末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

信州の鎌倉 塩田平散策 その1 概要

2013-07-30 19:53:40 | 旅行
以前ブログで少し触れましたが、5月8,9日の二日間にわたり

昔の仲間と信州の鎌倉と呼ばれる塩田平を散策しました。

報告を書こうと思ってはいたのですが、古い文化財ばかりですから

旬の話題にブログネタを譲っている中に忘れてしまいました。

連日の猛暑でブログネタ取りの外出も出来ませんので

この機会に掲載させて頂きます。

素敵な仲間達

今回の旅は、小生が40余年前に会社で最初の課長になった課で

一緒に仕事をした仲間達との楽しい旅でした。

課に入られた時は20歳前後のお嬢さん達も

今では最も若い方でも60歳ですから、お互い歳をとりましたが

年に2度集まり、時々こんな旅をしている素敵な仲間達です。

当初はもう少し多くの方が参加予定でしいたが

当日になると参加出来ない方もでて、最終的には女性4人と男性4人の8人。

2台の車に夫々男女二人づつ乗って

男性の運転で東京から車で往復しました。

小生車での往復は大変かと初め心配したのですが

車中も話が弾み、全く疲れることなく楽しみました。

先ず初めに塩田平について簡単に紹介させて頂きます。

信州の鎌倉″塩田平

場 所

長野県上田市の南西にある数キロ四方の盆地が「塩田平」です。

南には、独鈷山(とっこさん)とそれを主峯とする山脈が連なり

それが別所温泉を抱えるように聳えています。

別所温泉から眺めた独鈷山(一番高い山)と山脈(借り物写真)

これらの山々から湧く清水が幾つかの川になり

最後に千曲川に注いでいます。

塩田平概略図

「塩田平」はこれらの川の流域一帯で

肥沃な土壌と温和な気候とがあいまって、かっては”塩田三万石”といわれ

上田藩の穀倉として重きをなしていました。

文化財の宝庫

塩田平は、全国でも有数な文化財の密集地城として知られており

日本でただ一つしかない八角三重塔(安楽寺・国宝)をはじめとし

八角三重塔(安楽寺・国宝)

中部日本最古の建築といわれる薬師堂(中禅寺・重文)

薬師堂(中禅寺・重文)

重要文化財としては全国に二つしか指定されていない石造多宝塔(常楽寺)

石造多宝塔(常楽寺重要文化財)

”未完成の完成塔”と名で知られる三重塔(前山寺・重文)、

三重塔(前山寺・重文)

