goo blog サービス終了のお知らせ 

末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

松龍寺

2014-03-18 19:16:00 | 
松戸で河津桜を見たあと、近くの寺社に立ち寄りましたので、

先ず訪れた松龍寺をご紹介します。

山門手前から見た松龍寺。左手前に六地蔵

六地蔵

まず目に入ったのは六地蔵さんです。

六地蔵

少し珍しかったのは、ここの六地蔵さんは屋根の下に並んでいることでした。

山 門

その先には堂々とした山門があり、山門の両扉には葵の御紋が見えましたので、

何か謂れがあるかと家に帰ってこの寺について調べてみると

後述するようにある時期にはこの寺は寺勢を誇りましたが

再度の火災で寺の殆どを焼失してしまいました。

そしてこのが山門のみ焼失を逃れ往時の面影を残しているとの事です。

廣大山の山号を掲げる山門

扉の葵の御紋

松龍寺について

小さな本堂

浄土宗の寺で本尊は阿弥陀三尊です。

1613年に建立・開山された当時、この辺一帯を境内とする広大な敷地は

大きな松が聳える高台にあって、とても景色の良い所であった様です。

そのため将軍家の鹿狩りの際、八代吉宗、十一代家斉、十二代家慶などが

松龍寺を休憩場所として使ったために葵の御紋の使用を許されたという事です。

観音堂

観音堂

山門から入って左側にある観音堂は、

1784年に、籾殻塚(すぐもずか)稲荷の境内の籾殻から聖観世音菩薩が現れ、

その後こちらに祀られたといわれるお堂です。

この籾殻観音は江戸時代から松戸宿の人々の信仰を集め現在に続いており

8月10日は観音様の縁日「四万六千日」にあたり、とうもろこし市が開かれ

多くお参りの人出がある様です。

実は観音経の一節に「観音様の力を念ずれば雷たちまち退散する」とあり、

観音様は雷除けにもご利益があるとされています。

そして赤く種の多いものは「雷除け」になると言われ、

昔は赤かった種の多い「とうもろこし」を売る市が立ったとのことです。

とうもろこし市が立つ縁日には献灯が行なわれたという昔からの言い伝えにちなんで

現在では「献灯まつり」が行われており

坂川の流れに沿って多数の行灯や提灯を並べ、自然の恵みや坂川を開いた先人たちに感謝の気持ちを表すとともに

「とうもろこし市」、新たにとうろう流しなどが行なわれている様です。




信州の鎌倉 その10 安楽寺 その3 八角三重塔の外部

2014-01-30 16:42:14 | 
安楽寺で最後にご紹介するのは国宝八角三重塔です。

この塔は何度か見学していますが、何度行ってもその美しさに見惚れる塔です。

日本に残っている唯一の八角塔

八角三重塔は安楽寺背後の山腹にある鎌倉末期に建立された純粋の禅宗様建築の塔で

八角の塔としは日本に残っている唯一の貴重なものです。

このため長野県では一番早く国宝に指定されました。

八角の塔が日本で残っているのはこの塔だけですが、中国では塔は八角が通例です。 

禅宗は中国から中世に日本に入ってきた宗教であり、

安楽寺の開山、二世は中国に関係の深い方で

特に二世の恵仁さんは中国生まれであったことから

恵仁さんが故国の意匠を取り入れて造営したと思われます。

八角三重塔の外観

本堂左手の道を上っていくと、前方の見上げるようなところに、

八角三重の塔のすばらしい姿を見ることが出来ます。

林を通して見る八角三重塔

昼なお暗いような檜・杉の木立の中の坂道を、この塔を仰ぎながら上っていくと、

厳かで気高いものを感じます。

側に行って塔を見上げると、どっしりした落ちつきがある塔です。

近くから見上げた八角三重塔

塔横の山腹から見下ろした八角三重塔

頂上には相輪が聳え、各層の屋根の下には、

華やかな「木組〔きぐ〕み」がぎっしりと詰まっています。

それらが、この塔に何ともいえない上品さと華やかさを与えています。

塔は一見四重の塔に見えますが、実は建築学上、

一番下の屋根は裳階〔もこし=ひさしまたは霜よけの類)をつけた珍しい形式で、

正確には「裳階付き木造八角三重塔」で、略して「八角三重塔」と言っています。

建立年代は、調査の結果三重塔用材の伐採年代は1289年ということが判明したため

少なくとも1290年代には建立されたことが明らかとなったわが国最古の禅宗様建築です。

以下禅宗様式の特徴である木組みをみることにします。

禅宗様式を示す木組み

扇垂木(おうぎたるき)

