末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

信州滞在報告

2013-08-31 16:08:56 | 長野の家
今回の長野行きは

小生は7月に奥さんを亡くされた長野に住む友人を慰める会を持つ事と

家内は実母の面倒見の手伝いをする事が主目的でした。

小生も先ず家内の実家に行き2泊し、その後は長野の家に滞在しました。

家内の実家にて

行った翌日久し振りの雨が降って、木々が青々と元気を取り戻しました。

咲いている花は、バラの花と終わり近い桔梗だけでした。
雨で元気を取り戻した実家の庭の木々

バラ

長野の家

MN君を慰める会

奥さんを亡くされたMN君を慰める為、

山登り等を一緒にしているMS君に加わって頂き

先ず長野駅に集まって駅近くのデパートで昼食等を購入し

MS君車で長野の家に行き、横になりながら話合いました。

元気なMN君でしたがやはり奥様が亡くなられて時間が経っておらず

一人の生活を始めているため、精神的に参っている事が感じられ気の毒でした。

その後の小生の大呆け

MN君が帰る時長野の家から車で数分のJRの駅に

MS君に送ってもらったのですが、小生もその車に同乗しました。

というのは小生朝長野に行く時に駅まで自転車で行ったため

それを取りに行くことと、タイヤの空気が抜けていたので

空気入れを持参しなければならなかった為です。

駅についてMS君の帰るのを見送った後気が付いたのは

何と自転車の鍵を忘れた事です。

幸いタクシーがいたので、MN君に千円をお借りして家まで帰りました。

所が運転手さんが釣銭が無いというので、家に入って財布をもって戻り

ついでだからこのまま又駅に戻ってくれるように頼み、少し行った所で

またカギを忘れた事を思い出して引き返してもらい駅に戻ったため

結局車代は1700円になり、運転手さんが恐縮する状態でした。

長野の家の花や木

大分長く雨が降らずに酷暑が続いていたため、

痛んだ木もあるのではと心配していたのですが、

一部に葉が痛んだのが見られた程度で後は問題無くホットしました。

庭木の状態 
痛んでいたのは手前の石の上の木が半分ばかり枯れていた事と
左上に見えるタイサンボクの大きな葉の半分程が痛んでいただけです

上と反対側の土蔵の前から撮った庭の木も皆元気

花壇と草花

花壇は前回と同様バラが隠れる程雑草が茂っていました。

草取りはお願いしてあるのですが、気になって自分で取りました。

花壇には下の写真の様に黄色のキンケイギク、終わりに近い桔梗、

それにクレマチスが咲いていました。

花壇の先には萩が大きく茂っています。

綺麗になった花壇

花壇左隅のクレマチス

花壇右端中央に立つ白の桔梗

花壇以外に咲く花

秋明菊

庭には白の秋明菊があちらこちらにありますが

未だ蕾の状態でした。

秋明菊の群生

秋明菊の蕾

花虎ノ尾

賑やかに咲く花虎ノ尾

花虎ノ尾が賑やかに咲いていました。

花虎の尾の花

夏水仙?

