末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

あけぼの山農業公園のコスモス

2018-10-30 16:32:32 | 
東尋坊ご紹介の途中ですが、度々ブログに登場している我が家から車で30分程の

柏のオランダ「あけぼの山農業公園」のコスモスを見てきましたので、写真を掲載させて頂きます。

公園の旗

風車の前に拡がるコスモス風景


風車の前に広がるコスモス1

風車の前に広がるコスモス2

風車の前に広がるコスモス3


コスモスの花アップ


近くで見る花の列

白のコスモス

薄黄色のコスモス


濃いピンクに白の縞のあるコスモス

オレンジのコスモス

ピンクのコスモス

終わり

北陸散策 東尋坊その1

2018-10-29 08:24:46 | 友人
ブログを大分長くご無沙汰してしまいましたがお陰様で生きているだけでなく元気です。

ブログ再開させて頂きますので、またよろしくお願いいたします。

13日から19日まで予定通り先ず北陸では東尋坊、芦原温泉、永平寺

そして信州では信州の鎌倉と言われる佐久平の寺院の散策を、家内の3姉妹、3女のご主人と小生の5人で楽しんできました。

今回も3女のご主人の車と運転で、全ての場所を周りましたし、出発と帰宅も我が家からでしたからその点は大変楽でした。

ただ家内以外は小生より10歳以上若く、結構歩く所も多かったのですが、信州のお寺の最後の一か所だけをパスしただけで

後は全部一緒に回りましたから、自分でもびっくりするようでした。

これも雨が降らぬ限り毎日行ってい居る30分の散歩の成果と思っており、

皆さんにも是非一日30分以上の散歩をされるようお勧めしたいです。

ただこういう歩く旅が出来るのもこれが最後かなとは思っています。

以下順次訪れた先についてご報告させて頂きます。

東尋坊

東尋坊の碑

最初に訪れた東尋坊は「国の天然記念物・名勝」、「日本の夕日百選」、「日本の地質百選」などに選ばれており

世界的に見ても稀少な奇勝が広がる福井県を代表する観光地です。

東尋坊という名前の由来

その昔、平泉寺に東尋坊という怪力で乱暴者の僧がいました。

そして彼は美しい姫君に心を奪われ、真柄覚念という僧を恋敵として激しく対立していました。

1182年4月5日のとても天気の良い日に、平泉寺の僧たちは東尋坊を誘い海を見下ろせる崖の上に腰掛けて酒盛りを始めました。

しばらくして東尋坊は酒に酔って横になり、うとうとと眠り始めてしまいます。

その時真柄覚念は、ここぞとばかりに東尋坊を絶壁の上から海へ突き落とそうとします。

東尋坊は我に返り反撃しますが、無念にも崖から真っ逆さまに。

東尋坊が死に絶えると、太陽の輝いていた空は突然黒い雲に覆われ、豪雨と雷で大地は激しく震え始めます。

そして東尋坊の怨念は、自分を殺した真柄覚念をもその絶壁の底へと引きずり込んだそうです。 

以来東尋坊が落とされた4月5日の前後には、毎年烈しい風が吹くと言われています。

それからこの地を「東尋坊」と呼ぶようになったそうです。

遊覧船による東尋坊見学

東尋坊には小生50年以上前に出張の折に立寄り、断崖絶壁には柵が一切ないため怖い断崖の上から

最大25mもある断崖の下に見える青い海を眺めたことがあります。

奇岩

東尋坊には多くの奇岩がありますが、この奇岩の主体は

岩石に沢山の規則正しい平行な割れ目が入っている「板状節理(ばんじょうせつり)」で

マグネシウムの対鉄比率が高い黒色の「輝石安山岩」です。

板状節理

そして奇岩は次の図に示すように東尋坊の岸に沿って展開しています。

海から見た東尋坊

波によって浸食されたビルの高さにすると9階ほどの高さになると言われる様々な奇岩を

上記模型に見られる岩の間を遊覧船が巡り眺めました。

見学航路

遊覧船は上図に示すような航路を、一周約30分で回ります。

観光船

奇岩には上図に示す様に「ハチの巣岩」「夫婦岩」「ローソク岩」

更にまるで東尋坊を座って見守るライオンのような「ライオン岩」と名付けられたものもあります。

これほどの規模を持つものは世界に三箇所だけと言われています。