扇垂木

屋根の下に張り出した垂木を見ると、皆扇の骨のように放射線状に外側に拡がっており、

これを扇垂木といい禅宗様式特有のものです。

なお垂木とは、屋根板,あるいは屋根下地材を直接支えるために,

棟から外周の軸組に斜めに架け渡された部材の事です。

詰組(つめぐみ)と弓形連子(れんじ)

詰組の様子

各層の屋根の下には、ぎっしりと木を組んであるのが見えます。

和様では組物は柱の上だけにあるのが普通ですが、

ここでは柱の上とその間にも入っており、いっぱいに詰まって見えます。

これを「詰組」といって、庇をできるだけ外に張り出すため工夫されたもので、

やはり禅宗様式の特徴です。

このような木組みがあるため、この塔の軒は思いきって外まで張り出すことが出来、

雨だれが塔の根元に当たることを防いでくれているのです。

その上に「木組み」そのものが美しい「工芸の美」となっています。

また上の写真の一番下に縦の線が見えますがこれは弓の様な形をした縦線で、

横に帯の様に並んでいます。これを「弓形連子」と言い

空気の流通をよくするための隙間になっています。これも禅宗様式です。

連子窓

一、二、三層には縁や手摺がありません。

また扉もなく二層・三層には窓が八つずつ開いています。

このような窓を「連子窓」といい、禅宗様式の建物に特別にあるものです。

連子窓


ご挨拶

実は今日小生82歳の誕生日を迎えました。

人生50年と言われた時代に生まれた小生ですが

今や男子の平均寿命は79.94歳と大幅に増え、しかも小生はそれを遙かに超す状態で、

ただ馬齢を重ねているだけで恥ずかしい思いです。

幸いなことにこのブログを書くことにとり皆様からの暖かいコメントを頂いたり

また皆様の素敵なブログを拝見させて頂き色々の知識を得たり

勝手なコメントを書かせて頂いていることが日々の生き甲斐の一つになっています。

爺さんこの頃ボケ出していますので、皆さんへのコメントがピントはずれであったり、

失礼な事を書くこともあると思いますが

「爺さんボケたな!」と言うことでお許しいただければ幸いです。

どうぞこれからもブログを通じてのご厚誼を賜りますよう宜しくお願い致します。

また我が家では家内が健康で、何でもてきぱきと処理してくれていますので

日々の暮らしが順調に行われており、家内に感謝です。


信州の鎌倉 その8 安楽寺 その1 黒門から本堂へ

2014-01-23 18:17:20 | 
別所温泉で泊まった翌日の散策コースは次のとおりでした。

安楽寺―常楽寺-大法寺-塩田の館―生島足島神社―無言館

コース順にご紹介することにします。

安楽寺 

安楽寺は禅宗としては鎌倉の建長寺と並んで

日本では最も古い臨済禅宗寺院の一つです。

この寺の記録が見えてくるのは鎌倉前期からで、

建長寺の開山として有名な蘭渓道隆が別所安楽寺方丈に宛てた手紙に

「建長寺は鎌倉で、安楽寺は塩田で夫々100人、50人の僧の修行場となっている」

という意味の事を記しています。

この事からも安楽寺は鎌倉時代中期すでに相当の規模をもった禅寺であり、

信州学海の中心道場であったことが伺われます。

塩田北条氏の庇護によって栄え、多くの学僧を育てていたこの寺も、

北条氏滅亡(1333年)後は寺運も傾いて正確な記録は残っていませんが、

国宝八角三重塔をはじめ、重要文化財等数多くの鎌倉時代の文化遺産を蔵し

信州最古の禅寺の面影を残しています。

見学順

安楽寺境内の主要な建物等は下記の図の通りで、

今回は黒門ー弁天堂ー山門を経て上の方に上り

八角三重塔まで行きましたので、順次ご紹介します。

安楽寺建物等の位置図

黒 門

黒 門

安楽寺境内の入口になるこの門の扁額に見られる

崇福山は安楽寺の山号です。江戸時代の1792年に建てられた門です。

弁天堂

弁天堂

七福神のお一人で、音楽・弁才・財福・智慧のをそなえた

天女弁才天をお祀りするお堂です。

まだこのあたりは境内という感じがあまりしない所でした。

山 門

木立に囲まれた山門前の道
杉・あすなろなどの木立の中に見える階段と山門は

これから寺内に入るという感じを起こさせる風景です。


