近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
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平成29年7月3日石川淳「佳人」研究発表

2017-07-03 23:12:33 | Weblog
こんにちは。7月3日に行われました石川淳「佳人」研究発表についてご報告させていただきます。
発表者は4年小玉さん、2年堤さん、1年星くんです。司会は3年吉野が務めさせていただきました。

「佳人」は石川淳の処女作とされ、発表当時は牧野信一に絶賛された作品です。
先行研究では「小説の小説」であることや、転向小説との関係など様々な角度から分析されています。
特に語り手「わたし」を中心に「見立て」の分析や他の登場人物との関係性に着目した論なども多く見られました。
しかし作品論においても作家「石川淳」という存在が読まれている論が多い作品でもあります。

今回の発表は、副題を「他者に開かれる『わたし』」として、「石川淳」という作家の枠組みを外したうえで、
同時代性を帯びたテクストとしての読み方と、<わたし>という表現主体の在り方を同時に捉えようという試みでした。
発表者は、語り手は「わたし」の物語に文学的トポスである「武蔵野」や義兄の左翼化や母というモチーフの設定の仕方がプロレタリア文学に通じることなどから、既成の文学、当時流行した文学への寓意、またそれに対する批判が読み取れることを指摘しました。しかし語り手「わたし」は「わたし」自身を語ることで既成文学を批判し新たな文学を目指そうとする「わたし」の姿勢そのものを批判してしまったり、手帳を書いた「わたし」とそれを読む「わたし」を語ることによって質的な変化をするなど、流動的な存在であると論じました。
また、ユラという存在に着目し、臍を発見した感動をユラに伝えようとするところから書き始められることや、臍の発見後以降はユラへの愛情について述べることから、ユラという存在が文章上の転換点をなしていると考えました。そして、物語終盤近くでは「眇たる大海の一粟といつたやうな感慨でいっぱいに」なるほど無力感を感じた「わたし」がミサの言葉によって物語を続けることで、「睡眠欲」「食欲」「性欲」という原始的な欲求が描き出され、生理的欲求に抵抗する知識人「わたし」の挫折が書き込まれていくと指摘しました。
そして、書く行為に自覚的な「わたし」は書かれた文章は常に決定不可能であるということを、物語を書くことで感得していき、要所で物語を進行させる他者(ユラ・ミサ)は書き手「わたし」の統御外の存在であるため、「わたし」は「わたし」内にのみ向いていた眼を外部へ向けざるを得ない。また「わたし」自身も流動するために了解不可能な他者であり、叙述をし終えた語り手「わたし」はつねにすでに他者に開かれているのである。「佳人」は他者として常に「わたし」の周囲に存在し続けていたのだと考えられます。


質疑応答では、語り手「わたし」の変容が、語り手「わたし」の統御の外にあるほかの登場人物の台詞などからも読めるのではないか、
逆にほかの登場人物の台詞も語り手「わたし」が選んだものなのではないかなどの議論が最初に行われました。
ユラが悪態で言ったと思われる「気ちがい」という言葉をピックアップしているのは語り手「わたし」であり、他者が正常であるという自覚、つまり他者意識に基づいているのではないかというご指摘を岡崎先生から頂きました。
また、岡崎先生からは、石川淳が研究していたアンドレ・ジッドの、「贋金づくり」に見られる「書いているわたし⇔生活者としてのわたし」を描く純粋小説の試みがこの小説にも関わっているというご指摘もいただきました。
また、質疑応答の後半では、「わたし」がミサと抱き合ったところで「叙述」が停止していることに注目が集まりました。
「わたし」が語りたかったのは濱村とユラの関係、それによって「わたし」がミサへ性欲を抱いたことではないか、老女を書こうとしたのに「わたし」とその周囲を語ってしまったので「叙述」となってしまったのではないかなどの意見が集まりました。
また、語る「わたし」は発表者のまとめで指摘されているほど安定した場所に到達できたのかなどという指摘が出ました。岡崎先生からは、決着を提示しない物語であること、その達成不可能性が現代小説の端緒であるのではないかという補足を頂きました。


他にも「わたし」が自殺しようとした場面への共感や喜劇性、また恋愛小説的にも読めるのではないかという様々な感想・意見が出ました。
時間が大幅に超過してしまうほど、大変充実した研究発表会となりました。

次回は樋口一葉「闇桜」研究発表です。
前期の活動も残りわずかですが、暑さに負けずがんばっていきましょう。

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