信州最古の仏体の一つである”夢殿観音”(長福寺・重文)等、

国宝・重文級の文化財が数多くあります。

これらは、いずれも鎌倉時代から室町時代にかけてつくられたものです。

中世の文化財がこれほど密集しているところは、全国でも稀で、

そのため塩田平は早くから注目をあびる場所となっており、

戦後この地域に「信州の鎌倉」という肩書がつけられました。

今回の旅では上述した”夢殿観音”(長福寺)を除いて

総てを見る事ができました。


塩田平の歴史

後白河法皇の后の荘園

「塩田」という名が、はじめて史料に出てくるのは

平安時代の末期、1174年です。

その頃の大納言藤原経房の日記『吉記』があり

そこに以下の様な塩田平の事が出ています。

「1174年頃、塩田は当時後白河法皇の后であった

建春門院(平清盛の妻の妹)が

1173年に創立した寺の最勝光院の荘園であった。」

最勝光院落成の慶讃会には、

天皇・法王の行幸があったと言われる位の寺でしたから

最勝光院に寄進された荘園は、全国的に見ても富裕で由緒のある所が多く

塩田庄は信濃から選ばれたただ一つの荘園であったことをみても

当時中央でも高く評価された土地と考えられます。

そして最勝光院の別当(世話役)は、東寺が当っていましたから

塩田庄は実際には東寺の支配下になっていました。

北条氏の守護で信州の学海と云われた塩田

源氏にかわって幕府の実権を握ったのは北条氏ですが

北条氏は信濃をとくに重要視しており

北条氏一族の重要人物である北条重時(三代執権泰時の弟)を

とくに信濃の守護に任命しています。

その頃塩田平は、信濃における学問・宗教の一大中心地となっていました。

鎌倉時代、信濃の生んだ名僧で、京都南禅寺の開山となった高僧に

無関普門というお坊さんがおり、その経歴を書いた本の中に

「無関普門が若いころ学んだ塩田は、”信州の学海”といわれ

学問・宗教に志すものは、からかさや本箱を背負って

遠方からたくさんやって来た」と記されています。

それでは具体的にはどこがその勉強の場所になっていたかといいますと

今回見学した後述する長楽寺・常楽寺・安楽寺、中禅寺・前山寺などが

その道場になっていたものと推定されています



我が家の花 7月28日とエンディングノート

2013-07-28 16:08:26 | 我が家の花
今日は我が家の花と

花と全く無関係なエンディングノートについて書きます。

我が家の花

薔 薇

花壇の奥の薔薇。左は未だ蕾のプリンセスドウ モナコ,右は花が開いたサイレントラブ
薔薇の後ろには、時々切っているのですが、相変わらず賑やかに咲くセージ

サイレントラブ

三つ並んで咲くサイレントラブ

サイレントラブが今年2度目の花を開きました。同じ株でも開花後の時間で

次の様に花の感じが違います。

手前の花

奥の花

ミニ薔薇

過日2種類購入した鉢植えのミニ薔薇の一つが2度目の花を開きました。

ミニ薔薇

黄色の薔薇

黄色の薔薇

毎日3~4ケの花を摘み取る程沢山の花をつけた黄色の薔薇

今は新しく伸びた枝にまた咲き出しました。

新しく伸びた枝に咲く黄色の薔薇

時計草

時計草

時計草は蔓がどんどん伸びて伸ばせば2.5米位になり

蕾も10ケついており、毎日人一つの花が開きます。

大きく伸びた時計草

ホウズキ

ホウズキの実の一つが赤く色づきめました。


ホウズキ

花 壇

薔薇の前の花壇は、奥のゼラニュームの花が終わり近くになってきましたが

手前中央のペチュニアを囲んで日々草が

周囲には鶏頭、マンデビラ、マリーゴールド等が賑やかに咲いています。

薔薇の前の花壇の花

新しく加わった白のゼラニュー

白のゼラニュームは今までもありましたが

今度の白は花が密集して咲いています。

新しく加わった白のゼラニュムと鶏頭

花壇左奥に咲いている今までの白のゼラニューム

マンデビラ

マンデビラの花

マンデビラは普通蔓が結構伸びるはずですが

我が家のマンデビラは伸びずに花が咲いています。


背が伸びずに花をつけたマンデビラの株

日々草の花各種



薄いピンク

 
ピンク


ペチュニア藍色小町

藍色小町

一番手前中央に咲くペチュニアは

大分前から咲いていますが、未だ元気です。

相変わらず沢山の花を持つ藍色小町

エンディングノート

エンディングノートは大分前に買ってあったのですが

未だ何も書きこんでいません。

友が亡くなって、そろそろ書かねばと思いました。

この頃字を書くことが少ないため

立派なエンディングノートに書くのは、間違ったりしてはと

中々踏み切れななかったのが実情です。

たまたま昨晩インターネットで「エンディングノート」を調べると

何とエンディングノートを無料でダウンロード出来る下記サイトがありました。

これならPCで自由に書いたり訂正が出来ますから

大変便利ですのでこれを使用する事にします。

皆さんも是非ご利用になっては。

ダウンロード可能なサイト http://shukatsu.nifty.com/endingnote/

昨日はO君の告別式に出席

2013-07-24 14:20:08 | 暮らし

高校の同期・大学の同級生で

