末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

諏訪散策 その1  御柱の1

2016-02-28 15:16:20 | 祭り
2004年の湖柳会

諏訪のホテルで

この時は、諏訪に住んでおられるAさんご夫妻の案内で

マイクロバスに乗って、住んでいた湖柳町、通っていた小・中学校、

更に御柱で有名な諏訪神昔懐かしい諏訪の各所を巡りました。

諏訪神社上社で懐かしい御柱を眺めるお仲間

そこで先ず自分史の一環として、寅と申の年に行われます御柱は

申年で諏訪に14歳までいた小生、2度経験しているはずですが

御柱を動かす綱を曳いたことは何となく思い出すものの、御柱についての手持ち写真はなく

また御柱そのもにおついても余り詳しくないので

この際出来るだけ正確な情報を集めて纏めてみました。

ご興味があればご覧頂ければ幸いです。

資料作成に当たっては主として下記のサイトの文章・写真を

ご許可も得ないまま利用させて頂き誠に申し訳けありません。

1 諏訪大社  ホームページ  http://suwataisha.or.jp/index.html
  
2 天下の大祭…信濃国一之宮「諏訪大社」・御柱祭のご案内
  ちのステーションホテルのサイト http://www.cs-h.co.jp/mihasira.htm

3 御柱祭いくぞやい 
  諏訪市観光サイト 諏訪deすわ https://www.city.suwa.lg.jp/kanko/common/sitemap.jsp

4 ONBASHIRA SEWA IN SHINSHU
  諏訪地方観光連盟 御柱祭観光情報センターhttp://www.onbashira.jp/faq/

5 諏訪大社御柱情報
  BeautySalonMayの情報 http://www.maybs.jp/onbashira/honmiya_keidai.htm

6 諏訪探訪  諏訪大社を知る http://homepage2.nifty.com/pms_music_info/suwa.htm
  
御柱祭

1 概要

御柱(おんばしら)または御柱祭(-さい、-まつり)は、7年目毎、寅と申の年に行われます。

正式名称は「式年造営御柱大祭」といい、宝殿の造り替えと、

社殿の四隅に「御柱」と呼ばれる樅の巨木を曳建てる諏訪大社の最大の神事です。

諏訪大社については追って詳細を掲載しますが、諏訪大社には上社と下社があり、

上社は本宮と前宮に、下社は秋宮と春宮に分かれています。

諏訪大社のある場所
    
御柱祭では、山中から御柱として樹齢200年程の直径約1m、長さ約17m、

重さ10t以上にもなる樅(もみ)の大木を16本(上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮各4本)切り出し

山で切り出された御柱

諏訪地方の各地区の氏子の分担で4箇所の各宮まで

上社では約20km、下社では約12kmの街道を、木遣りに合わせて人力のみで曳き

社殿の四方に建て神木とする勇壮な大祭です。

上社御柱で,御柱の先頭につけられたメデトコに乗って木遣りを歌う木遣り衆
      
その途中には、丸太の上に人が乗ったまま、急坂を落とす「木落し」、川の中を渡る「川越し」は

怪我人が出ないのが不思議と言われる程荒々しく勇壮な行事です。

木落しの風景・坂を落ちていく木の上に人が乗っています

川越し風景

里曳きでは、長持ち、騎馬行列など時代絵巻が見ものです。


御柱里曳き風景

そして祭りのフィナーレとして、各宮の四方に柱を立てる建御柱が行われます。

建御柱風景
                  
勇壮さと熱狂的ぶりで、天下の大祭としても全国に知られており、

古くは804年桓武天皇の御代から信濃国一国をあげて奉仕がなされ

盛大に行われる様になり、現在でも諏訪地方の氏子20万人以上と、

訪れる観光客等がこぞって参加し熱中するお祭です。

なお上社御柱と下社御柱には後述する違いがあります。

諏訪大社の御柱がすむと、諏訪地方の神社では御柱祭が行われます(小宮祭と言う)。

この年は諏訪大社の御柱祭から始まり小宮の御柱祭で一年が終わります。

2 今年の御柱祭り日程   

申年の今年は、次の様な日程で御柱が行われ、下社は上社の一週後に行われます。

上社御柱祭 山出し 4月2日(土)、3日(日)、4日(月)
      