地質学的に極めて貴重で、東尋坊は国の天然記念物及び名勝に指定されています。

次回にそれ等の奇岩の写真を紹介させて頂きます。
                           終わり






















実家の近所の友人と汽車通の友人

2018-10-11 19:23:32 | 友人
実家の近所の友人

実家の近所の小学校に小生は通わなかったために、実家近所の友人は少なかったのですが

実家から5分以内に長野中学の同期生であった島田君と小林君がいました。

両君とも優秀で長野中学で級長をされたりしました。

島田君は確か神戸に住んでおられたのを父親の実家に疎開されたもので

卒業後はまた神戸に戻られましたが、比較的若い時に亡くなられてしまい残念です。

小林君のお宅は昔庄屋さんであり、今でも表道路添いの門と塀は、大きな藁ぶき屋根のまま残っています。

小林君は小生と同様普通は東京に住んでいて、時々管理に長野の家に帰られています。

小林君の父親は小生の父親と長野中学の同期生、

そして母親は長野女子師範学校で小生の母親の同期生という珍しい関係もありました。

その他の友人としては、一歳年上で長野中学に通っていた同姓の分家の息子一郎さんがいました。

汽車通仲間の友人

我が家から長野中学へは、先ず30分歩いて川中島駅へ、そこから汽車で次の駅長野駅に

長野駅からは電車で善光寺下駅、そこから10分程山道を歩いた場所に長野中学はありました。

この汽車と電車を利用して長野中学に通った同期生も特に仲の良い友人でした。

その仲間としては、川中島駅まで歩く途中に住んでいた池田君と東福寺君

離れた場所に住んでいましたが、同じ汽車や電車で通った大沢君、黒岩君、近藤君、滝沢君

小生と同姓の隆夫君、町田君、宮林君がいました。

この中で珍しいのはお寺の子供さんだった宮林君で、学生時代も何となく僧侶の感じがしていましたが

鎌倉の有名寺院大本山光明寺の法主となられ活躍されました。

高校生時代の汽車通仲間の友人。長野高校にて

後列左から小林君、小生、東福寺君、前列池田君が汽車通仲間で

その横の木俣君、吉沢君は汽車通仲間ではなく同期生です。

高校生時代の汽車通仲間の友人

向かって左から前列宮林君、?君、島田君、後列小生、黒岩君

長野高校卒業後の汽車通仲間の集まり

向かって左から黒岩君、宮林君、近藤君、小生、池田君、東福寺君。

長野高校卒業後の汽車通仲間の集まり。野尻湖にて

向かって左から前列東福寺君、大沢君、池田君、後列小生、月岡君、黒岩君。

なお月岡君のお父上は、海軍の将校で有名だった方だっと記憶します。

残念ながら滝沢君、隆夫君、町田君の入った写真は見当たりませんでした。

また池田君、黒岩君、近藤君、島田君、隆夫君、月岡君、町田君、宮林君は残念ながら既に亡くなってしまいました。

そして心配なのは奥様が亡くなり一人で住んでおられた東福寺君に先程電話すると、電話が通じなくなっている事です。

また北海道に移られた大沢君と多分長野県に住んでおられると思われる滝沢君については

電話番号も分からないため連絡も取れず近況は不明です。元気でいる様祈っています。

なお平成27年9月の資料では、長野高校の同期生の物故者は101名となっており

同期生は200余人でしたから半分は亡くなっています。

小生の年齢の生存者は10人中4人ですから、まあ平均的な状況と言えそうです。

平成14年実家の庭の近所の友人

久し振り近所の仲間が小生の長野の実家に集まり懇談できました。

向かって左から東福寺君、池田君、小林君、小生。早生まれのため一番若い筈の小生が一番老けて見えます。

長野高校通学時の思い出

通学時の朝の汽車は大変混み合っており、川中島駅は長野駅までの最後の駅でしたから乗りこむのが大変でした。

窓から乗ったり、乗り口の手摺りにつかまって、外の風を浴びながら乗っていた時も度々ありました。

学校から善光寺までは10分程で行けましたので、学校の帰りには時々善光寺境内を通って

善光寺から長野駅まで続く大通りに出て、本屋さん等に寄ったりして歩く事もあり懐かしい思い出です。

