年夏、辰之は野沢温泉の麻釜の近くに廃屋を求め、改造して別荘とし、これに「対雲山荘」と名付けました。

以後、毎年夏の間、大好きな温泉にたっぷりと浸かれる野沢温泉に家族とともに訪れ、

仕事や散策をしながら滞在していました。

昭和18年東京から住まいを移し、晩年はお気に入りの野沢温泉で悠々自適に暮らし、昭和22年1月、71歳で亡くなられました。



先月28日のこと

2015-06-03 20:26:35 | 
ちょっと古い話になり恐縮ですが、先月28日に東京に出掛けた時の事を書かせて頂きます。

TT会

先ず行ったのは2ケ月に1度東京で開催されている会社時代の

ある事業部に属した部課長仲間の会TT会です。

TT会の10年ほど前のメンバーの半数はお亡くなりになっており、

その後若い方3人に幹事役をお願いして加入して頂いているのですが

今回の出席者8人は幹事役のお1人を除いて全て80代。

最年長の方は89歳ですが、幸い皆さんお元気で何よりです。

今回の会では、TT会のメンバーが所属していた事業部と同じ様な仕事をされている

現役の部長さんに来て頂き、事業部の現状をお聞きする事が出来ました。

鳥獣戯画展

その後上野の東京国立博物館の平成館で開催されている鳥獣戯画展を見に出掛けました。

所が待ち時間3時間という事で諦め、本館で展示の国宝でも見ようかと入ると、

鳥獣戯画の模写の展示が行われており、本物の写真も幾つかありましたので

鳥獣戯画の概要を知る事が出来ました。これについてはまた機会を見て書きたいと思います。

サツキ展

また上野公園では、サツキ展が開催されおり、

素晴らしいサツキを沢山見る事が出来写真を撮りましたので、その幾つかをご紹介させて頂きます