そろそろ花も終わりに近いか、半分は倒れた状態の夏水仙が咲いていました。

半分倒れて咲く夏水仙

夏水仙の花
 



我が家の花 8月19日と成長した孫達

2013-08-19 16:11:48 | 
近く長野の家に行くため、乾燥にどの程度持つか昨夕は水を遣らぬ花壇ですが
3時の暑い時元気に咲いています。

16日の午前に息子夫婦と小5の次女、小3の3女が我が家に来ましたが

私立中3の長男は学校でのハンドボールの部活を終えて午後に

別の私立中1の長女は山中湖での硬式テニス部の合宿を終えて

やはり午後になって山中湖から我が家に来ました。

この二人は疲れてか、我が家に来ると専ら横になって休息。

薔薇サイレントラブがまた花を開きだしました

翌日長男は山中湖での合宿に

長女は学校での部活に出ると言うことで、夕食をとったあと両親と帰りました。

同じ株に白とピンクの花が咲いたかと思ったゼラニュームですが、やはり別株のものでした

下の二人は泊まって翌日の午後帰ったのですが

外で遊んだり、 トランプや

小生が読んでの小倉百人一首のカルタ取りをしたりしており

少し前までは玩具で遊んでいた事を思うと

すっかり成長しており、手がかからなくなりました。

先日白からピンクに色変わりしたのを掲載したゼラニュームですが
新しくピンクがかった白の花が咲き出しました

そして今迄二人だけで電車で帰る時は

家まで小生か家内が一緒に行ったのですが

今回は家内が柏で電車に乗って座れたのを確認して

大宮に迎えに来る息子に電話する事だけで、二人だけで帰りました。 

靴を見ると下の二人も家内の靴と同じ大きさになっており

孫達の成長振りには驚く程で、爺婆も本当に楽になりました。

ピンクのゼラニュームがまた咲きだしました

ただ帰った後、玄関に飾ってあった陶器製の花を見ると

ボール遊びでぶつけられたのか、3つに割れていました。






中禅寺

2013-08-12 16:04:59 | 旅行
昨晩は比較的よく眠れましたので懸案の中善寺を掲載します。

中禅寺は塩野神社からは少し離れた所にあります。

我々が行った頃は境内に桜が咲いていました

ここには後述する国指定重要文化財である阿弥陀堂と

その中ある薬師如来像と神将があるのですが

今回行った時には拝観の受付にも、庫裡にも人がいなく

阿弥陀堂は戸が閉まったままで、薬師如来も拝む事も出来ませんでした。

受付にはこの像だけが

折角ですので、インターネットの「上田市文化財マップ」掲載の

説明写真をお借りして堂と仏像の紹介をする事にします。

中禅寺について 

中禅寺の創建は824~34年の間に

空海が雨乞いの祈祷をする為に草庵を結んだのが始まりと伝えられています。

その後源頼朝、塩田北条氏などに庇護され寺運が隆盛したとも伝えられていますが

1429~41の間と、1665年、1720年とに火災にあい

多くの堂宇、寺宝、記録などを焼失したために

詳細は不明な点が多くなっている様です。

1734年に祐精法印が中興開山し現在の本堂を建立しています。

そして後述する国重要文化財の薬師堂はそれより前の

鎌倉時代初期に建てられた建築物で

中部日本最古の建物と推定されています。

本堂とその付近

中々立派な本堂の写真も撮ってありませんでした。

庫裡と本堂(借用写真)

本堂(借用写真)

以下は多分本堂入り口の写真と思われます。

本堂への入り口付近?

そこに並ぶ石像

こんな仏像も


重要文化財の阿弥陀堂

本堂から少し離れた場所に山門と阿弥陀堂があります。

山門と金剛力士像


山 門

阿弥陀堂の前には山門があり、そこに県宝の木造金剛力士立像があります。

金剛力士立像阿形

金剛力士立像吽形

木造金剛力士立像は、阿形(右)と吽形(左)の二体があり

それぞれ高さが約207cmで、金剛力士像としては小振りですが

全体のバランスが良く、怒りの表情も誇張を抑えた

都風の典雅な感覚が表現されています。

細部では腰帯やポーズの取り方、指の開き方などに

平安後期様式の金剛力士像の特徴があり

12世紀末頃の制作と考えられています。

平安後期の金剛力士像は長野県内はもとより全国的にも数が少なく

当寺院及び当地方の繁栄を具体的に伝える資料として貴重なものです。

山門とその後ろに次の薬師堂(借用写真)

薬師堂(重要文化財)

側面からの薬師堂

本堂かた少し離れた所にある薬師堂は

独鈷山麓標高600mの地点にある

鎌倉時代初期に建てられた方三間阿弥陀堂建築で

建築年代から中部日本最古の建物と推定されています。

建築様式

方三間阿弥陀堂形式で三間四面というのは、東西南北のどちらから見ても

柱が四本立っている建物の事です。

柱と柱の間を「間(けん)」といい、

柱が四本ありますから間は三つあることになります。

そこで東西南北の四面に間が三ずつ有る堂「方三間の堂」と言うわけです。

屋根の様子が分かり易い戸の開いた正面写真(借用写真)

茅葺の屋根は格式ある意匠で、天辺に、少し先のとがった丸い玉(宝珠)