社会人になっても親しくしていたO君が17日に亡くなり

昨日告別式が行われたので参列しました。

O君は卒業後関西の化学会社に就職され、工場長になられたり

米国に駐在されたり、最後は子会社の社長になって東京にこられた方で

大変優秀な友でした。

関西におられた時も交際しており、お互いがリタイアーした後では

Oご夫妻が色々とアレンジして下さり、修学院離宮、京都御所

仙洞御所、桂離宮その他の見物を

Oご夫妻と御一緒に家内とさせて頂いた懐かしい思い出もあります。

奥様から大学のクラスメートへの告別式の連絡を頼まれたのですが

告別式には関西から2人、関東から5人が参加してくれ

O君も喜んでくれたと思います。



高校時代の仲間の死亡率はそろそろ50%になりますが

31名だったこのクラスメートは、O君が亡くなっても死亡者は未だ6名で

死亡率は20%以下という元気者揃いです。

昨日も葬儀の後7人で1時間余色々と話し合う事も出来ました。

こんな事もありましたので、ブログ暫く休ませて頂きますので悪しからず。

O君に捧げるため、今日我が家で咲いている花の中から

三つ選んで写真を掲載しました。


旧安田庭園

2013-07-02 08:40:44 | 庭園
江戸東京博物館で開催中の江戸絵画を中心とするコレクションである

「ファインバーグ・コレクション」展を観てきました。

この展覧会の事はまた後で書こうと思っています。

江戸東京博物館には度々行きますが、何時も両国駅から直行しており

付近を散策した事がありません。

そこで両国駅近くで何所か見る所はないかと地図を見ると

結構面白そうな所が沢山あります。

両国駅付近地図

丁度この付近の国技館や江戸東京博物館を撮った写真がインターネットで

見つかりましたので、借用して掲載します。

手前が国技館。その奥の変わった建物が江戸東京博物館

今回は上の地図で国技館のすぐ上にある旧安田庭園が

駅から直ぐ近くにあるという事で行きました。

小さな粗末な入口で、どうかなとちょっと不安になりましたが

中に入ると素敵な庭園でした。

小さな入口

緑濃い庭園内部

回遊式庭園ですから、池をぐるりと見て廻ればよかったのですが

結構疲れる展覧会が後に控えていた事から

ほんの一部を見ただけで写真も少ないので、

またゆっくりと見たいと思っています。

旧安田庭園について

江戸時代の本庄氏(常陸笠間藩主)の下屋敷で

元禄年間に隅田川の水を引いた潮入回遊庭園として築造されました。

明治維新後は、旧備前岡山藩主池田侯の邸となり

明治22年、安田財閥の祖である安田善次郎の所有となりましたが

氏の没後 大正11年に東京市に寄贈されました。

大正12年の関東大震災により殆ど破壊されてしまいましたが市により復元され

昭和2年には市民の庭園として開園しました。

前述したように、かつては隅田川の水を取り入れ

隅田川の干満を利用して眺めの変化を鑑賞する庭園でしたが

隅田川のよごれが園に及ぶようになったため直接の接続は停止されました。

水門跡

現在は園の入口に近い北側の地下貯水槽(貯水量約800トン)を利用し

ポンプにて人工的に潮入が再現されています。

庭園内の様子

小島の浮かぶ心字池を老樹と散策路が囲む構成となっています。

池と島(右)

雪見灯篭が配置されたり、池には鯉、亀、鳥が遊んでいます。

雪見灯篭

亀と鴨

小鳥達も多く、鳥撮りの下手な小生でも鳥撮りが出来ました。

こちらを見ても逃げようともしません

後ろ姿を撮って残念

綺麗な橋もありましたが、そこまで行きませんでした

素敵な散策道ですが、ここから前に進みませんでした

両国公会堂


左に赤い建物とスカイツリーが見えます

上の写真をご覧頂くと、スカイツリーが見えると共に

左側に何だか今の建物ではなさそうなものがあります。

見た時には公園の外の建物かなと思ったのですが、

ブログを書くに当たって調べると両国公会堂という事が分かりました。

両国公会堂について

両国公会堂(当初は本所公会堂)は安田善次郎氏の意思を次いだ遺族が

安田庭園に隣接した地に大正15年(1926)に公会堂を建造し

東京市へ寄附したものです。


両国公会堂(借用写真)

円形を基本としたユニークな建物で、1階はエントランスロビー

2、3階を790席のホール、頂部をドームで覆った鉄筋コンクリート4階建です。

小さな劇場ですが、江東地区の基幹劇場として色々に用いられました。

戦時下を迎えると、公会堂は食料配給所に当てられ

敗戦後には進駐軍のクラブとして接収される等

数奇な運命に翻弄された建築物です。

大正から昭和初期にかけての歴史的建築物が希少となった現在

文化的財産といえる建物です。

昭和43年に大改修工事しましたが老化が進み

平成13年4月使用停止され現在補修工事が行われているようです。


おまけ

町名「横綱」

町名標識

国技館と庭園との間にあったこの町名標識何と読みますか?

小生は国技館の有るところですから、「よこずな」と読みました。

然し調べると「よこあみ」で、江戸時代からの由緒ある地名だそうです。


さて明日から暫く長野の家に出掛けますので、お休みしますのでよろしく。