十数年にもわたる、山口県光市の母子殺害事件の裁判がついに決着をむかえた。
事件当時少年だった被告への死刑判決が確定した。
少年犯罪というだけで、ここまで刑に対する議論がこじれるとは思わなかっただろう。とある国会議員が、死刑廃止の立場をとっているらしく、「国が人の命を奪うことは良くない」などと言っているが、どうなのだろう?立場上そう言っているだけなのかもしれないが。
もしも自分の愛する家族を、年端のいかない少年にその命を奪われ、なおかつ、そのことに対する反省が本人になく、あれやこれや理由をつけて刑を軽くする振る舞いをずっと見せつけられたとしたら。怒りを覚えないどころか、そんな少年を許し見守ってやりたいと思うものは、よほどのお人好し、もしくはヒューマニズムなのか、あるいは無慈悲なまでに達観した人間かのどちらかだろう。だからといって、声高に報復(この場合は、死刑)を訴えるのもどうかと思う。
死刑を回避する意見からは、犠牲になった人の分まで生きてもらって、心からの反省と更生を期待、ということと、とにかく国家が人の命を奪うことはまかりならん、少年の未来を国家が絶ってはならん、というオーラを強く出していたように感じた。死んだら終わり、それは当たり前のことだが、しかし、最初に無慈悲に命を奪われた母子にはなんの心もいかなかったのだろうか?
そもそもの事件の本質を忘れてしまってはいけない。少年事件、死刑問題など、気が付けば事件以外の要素に振り回された感があるが、最終的には、性善説vs性悪説の果てし無き戦いのひとつの結果だったようにも思う。
ぼくは、そう思う。それに異論を唱える人がいても、それは構わない。
前回、といってももう5年以上も前だが、この事件をテーマにしたブログで、「かちかち山」のはなしを取り上げたが、そのラストは、うさぎが敵討ちしたことに対し、残されたたおじいさんが一言「虚しさが残るだけ」、と書いた。残されたご主人(ぼくとほぼ同じ年の方)の堂々たる態度、そして、「事件が起きただけで誰もが敗者だ」というコメントが非常に印象に残った。
悲しいけれど、これが一番的を射た言葉だと思う。
同じ立場にもしも自分が立ったとして、こんな言葉が出てくるだろうか・・・とにもかくにも、長い間お疲れさまでした。
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