      里曳き 5月3日(火)、4日(水)、5日(木)
      
      宝殿遷座祭 6月15日(水)

下社御柱祭 山出し 4月8日(金)、9日(土)、10日(日)
      
      里曳き 5月14日(土)、15日(日)、16日(月)
      
      宝殿遷座祭 5月13日(金)

3 御柱を建てる理由

宗教的な流れや建築的な立場などから諸説があり、広大な社殿を造営する遺風を尊重して、

その代わりに四本の御柱だけを建て替えてきているという説、神域を示すという説

神霊の依代であるとする説など20種類以上あるようです。

代表的な説に下記があります。

1)四無量四抄説・・・御柱に関する最古の文献「諏訪効験」(鎌倉時代)によると、

 「四の御柱片柏も内証四無量四抄かとよ」とあり

 諏訪明神の神徳を四無量(慈・悲・喜・捨の心・・・仏教の教え)と解釈して、

 これを四本の御柱に当てはめたという説

2)四王擁護説・・・持国天(東方)・広目天(西方)・増長天(南方)・多聞天(北方)の

  4守護神を四王とし、御柱に置き換えた説。

  この思想に基き、四王が諏訪大明神を中心として国家を護る意味としました。

3)四菩薩説・・・普賢・文殊・観音・弥勒の四菩薩を御柱に置き換えた説。

  前途の四王説よりもより仏教色が強い説です。

4)四神祭説・・・江戸時代の文献「信濃国昔姿」によると、

 「御柱四本を建替へるの儀にて大事の神式のよし、世俗の伝説には

  青龍(東)・朱雀(南)・白虎(西)・玄武(北)の4神に象(かたちど)り

  東西南北四方の国堅めなり」とあり、この四神に御柱を当てはめ、四方を守るという説。

4 なぜ7年ごと
  
易学からみて、陰暦で寅は1月、申は7月にあたり、春と秋の初めになるといわれています。

 また、寅と申には「動く」「うごめく」といった意味があり、

 草木の芽吹きや作物の熟成に通じ縁起がよいということで、

 暦を重んじた古代に7年ごととされたという説もあります。

5 古い御柱は

 かつては、橋の架け替えなどで使われていましたが、現在は、その他に友好都市などに寄贈され、

 観光スポットとなったり、地元の観光協会や駅などに払い下げたり、諏訪大社のお守りや表札、

 お箸などにしています。

湖柳会 その1

2016-02-22 18:52:20 | 仲間の会
このブログでも時々湖柳会とマージャン会の事が登場していましたが、

自分史の一部として纏めましたので先ず湖柳会についてご紹介させて頂きます。

湖柳会
 
小生が終戦まで育った場所は、現在の諏訪市の湖畔に近い小さな町湖柳町でした。

現在この町名は無くなり「湖岸通り」となっており、十字路に湖柳町の名前が残っているだけです


現在の湖岸通り付近の地図

小生の住んでいた場所は、上の地図の中央付近にある「古畑うなぎ料理店」の文字の

「な」の字の少し下付近で、北原病院、矢島病院は当時もあり懐かしい名前です。

次の写真はGoogle mapの古畑うなぎ料理店付近の上空からの写真です。

我が家があった付近の上空からの写真Google mapより

写真の「おび川」の左下にある赤い屋根と木が小生お隣の同年生S君のお宅で

写真を見る限り昔と殆ど変わっていない家です。

S君のご姉弟は大人になって皆諏訪から離れましたから、今は別の方が住んでいるはずです。

そしてS君のお宅の下にある車や家がある所が我が家があった場所です。

我が家は左の道側に小さな庭があり、その先中央の玄関の両側に各2部屋とトイレ

その先にはS君の庭に沿って台所、風呂場、物置、子供部屋があり

その前には比較的広い庭がありました。

父親が女学校の生物の教師をしていたせいか、木、植木鉢、花が多くあり

いちごもあったり、周囲の塀の下にシュウカイドウが沢山あった記憶があります。