その下に宝珠を載せる四角な台「露盤」があります。

真上から見ると真四角な屋根で、どちらから見ても同じ形の屋根に見え

これを「宝形造り」といっています。

柱は、各面とも四本ずつありますが、扉は正面に三か所

残りの3方に1ケ所ずつあり、あとはみな板を横にはった板壁になっています。

このような建方は、平安時代の終わりごろ行われた形式で

中尊寺の金色堂(1124年建立)などが、その代表的な例です。

Oさんが戸の閉まった薬師堂にお参り中。この写真が柱や戸の様子がよく分かります

堂内の様子

堂のまん中に、「四天柱」といって四本の丸い柱を立て

西側の二本の間に板壁を作り、その前に仏を安置する須弥壇が設けられており

須弥壇の上には、台座の上に座した薬師如来が祀られています。

この須弥壇の位置も中尊寺金色堂に類似する点が多く、平安時代後期から

鎌倉時代初期にかけて建てられた阿弥陀堂建築をよく表しています。

内部の柱と薬師如来座像(借用写真)

薬師如来座像(重要文化財)

薬師如来座像(借用写真)

本尊である薬師如来像は

平安時代末から鎌倉時代初期の定朝様式を伝えるもので

寄木造、桂材で、像高97.8cmです。

薬師如来座像アップ(借用写真)

温和で慈悲に満ち、しかも凛としておかしがたい気品があります。

右手のたなごころを前に向け、左手に薬の壺をのせているのは

薬師如来の形です。

両眼はうすく開いて、下を見下ろし(これを「俯瞰の相」という)

しまった口元も思いなしか我々に話しかけられている様にも見えます。

印象的なのは肩の円い線、ふくよかな胴の張りであり

鼻や、頬の線もおとなしい円やかな曲線を画いておりいかにも和やかです。

頭上の螺髪は小さく整っており、両肩にかかる衣は

流れるように下がって膝を覆うています。

また円形の光背や台座は破損していますが

残されている部分の意匠は見事なものです。

これは中央の「定朝様」をよくこなした

洗練された仏師の手になることを思わせるに充分です。

これらのことから、この仏は「塩田庄」が最勝光院領として成立した藤原末期ごろ

中央から直接入ってきた工人が、中央の流れを忠実に守って

造立した作品と考えられるのです。

神将(重要文化財)

