近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

野間宏 第三十六号

2010-04-27 09:54:46 | Weblog
こんにちは、野間宏発表を担当した石井です。
今回の発表では抑圧的な刑務所に対抗する一人の人間が肉体をモチーフにその存在がどのように作品で示されているのか、ということを目標に入れて発表しました。

討論の中では「抑圧的」な刑務所の解釈の懐疑、法律の変化に伴って第三十六号が変化したことを検討する必要性、そして主人公〈私〉が第三十六号と視線を交わして別れる最後の場面は作品において最重要である、といったことがあげられました。

発表者としては刑務所と第三十六号の対立ということに軸をおくという一辺倒な考えが、低い見地のレジュメを作ってしまったと悔やんでいます。
主観的な見方で読み進めるのでなく、作品の歴史的・社会的事情など他のあらゆる視点を踏まえないといいレジュメが作れないと、今回の発表を受けて思いました。

次回はGW明けの10日に表梅崎春生「蜆」を発表を行います。
新入生の方で興味がある方はぜひ一度いらしてください。

読書会 安部公房「棒」

2010-04-20 22:00:06 | Weblog
こんばんは。
今週の例会では、安部公房の「棒」の読書会を行いました。
この作品は、安部公房の初期短編で、その話の展開の面白さから、近年では高校の教科書にも掲載されています。

初読の感想では、やはりなぜ棒になったのかという点が問題として挙げられていました。そこから、棒として描くことで何があるのか、私のありようはどうなのか、といった議論へと発展しました。また後半では、先生と生徒の存在についてや、先生がつけひげや眼鏡といった道具を身につける意味、「裁かれぬことによって裁いたことになる」ということの意味が議論されていました。
今回の読書会で、この作品を読むときに私たちの持っている常識や価値観を一度疑問視してみなければいけないのではないかという意見が、私の中では一番印象的でした。二人の生徒が棒を誠実と無能・単純と言い、同じことを相反する言葉で形容したように、また先生が棒は棒であるとそれをばっさりと切り捨てたように、同じものでも価値観の違いによって見える面が変わってきてしまいます。自分の見方に固執せず、疑問視していくことが、これから他の作品に当たる場合でも大切なのではないかと思いました。

次週の発表は野間宏の「第三十六号」です。
発表者の方はよろしくお願いします。

以上、ニシムラでした。

新勧期間発表 大江健三郎「不意の唖」

2010-04-13 23:03:00 | Weblog
こんばんは。
昨日は新勧期間でしたので場所をふだんの研究室から、若木タワー5階の演習室に変えて、発表いたしました。
発表した作品は大江健三郎の「不意の唖」、昭和33年に発表されたもので、「飼育」の系譜につらなる「谷間の村物」とでもいうべき短編です。
発表者(というか、今これを書いている僕自身が発表者だったのですが)はこの作品を「飼育」以降の「谷間の村物」の過渡期にあった作品としつつ、作品本体のなかに顕著に見出せるものとして、世代の断絶とそこへの作者の批判意識を見て行き、発表の軸としました。その発表に対しての意見としては、まず、先行論、同時代評をどのように位置付けているかの質問がありました。同時代評の大半が、「飼育」との関連からその言説を組み立てており、僕の発表では、それはどういう意味を持ち、関連のさせ方というのも、どうアプローチしてくのか、ということが問題になってくるための質問であったと思います。
また、果敢にも新入生の方が質問したことには、「谷間の村」という大江の今後のモティーフに連なる過渡期の作品、という僕のまとめに対して、具体的な作品ではどれがあげられるのか、というものでした。大江の「谷間の村」のモティーフが、具体的な作品に結実するのは「万延元年のフットボール」なのでしょうが、僕は不覚にも、これ以外の作品を上げられませんでした。失礼いたしました。
また、別の質問では、より作品の解釈にかかわるものとして、物語に登場する通訳という人物を、どう位置付けるのか、という質問がありました。彼を僕は〈介在者〉であり、完全な中間的存在というようにしました。ですが、それに質問では父親はちがうのか、と言われ、たしかに僕が作成した資料ではそうも読める文脈になっていたので訂正しました。
ほかにも、通訳の死というものに対して、必然か、否か、という議論がありました。これは通訳の死というものが、少年の父である部落長を殺害したために、復讐されて殺された、という先行論、同時代評に僕が則って資料を作成しましたところ、はたして復讐であったのかと質問されたのでした。
ここには、少年が通訳を殺害する手助けを「する」(このする、という表現は、作品での解釈の鍵となるので、括弧をつけました)その意志が、果たして自由意思であったのか、はたまたヘーゲル的不自由とでもいうべき状態であったのかの解釈とも連なるので、盛り上がったものとなりました。

ほかにも多くの質問が寄せられたのですが、どれも僕の資料の悪い点を観照させてくれる質問ばかりでした。今後の精進を自覚いたしました。
さて、もしかしたらお読みでいらっしゃるかも知れない新入生のみなさま、興味が湧いたようでしたら、ぜひ一度研究室に足をお運びになってみてください。サイトのほうでも詳細をお知らせしていますが、次回の発表は安部公房の「棒」という作品を読書会の形式で行いたいと思います。ぜひ一度よろしくお願いします。
ではみなさん、おやすみなさい。モロクマでした。