階段と山門

十六羅漢堂

十六羅漢堂

十六羅漢を祀るお堂です。

禅宗では、仏法護持の尊者として、山門の楼上又は羅漢堂にまつる習わしがあります。

なお羅漢は、煩悩を全て断滅して最高の境地に達した修業者で、

十六羅漢、五百羅漢等の尊称で親しまれています。


十六羅漢

十六羅漢と七尊の一部

四国八十八カ所礼所勧請仏の七尊

上の十六羅漢の写真の最後部にあるのが七尊です。

江戸時代の1693年に塩田組の庄屋が合議発願して、

村むらの勧募により、四国八十八カ所の礼所の尊像を京都の仏師に依頼して制作し、

塩田の寺堂に数躰ずつ勧請奉安し、居ながらにして身近な巡礼により、

四国八十八カ所礼所巡拝の功徳にあずかるようにしたものです。

鐘 楼

鐘 楼
  
1769年の建立で、和様・禅宗様の折衷様式からなり、

袴腰鐘楼(袴のような覆いのある鐘楼)としては、当地方最大級のものです。

江戸時代の古鐘は、太平洋戦争中に金属供出に供されましたので、

現在の鐘は昭和32年に鋳造されたものです。

鐘楼のアップ

本 堂

本堂

昔の茅葺き屋根の形そのままを残した落ち着きのある佇まいを醸し出しています。

本堂にお参りするお仲間達

ご本尊は釈迦牟尼仏(お釈迦様)。脇侍に文殊・普賢の各菩薩がお祀りされています。

本堂内部











深大寺通りと蕎麦

2013-06-26 15:20:29 | 
深大寺山門の階段を下りると、そこは深大寺通りです。

その周辺は、武蔵野の雑木林と湧水が流れる環境が今も残っています。

深大寺通りの風景

蕎麦屋や土産物屋が並ぶ通り

雑木林に囲まれた道。この右のお店で蕎麦を食べました

観光客で賑わう通り

湧き水の風景

通りには湧き水の亀島弁財天池があったり、小さな滝もあったりで

この付近の湧き水の多さが伺えます。

亀島弁財天池

小さな滝

丁度昼時となったので、上の写真の蕎麦屋さんに入りました。

先ず深大寺蕎麦について簡単にご紹介します。

深大寺蕎麦について

深大寺の名物といえば一にも二にもお蕎麦ですが

江戸時代初期「元禄」のころ、天台宗の関東総本山である上野寛永寺の

門主第五世公弁法親王にお蕎麦を献上し

大変気に入られて以来「献上そば」とも言われ珍重されたようです。

また三代将軍家光が鷹狩りの際に立ち寄り

ことのほか称賛し推奨されたともいわれています。 

深大寺周辺は気温が低く、米や小麦などはあまり収穫できない土地でしたが

お蕎麦の栽培に適した土壌でした。

そして多くある湧水は非常に冷たく、ゆでた蕎麦を引き締めるのには最適でした。

しかし時代と共にお蕎麦を栽培する環境では無くなってしまった事と

大勢の観光客に対応する量はもはや収穫でなくなっているために

残念ながら現在のお蕎麦屋さんでは深大寺産のお蕎麦は使われていません。

 
現在二十数件のお蕎麦屋さんが軒を連ねている様です。

蕎麦屋さんと食べた蕎麦

この蕎麦屋さん人気か結構中にも客がいました。

先客が入る蕎麦屋さん入口

この蕎麦屋さんには水車も

看板メニューは、十割蕎麦。ぽそぽそしているか少し心配でしたが

そんな事は全くなく美味しい蕎麦で満足しました。

十割蕎麦

蕎麦を食べ終わって、再び山門まで戻り右に曲がると

やはり蕎麦屋さんがあり、その前に面白い石像がありました。

面白い石像1

面白い石像2

そしてその先に鬼太郎茶屋がありました。

鬼太郎茶屋

鬼太郎茶屋

以前朝のNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」を

ご覧になった方は多いと思いますが

漫画家・水木しげるさんは1959年来調布に住んでおられ

長年の市への貢献などから、2008年には調布市名誉市民に選ばれています。

2003年には深大寺の門前に「鬼太郎茶屋」が開店しました。

茶屋の前には鬼太郎とねずみ男の巨大フィギュアがあり

屋根には大きな下駄が載っていました。

鬼太郎茶屋右側の妖怪喫茶や妖怪ギャラリー入り口

1階には妖怪ショプがあり、沢山の妖怪グッスが売られており

妖怪喫茶では妖怪メニューが食べられます。

2階の妖怪ギャラリーでは水木しげるさんが描いた妖怪画や