当時はs君のお宅の木は左の道側にあっただけでしたので

子供部屋の戸を開けて、S君と話が出来ました。

なお当時はうなぎ屋さんは無かったのですが、何年か前どちらかの店に行った所

店の奥さんが小学校の同級生でびっくりしました。

当時湖柳町にはお店は1軒もなく、小・中学校の校長官舎をはじめ、

沢山の先生方が住んでいるところで、サラリーマンの住宅街とでも言える場所でした。

湖柳町の良いことの一つに、あちこちに温泉が湧きだしていたことで、

小生の家やその両隣でも同じで、風呂場には24時間湯が流れて出ていました。

温泉と言えば近くに千人風呂で有名な片倉館があり、家に温泉があっても、時々出掛けました。

片倉館につては後でご紹介する予定です。

当時の旧制諏訪中学校には、諏訪湖周囲の各所から通う同期生は140人でしたが、

小さな湖柳町には11人おり、しかもお隣の家と小生の家から歩いて3分以内に5人もいました。

この5人は小さい時から野球を中心に色々な遊びや悪戯をしました。

小さい頃の写真としては家族写真はありますが、このお仲間の写真はありません。

多分当時家に写真機は無く、写真は写真屋さんに撮ってもらったためでしょうか。

次の写真は一番小さい頃のお仲間達の写真ですが辛うじて小生が分かる程度で、

必ずいるはずの湖柳会のお仲間がどこにいるか分かりません。 


幼い頃の湖柳町の子供達

湖会のメンバーが入り込んでいるのが分かる一番小さい頃の写真は

次に掲載の中学2年当時の湖柳町から諏訪中学に通っていた仲間の写真です。

湖柳町から諏訪中学に通っていたのは小生の兄も含めてもっと沢山いましたので、

その一部で、湖柳会メンバーも6人写っておりktempleもいます。


湖柳町の諏訪中学の仲間達

残念ながら湖柳会の仲間は、現在では11人の内既に3人は亡くなっており、

病気で会に出られない方も一人います。

ただ84歳という年齢では日本全体の統計では半分以上亡くなっている事を思うと

この仲間の生存率は極めて高くて有難い事です。

そしてこの仲間の職業は、自営業1人、貸し部屋のビルオーナー1人、助役1人、大学教授1人、

企業の役員3人、大手銀行の支店長1人と、皆さん現役時代活躍されました。

残念ながら小生はその中には含まれておりません。

そこで研究財団勤務当時、名刺の日本語の肩書は主席研究員でしたが

英語ではDirector Chief Researcherと書いて、

海外ではDirectorと名乗って、その気分を味わいました?。

11人のうち諏訪市の助役をやったA君を除いて、大人になったある頃から

皆東京近辺に住む様になったため、「湖柳会」が発足し毎年会を持つようになりました。

会は、東京のレストランあるいは諏訪の旅館で年一度A君も加わって開催されています

以下に古い年度順に湖会の写真幾つかを掲載させて頂きます

残っている写真では一番古い1987年当時

1987年の湖柳会

小生が丁度研究財団に出向した時で、後列左からS君、Y君、後で実名の出る波多野君で

3人は既に故人となってしまいました。ktempleは少し髪の毛がありますね!。


1992年当時

1992年当時の湖柳会

諏訪で会が開かれ、諏訪湖畔で撮った写真です。

当時ktemple研究財団に勤めていましたが、毛が薄くなりました。

2003年東京市ヶ谷のグランドヒル市ヶ谷での写真

2003年当時
 奥様方も参加しだした湖柳会。一層毛が薄くなりました。










昨日はさんざんの一日

2016-02-19 11:40:26 | 
昨日は退院して初めて診察を受ける日で

退院してから庭以外の外にでるのは初めてでしたので

病院の駐車場から待合室まで5分程歩くだけでしたが

相当苦しい状態で、「はあはあ」が激しかったですが、暫く休むと直りホットしました。