神 将

この堂には、薬師如来像のほかに、像高約68センチの一体の神将があります。

上の堂内写真の薬師如来像の下に見えている像です。

神将というのは、もともと薬師如来の信仰者を守護する役目を

与えられている12の武神のことです。

これらの神将は、その役目の性格から、激しい怒りを全身で表しているものが多く

その面相をみると、髪の毛は「焔髪」といって

焔が風にあおられてもえひるがえったようになっており

目も「瞋目」といって、目尻がつり上り

目玉をむいて相手をにらみつけるような「忿怒相」をとっているのが特徴です。

中禅寺の神将は、その作風から本尊の薬師如来に所属していた十二神将のうちの

一体であろうと想定されていますが、

本尊にくらべてかなり簡素な出来であることは否めず

本当に、はじめから本尊と一組みのものであったかどうか

なお研究を要するところの様です。

惜しいことに両腕を欠いているので、神将の名称は分かリませんが

県下で最も古様を示す神将像として貴重です










信州の鎌倉 その4 塩野神社

2013-08-07 21:12:51 | 旅行
龍光院の近くにある塩野神社は

独鈷山の北の山麓に位置する深い森につつまれた神社で

後述するように1100年以上前に中央でも知られた古い神社です。

鳥居と奥に太鼓橋と社殿

現在は社務所の建物はあっても人はいなく

多分通常は訪れる人も少ない静かな場所にあります。

塩野神社について

塩野神社はかつて水の湧きだす独鈷山の山頂辺近くの鷲岩という

巨岩に祀ってありましたが

後に人里近いこの場所に移されたといわれています。

其の事は塩野神社が水の神様であったことを物語っています。

873年「信濃国塩野の神」に正六位上という位がおくられたという事が

『日本三代実録』という史書に載っており

その50年程後に出た『延喜式」にも塩野神社が載っています。

戦国時代の後期、武田信玄がこの地方全体をその勢力下においた頃

彼は先ず生島足島神社に願文をささげ

次にここに朱印状を奉って武運長久を祈っており

それらの古文書や、60年に一度の「申子祭」で舞われる

「前山三頭獅子」等多くの文化財が伝えられている様です。

次に散策順に建物をご紹介します

神社内建物

神社内建物図

境内入り口、御神木、社務所

境内入り口

境内入口を入って杉・檜の参道を進むと

左側に人のいない社務所、右側に御神木が入った建物があります。

左社務所、右御神木が入っている建物

お仲間がこれは何かと眺めています。

御神木は枯れてしまったのでしょう。大きな木の根元部が

この建物の中にあります。

御神木の入った建物

そこを過ぎると、その先に最初の写真の鳥居

そして塩野川を渡る太鼓橋の神橋があり

その下には独鈷山の清らかな湧き水が滝となって流れています。

それはやがて本流の産川と合流して塩田平を潤しています。

太鼓橋

木造の古いこの太鼓橋、通るのも少し物騒な感じがしていたら

丁度上田市役所の車が来て、降りた二人が橋を点検していました。

太鼓橋

清流

盤 座

太鼓橋を渡りきった右側に、大きな岩が立ち並び

その上に石の祠があります。これを「盤座〔いわくら〕」といいます。

盤座というのは、神がお下りになる岩場のことで神様の御座所です。

盤 座

社 殿

社殿・右拝殿・左本殿

社殿は江戸時代の建築物です。

棟札(棟上げの際、施主・施工者・年月日・工事の由緒などを記して

棟木に打ちつける札)により建築者は上田市房山の名工末野忠兵衛で

拝殿は1743年、本殿は1750年に建てられたと事が分かっています。

末野忠兵衛の一族は上田房山に住み、代々工人として主に社寺建築に精通し

当地方に残した多くの業績は高く評価されています。

なおこの神社には建物の歴史と言える棟札が

文明年間より今日まで30枚そろっているそうです。

拝 殿

社殿にお参りする仲間達

拝殿は間口、奥行共に同じ長さで、楼門造り(二階建で

下層の周囲には高欄付きの縁を廻らすので下層には屋根がない造り)です。

拝 殿

屋根は切妻の銅板葺で、軒の組物などには朱色の色付けがされています。

拝殿二階

なお二階建ての拝殿は県内では珍しく

現在の所県内では諏訪大社と本件が確認されるのみで

建築の形式上貴重な建物です。

拝殿の正面に「勅使殿」の額が掲げてあります。

本 殿

本 殿

本殿は「一間社流〔いっけんしゃなが〕造り」といい

間口、奥行の長さはほぼ同じで

向拝が本殿の正面の階段の上に張り出した庇がついています。

屋根は銅板葺で、軒の垂木だけが朱色に着色されています。

「一間社流造」というのは、正面の柱間が一つである流造をいいます。

即ち正面の柱が左右両側に2本ある流れ造りです。

ここでいう「一間」は長さの単位ではなく、柱間の数をいいます。

また流れ造りとは、神社本殿形式では最も多いもので、

切妻造りの平入り(建物の平すなわち大棟と平行な面に出入り口のあるもの)で

屋根前面の流れが長く延びて向拝(こうはい)となっているもので

平安時代にできたものです。

本殿彫刻

本殿は特に彫刻の美しさが目を引きます。

写真では分かりませんが、小脇の壁には上り竜、下り竜の透し彫りが

各所に雲、天女、寅、牡丹、龍等の彫刻が施され

18世紀中頃の様式をよく備えた建物として、

当地方に残る代表的建築物です。

彫刻一部(借用写真)






信州の鎌倉 その3 龍光院

2013-08-04 16:50:04 | 旅行
前山寺の後は塩田の館で予定外の食事をしましたが

ここについては後で書くことにして、次の龍光院に移ります。

前山寺―塩田の館―龍光院は歩いても行ける程の場所にありますが

今回は車で移動しました。

今調べると途中には塩田平にとっては重要な塩田城址もありますが

塩田城址の碑(借用写真)