妖怪のフィギュアが展示されています。

残念ながら今回は外を眺めただけに終わりました。

ただ横の庭を覗くと妖怪がいました。

庭の妖怪

庭の妖怪達

左側の妖怪

右側の妖怪

飛び飛びの掲載になりましたが、これで神代植物園と深大寺散策は終りです。

最後に改めて素敵な散策をご案内頂いたO夫妻に感謝したいと思います。




深大寺 その2

2013-06-21 19:08:31 | 
本堂周辺

次の写真は山門近くから撮った本堂の写真です。

本堂とその周辺

常香楼

上の写真の一番手前にあるのが、常香楼です。

1833年に建立されたもので、元は大師堂前にあり

幕末の大火では山門と共に焼け残った建物ですが

大師堂の火で焼かれたきず跡が北側に残っています。

常香楼(借用写真)

屋根中央に金色真鋳鋳物の宝珠を乗せ

四隅の降棟の先には金色真鋳鋳物の鳳凰の頭を付けており

内側には、焼香炉が置かれています。

ムクロジの木

本堂向かって右手前に巨木が聳えているのが見ますがこれはムクロジの木で

湧き水の地に多い樹木です。

この実の果皮をこすると石鹸のようによく泡立つので

洗濯などに広く利用されたものです。

またその実は非常に硬く、羽根突きに使う羽根の根元や数珠玉として

使用されているそうです。

鐘 楼

鐘 楼

1829年に建てられた旧鐘楼は、今の大師堂裏の高台にあり

慶応の大火で焼け落ち、現在の鐘楼は1870年に再建されたものです。

基壇上には、反響用の瓶を埋め、多孔の鉄板を蓋としてかぶせてあります。

梵鐘は1376年に鋳造されたもので、都内では三番目に古く

国の重要文化財に指定されています。

平成になってヒビが入り、今は鐘楼からおろして釈迦堂に安置されており

現在あるものは平成13年に新たに鋳造されたものです。

なお昭和天皇が摂政時代に深大寺を訪れられ

「古いものは大切にするがよい」とおっしゃられために

戦時中にも徴発を免れたといわれています。

釈迦堂

釈迦堂

釈迦堂は新しい建物でしたので、遠くから写真を撮っただけでしたが

今調べると立派な白鳳仏が安置されているお堂と云う事が分かり残念です。

このお堂は重要文化財の「銅造釈迦如来倚像(白鳳仏)」を安置する堂宇として

昭和51年に新築された鉄筋コンクリート造りです。

湿気の多い土地対策として高床式に作られており

屋根は方形造りの銅板葺きで頂部に露盤・宝珠があります。

釈迦如来像(白鳳仏)

釈迦如来像(白鳳仏)は、全高83.9㎝、坐高59.3㎝と大型の金銅仏で

7世紀末の製作とみられ、白鳳時代であることから白鳳仏と呼ばれています。

関東を代表する金銅仏で、1909年に元三大師堂の壇下から見出されたものです。

釈迦如来像(借用写真)

この像は金銅釈迦如来倚像ともいわれており

深大寺明細帖には「立像にあらず 座像にあらず」と記されています。

また前述した様に内部には白鳳仏とならび重要文化財として指定されている

旧梵鐘も安置されています。


なお重要な建物として本尊に本尊に薬師如来三尊を安置し

開基満功上人、天台宗一祖恵亮和尚の尊像を祀っている開山堂や

秘仏深沙大王像が安置されている深沙大王堂等がありますが

知らずに写真も撮ってありませんでした。

石 像

前回の案内図には出ていない地蔵さんの石像が本堂から山門に来る間にあり

写真3枚ありましたので掲載します。

地蔵の名前は読める範囲でつけたのものです。

なおこのお寺にはこのような石像がこの他にも沢山あるようです。

翠子地蔵大菩薩

南無延命地蔵菩薩

観世音菩薩


山 門

境内を出て下の深大寺通りから見上げた山門

この山門は1695年に建てられたもので、

火災の被災をまぬがれた深大寺では最も古い建造物です。

近くから見た山門(借用写真)

柱、組材などはケヤキで赤く塗られ、屋根裏板・垂木などは黒く塗られています。

形式は、主柱を立てて扉を付け、後方に細い控え柱を立てた

薬医門とよばれるものです。

柱、梁、組物などの材はケヤキ。屋根は切妻の茅葺きです。

山内唯一の彩色された建物です。

以上で深大寺の説明は終り、次回は深大寺通り風景と深大寺蕎麦です。