予約時間が11時になっていたため、10時40分頃病院に着き待ったのですが

何と診察が行われたのは2時過ぎになりました。

その後会計、更に薬局では1時間余で待たされ、家に戻ったのが3時半過ぎでした。

一方診断結果ですが、また少し水が溜まりだしているようで

「はあはあ」はそれが原因で、29日に再診察し、更に水が溜っていると水抜き入院との事です。

今日は家を出て3時間半程椅子に座っていたことになり

1時間置きに30分寝ているこの頃の生活とは大きく異なったのですが

腰が痛くなった他は特に苦痛を感じなかった事で、以外に頑張れるな

とびっくりしました。

そうはい言っても29日までは、今迄の安静生活を続ける予定です。

実はこのブログ昨日書いて掲載しようとしたところ

NTT光回線に変更して初めてインターネット不通という

不愉快な結果にも見舞われたのです。



クリスマスローズの花が開きました

2016-02-17 08:00:53 | 我が家の花
先日古い葉が取り除かれ、今日は暖かい陽を一杯浴びる様になって

クリスマスローズの枝もしっかり伸び、花が開きだしました。

開いた花をうまく撮れればいいのですが、花は下を向いて開いているうえ

腰をかがめて写真を撮ろうとすると、息の「はあはあ」が激しくなりゆっくり撮れません。

そんな状態で撮った出来の悪い写真ですが、掲載させて頂きます

紫のクリスマスローズ


前回ブログで最初に掲載した株

上の写真の右端の花を下から

同じ花を横から撮った方が綺麗?

薄ピンクのクリスマスローズ

薄ピンクのクリスマスローズの株

下から撮った開いた花

黄色のクリスマスローズ

横から撮った花

下から撮った花





残念なOさんの死

2016-02-15 16:30:09 | 仲間
昨日息子さんより日立市に住むOさんが

12日に急逝されたとの連絡を受け、何とも寂しく残念な思いをしている所です。

実はOさんも小生と同じ心不全を大分前から患っておられ

しかも原因がアスペスト吸引ということで心配していた所でした。

Oさんとの出会いは、勤めていた会社の化学プラント事業部に

1963年に製品開発と技術導入の推進、製品の宣伝等を主業務とした

開発課という課が発足した時にOさんと小生は配属となり

小生が研究財団に出向した1978年まで10数年間一緒に仕事をした仲間でした。

課ではOさん以外の仲間は10歳以上年下でしたが

Oさんは今年享年81歳で、84歳の小生とは唯一近い年齢の仲間でした。

この課の課長を小生1972年からつとめたのですが

Oさんには主として宣伝の仕事を担当して頂きました。

Oさんは非常に明るく人付き合いが良い方で、社内の関係個所と常に良い関係を持たれ

色々の仕事が大変スムーズに進み大変有難く感謝していました。

それを示す例として、Oさんが子会社に転属された1992年4月に行われた壮行会には

係長という役職であるにも関わらず、多部門から多数の方が出席されて

盛大な会が開催された事でもそのお人柄がよく分かります。

Oさんの壮行会風景

壮行会当時小生は研究財団に出向しており、会社を離れていましたが

Oさんとの関係が深いということでスピーチをさせられまた。

その時の写真に壮行会の次第が出ていますので掲載させて頂きました。

壮行会式次第をご覧になってください

また開発課のメンバーは男女とも非常に優れた楽しい素敵な方達でしたので

2006年になって、当時の開発課の仲間の集まり「プ開会」が発足し

毎年一泊旅行を含む会が行われており、昨年はOさんは体調不良で参加されませんでしたが

一昨年行われた大内宿の散策を主目的に、袋田の滝、日立海浜公園等を周った旅が

ご一緒した最後の旅になってしまいました。

一昨年の旅で宿泊した福島県母畑温泉八幡屋の前で。帽子をかぶっているのがOさん

Oさんのご冥福をお祈りしながら書かせて頂きました.