その他

13日から19日にかけて、長野の家に寄った後東尋坊等北陸海岸を散策。

その後永平寺を参拝し芦原温泉に泊まって帰る予定です。

今度も家内の末の妹のご主人の車で、我が家から出発して帰るまでお世話になりますので楽な旅が出来そうです。

そんな事でブログのコメント書きは明日迄で、その後は暫くお休みさせて頂きますのでよろしく。


転居後の長野の友人

2018-10-08 14:24:10 | 友人
続いた台風や豪雨の影響で被害を受けられた方にお見舞いを申し上げ、

一日も早く復旧されるようお祈りしています。

諏訪から長野への転居

諏訪中学2年の時に終戦。それからの小生は多難の時代を迎えます。

諏訪高等女学校の教頭をしていた父親が、進駐してきた進駐軍により教職を追放され

やむを得ず長野の実家がある当時の長野県更級郡中津村に転居しました。

旧制長野中学・長野高校の友人

転居に伴い長野中学に転校しました。1組50人のクラスが4組ありましたから

このクラスの仲間が次の友人となりました。

中学3・4年の主任は化学の先生の巣山先生で、偶然にも小生の従兄と松本中学の同級生でした。

巣山先生のクラス一同

ktempleは前から4番目の列の向かって右から3番目。

卒業後の同級会での巣山先生

途中から長野高校になり、その時の主任は、国語の先生宮沢先生でした。

宮沢先生のクラス一同

ktempleは後ろから2列目の右から3人目で、右顎が前の帽子に隠れています。

長野高校校舎

長野高校校舎

写真は小生が勉強した教室のあった校舎ですが、今は記念館になっているようで

教室の校舎はこの後ろに建っているようです。

転校してびっくりした事

長野県でも諏訪には独特の方言があり、例えば「君とか貴方」の代わりに「おめえさん」

「私」の代わりに特に女性が「わしゃー」等といっていましたので、転校してびっくりしたのは

長野中学の友の言葉が標準語に近い事と、授業内容も諏訪中学より進んでいたことでした。

長野高校同期会

中学・高校の同期生の大半は卒業後東京に出てきているため、同期会は東京で毎年行われており

時によっては一泊旅行の同期会も行われています。

平成6年巣山先生も出席された同期会

ktemple2列目向かって左から3番目

平成19年同期会

ktemple2列目向かって右から5番目。平成6年より大分老けてきました。

終り

諏訪市の旧制諏訪中学の友人

2018-10-05 15:30:39 | 友人
旧制諏訪中学(現在の清陵高校)には、入学試験に合格した諏訪湖周辺の各市町村からの優秀な友人が沢山いました。

1学年は4クラスで、1クラスは50人位でしたから、同期生は200人位でした。

やはり第二次世界大戦終了の2年目という厳しい時代だけに、中学時代の同期生全員写真はありません。

前にも書いた様に、湖柳町は諏訪市の中でも小さな町でしたが、

一番近所の小さい頃からの遊び友達6人全てが諏訪中学に入りましたし

同じ町内で離れた場所に住んでいたために幼友達では無かった5人も入りましたので

合計11人もの同期生がいました。

11人の同期生の写真はありませんが、湖柳町から当時諏訪中学に通っていた仲間の一部が写っている写真がありました。

湖柳町から当時諏訪中学に通っていた仲間の一部

この中には同期生6人がいますが、既に半分は亡くなってしまいました。ktempleは後列向かって右の端です。

また昭和63年と平成14年に東京で行われた同期会の写真もありました。



この中で名前の分かるのは小生を除いて4人(中2人は亡くなってしまった湖柳会メンバー)です。

なお互励会というのは同期会の名前です。




この写真を見ても苗字の分かる方は小生を除き僅か4名で、中2人は湖柳町の仲間です。

4人中2人(1名は湖柳会メンバー)は亡くなってしまいました.

確かこの後もう一度互例会に出席しましたが、

その時は知っている友人は湖柳会メンバー以外では一人だけでしたので

先日互例会最後の会の開催案内を頂いたのですが、失礼することにしました。

                          終わり