それも気が付かずに過ぎてしまいました。

また龍光院の入り口には大きな欅の木がある黒門があり

そこからは歩くと本堂まで300米の登り坂で中々情緒のある参道の様ですが

今回そこでは降りずに横の車道で本堂近くまで行きましたので

その間についてはお借りした写真で説明します。

龍光院(山号宝珠山)について

龍光院の創建は1282年に塩田城主塩田北条国時が

父である義政の菩提を弔う為に龍光院の前身・仙乗寺を開山したのが

始まりと伝えられています。

前にも触れましたが、北条義政は

鎌倉幕府第三代執権北条泰時の弟重時の第3子で

幕府の連署(れんしょ)という大切な位置にあリましたが

1277年に出家し塩田の地に移り住み、4年後の1281年に40歳で亡くなりました。

そして塩田北条氏は三代五十余年この地で栄えましたが

1333年に新田義貞が鎌倉を攻めた時塩田一族も応戦に馳せ参じたものの

甲斐も無く悲しい最後を遂げました。

このため塩田北条氏が隆盛時にはこの寺は栄えましたが

その後一族が滅んだために衰退します。

1601年に同じ信州にある萬照寺六世瑞応が中興開山し

当初の寺号だった仙乗寺を龍光院と改め曹洞宗の禅寺としました。

龍光院のホームページも無く資料も少ないので

以下建物は写真だけで説明が無いのが多いですがお許し下さい。

黒 門

黒門と欅と杉の大木(借用写真)

前述したように黒門は車で通過してしまいましたが

門の脇には推定樹齢300年以上の立派な欅が

その隣には大杉も聳えています。

ここから本堂へ続く参道300米はきつい登り道ですが趣があり

途中には義政公の墓があります。

お開基様

碑文が削り取られた義政公の墓(借用写真)

「お開基様」と云われる石塔が

塩田平を一望におさめる所に建てられています。

初代塩田北条義政公の墓と伝えられていますが

北條氏滅亡の後後難を恐れてか、碑文は削り取られています。

なお塩田城跡には国時、俊時父子の供養塔がある様です。


さて我々は車を降りて進むと本堂前に山門があります。

本堂前の山門

本堂前の山門お仲間達

上の写真の左にある北条氏菩提寺の石碑

上の写真のお仲間幸い後ろ姿ですからご紹介しますと

小生が乗せて頂いた車を運転して下さったTさんと

女性のNさんとOさんです。

人のいない門の写真をお借りして掲載します。

山門(借用写真)

門を入ると目の前に本堂とその手前左の座禅堂が目に入ります。

そして本堂屋根棟には北条氏の定紋である「三ツ鱗」が飾られており

その由緒を語っています。


正面本堂。左座禅堂

三ツ鱗の紋

観世音堂

観世音堂(借用写真)

門を入った左側の山の中腹に観世音堂があります。

境内に入ると同行女性4人は早速この堂に上り前に並びましたので

小生早速写真を撮りましたが、堂だけの写真はありませんでした。

羅漢堂

羅漢堂

入って直ぐ右側にある八角の堂の羅漢堂内には、釈迦如来を中心に

阿難尊者,迦諾迦伐磋損者,迦葉尊などが安置されています

鐘 楼

鐘 楼

羅漢堂の左には鐘楼があります。

座禅堂

座禅堂

上にも見えた立派な座禅堂が左側にあります

本 堂

入り口上部には立派な扁額があり、中央の部屋に祭壇

周囲の部屋には立派な屏風や襖絵があります。

扁 額

祭 壇

祭壇内の仏像

襖絵のある部屋

紙本花鳥人物屏風

寺宝で上田市の指定文化財である狩野永琳の描いた屏風があります。

四季の花鳥と七賢人が六曲一双の十二枚に描かれた大作で

江戸後期の狩野派の画風をよく現しており、永琳の代表作といわれています。

永琳は1767年に前山の保科弥惣右ヱ門の二男として生まれました。

江戸に上り狩野高信の門に入りましたが、師の信頼が厚く

師に代わって京都御所に龍を描き、その完成間近に同僚にねたまれ

1806年にに毒殺され41歳で非業の最期をとげたといわれています。

紙本花鳥人物屏風

屏風の前にある説明書によるとこの屏風は

花鳥8枚、人物4枚計12枚の絵を六曲一双の屏風に仕立てた物で

写真はその中の片側です。

屏風は両端に花鳥、その内側に人物を向き合わせ

中央の2枚は共に同じ季節の草花や鳥や蝶を描いています。

人物は中国の「竹林の七賢人」のうち四人を描いたものの様です。

可愛らしい地蔵さん達

中央の地蔵さん

境内奥の山の斜面に、中央の地蔵さんを中心に

その周囲に沢山の子供の姿をした十二支の名のついた

可愛らしい地蔵さんがありましたのでその幾つかを掲載します。


申歳地蔵

寅歳地蔵

午歳地蔵

辰歳地蔵

戌歳地蔵


龍光院終わり



















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