雨の降る日曜日、ぼくは久しぶりに秋葉原へ行ってきました。
例の通り魔事件の現場は、歩行者天国でなくなった以外は、前回訪れたときとかわらず、大勢の人が行き来していました。TVでみた、あの光景がこの地で起きたことが信じられないくらいに。
しかし、事件の痕跡はしっかりと残っていました。
交差点の一角に、犠牲者を悼む献花台がありました(TVで報道されていたときの反対側)。たくさんの花束、飲料水が供えられ、中にはプラモデルやコミック誌なんてのもあり、いかにも秋葉原らしい、といえばそうかもしれない。
そうしたものを何も用意しなかったぼくは、献花台で手を合わせ、犠牲者達の冥福を祈ることしかできませんでした。終えてふと見ると、隣にいた見ず知らずの何人かが同じように手を合わせていました。
事件から2週間経ち、その間にもまた大きな事件があり、そんな中で、識者たちの事件に関する分析等を読むと、そうだろうなと思う一方、そんなに簡単に片づけられるのかと、少々疑問になる内容でもあり、事件や時代の複雑さを浮き彫りにしている。
容疑者は精神的にはおそらく未熟で、人付き合いが下手ゆえにネットに依存するようになり、犯行を心に決めながらも誰か停めてくれる人を期待していたのだろう。成績が下がって以来「ずっと負け組」と言い続け、職場での些細なトラブルに過剰反応し、その反動で「勝ち組はみんな敵」という妄想といおうか、自分勝手な思いが自己を抑えきれず、事件を引き起こしたのではないか・・・。
その一方で、社会的背景をみれば、同世代による殺傷やバスジャックといった凶悪事件の影響もあり、事件を起こすことによって自分も社会的に認めてもらいたい、という思いも一つの要因かと・・・。
と、ここまで書いておいて、「だから・・・」と安易に決めつけたくない。それは頭でわかっていても、ぼくなども「あいつは○○な奴だ」と、勝手に判断してしまうところがあり、そのために相手を傷つけ、ときに嫌われることだってある。しかしどんな理由や原因があったにせよ、「人をあやめた」事実は動かしようがない。そのことを容疑者は、自分に課せられた「重い十字架」として今後背負っていかなければならないだろう。
かつて全国を震撼させた、「幼女連続誘拐殺人事件」の容疑者、宮崎勤死刑囚の刑執行が先週行われた。事件の異常さもさることながら、裁判中から不可解な発言を繰り返し、精神鑑定まで行われ、責任能力ありとされながら、それでも被害者遺族への謝罪もなく、刑執行された。彼はもしかすると、自分が「重い十字架」を背負っていることすら気づいてなかったのかもしれない。
なんともやりきれない時代の中、これ以上の悲劇が起きないことを祈りつつ、明日もまた生きる。