近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

吉行淳之介「星と月は天の穴」、森鴎外「舞姫」卒業論文中間発表

2011-11-30 01:10:15 | Weblog
こんにちは、今井です。


11月28日に行いました吉行淳之介「星と月は天の穴」、森鴎外「舞姫」の卒業論文中間発表のご報告をいたします。
発表者はそれぞれ種井先輩、木佐貫先輩で、司会者は藤野先輩です。

「星と月は天の穴」論は、発表の流れとしては精神的なつながりを中心に、部屋と小公園が矢添にとってどのような空間であるのかについて言及した後、矢添と外界との媒介の道具として時計、電話、車、入歯を挙げて分析されました。そして矢添とAとの相違点と共通点を明らかにし、矢添と作中作との関係の考察をなさっていました。
結論は、「私」とは何か、他者とは何か、そしてその両者のかかわりを要素とする「関係」とは、つねに相対的であり、その確かな姿を見極めることは難しい。としたうえで「このことが『星と月は天の穴』では明確に描かれており、精神的なつながり無くして、一回限りではない「関係」(性関係に限らない)というものは生まれないことを伝えている」というものでした。

いただいたご質問やご指摘は、「以前の矢添にとって、車は部屋と同様の意味があるように感じられるとしているが、そうとはいえないのではないか」「作中作が完結した後の作品の進み方についてどのように考えているか」「構造との関わりから分析を進めて行く必要がある」「結論が今のままだと一般論や先行論と同じに陥りやすいので注意するべき」などでした。


「舞姫」論は、まず豊太郎の性質と女性たち(母・エリス)との関わりについて考察から始まりました。「涙」「女性」「弱さ」が結び付けられて連想されるようになっており、豊太郎の持つ心の弱さは母に育てられた影響とされている、また亡き母の代わりの存在をエリスに求めている、とされました。
次に相澤と豊太郎との共通性や強弱関係を指摘して豊太郎と相澤の関係性を分析し、結論として豊太郎は母の影響による女性的な弱い心を持っているため、男性社会においてもその女性性が表れ、そこで生きている相澤と強弱関係が生まれると発表されました。

ご質問としては「男性社会における男性の象徴であるような相澤が豊太郎の危機で登場してくる意味は何か」「過去回想体で描かれていることから、相澤が強い立場というよりも、豊太郎が自分から弱者になる関係ではないか」「作品内の男性性・女性性とは具体的には何か」「豊太郎の最終的な相澤像である最後の一文をどう捉えているか」「豊太郎の母の弱さは描写がされていないため、弱さを繋がりとしてエリスと母を繋ぐのは強引ではないか」「エリスは働いて生計を支えており、母というよりも父のようだともいえるが、どう考えているか」「冒頭の解釈や位置づけはどうしているか、論を踏まえた「今の我」とは何か」などでした。

ご指摘としては「一人称であり過去回想の文体であることにはかなりの注意が必要」「豊太郎は日本で父を亡くしており、武家出身で旧藩の学館に通い教育を受け、父としての役割を背負っていた。エリスは父の守護で身体を売らずにすんできたものの、その父が亡くなって危険な状況になっている。そこで豊太郎がエリスの父に代わりエリスを守り、家を支えているというふうに捉えられる」「男女分類よりも、母について考察するなら父についてもするべき」「涙、弱さ、女性性と結びつけるのではなく、丁寧にみていくべき」などでした。


作品分析において人物や事象を分析することに加えて、構造をしっかりとらえていくことの大切さを再認識いたしました。

発表者の方々、お疲れ様でした!
来週は「抒情歌」の発表2週目を行います。

川端康成「抒情歌」論 第1週

2011-11-23 00:26:22 | Weblog
こんにちは、今井です。


11月21日の例会は、藤野先輩と神戸さんによる川端康成「抒情歌」の発表1週目でした。
司会は私が務めさせていただきました。


同時代評と先行研究では書式・表記についてや、引用論文にもっと適切なものがあったのではないかという指摘などが出ました。
抒情歌はそれ自体の作品論としては最近になって研究が盛んになったものということで、従来の古典的評価や作品観を踏まえつつ、最近の研究で挙げられている評価・批判の具体例を挙げ、それについての自分たちの意見を述べたうえで分析することが2週目の課題となりました。

作品分析では、まず龍枝の執着的ともいえる愛については、悲しいとわかっていながらも死人の「あなた」に語りかけているのは愛ゆえであること、輪廻の解脱ではなく輪廻転生に希望を見出したのは「あなた」に出逢えるからこそであること、「あなた」との別れを自身のなかで美しい思い出として昇華し、その辛い思い出に祈望を持とうとしていることなどの考察がなされました。

しかし一方で、龍枝が草花への転生は不可能であることを察していること、「あなた」との関係を男女間の愛欲から離れたものにしようとするものの「結婚」という言葉を使っていること、「死人にものいいかけ」ているという表現から「あなた」が死後に草木に転生していると心からは信じられていないことを挙げ、また「愛のしるし」では純粋で無償のものだった愛が「愛のあかし」に変化するとその愛は純粋さが失われ執着に変わると分析したうえで「執着的ともいえる愛からの解放を求める一方で、いまだに「あなた」との愛のあかしを求め続ける龍枝の矛盾を書き、仏になれない人間の悲哀が醸し出す〈美〉を川端は描き上げた」というまとめにしていました。

質問としては、「ただ思い出は美しくあって欲しいと考え、辛い思い出にも祈望を持とうとしているということだけではなく、論理の矛盾をおさえるべきではないか」「龍枝が転生は不可能なことだと思っているというのは言い過ぎで、まだ生きているからわからないだけではないか」「作品の最初と最後が対応する構造は何を表していると考えているか」「作中では「抒情詩」としているが、なぜタイトルは「抒情歌」なのか」などが出ました。
そのほか「龍枝の幼少時の予言力や母の愛、天使の翼など作品のいキーポイントを押さえるべき」「登場人物に対する解釈がなされていない」「愛が満ちすぎているから別れたという言葉が2回繰り返される意味は何か」「龍枝がどれだけ切実で、それゆえにいかに非常識で身勝手なことを言っているのか。愛の悲しさがある」などの指摘がなされました。


つたない司会で申し訳ありませんでした。反省を2週目に生かしたいと思います。
参加者の方々、ご協力ありがとうございました!

志賀直哉「小僧の神様」論―小僧に対する残酷な行為―  二週目

2011-11-19 21:18:23 | Weblog
こんにちは、一年の穴井です。



11/14の例会は「小僧の神様」の二週目の発表でした。
発表者は先々週と同じく一年の今井さんと佐藤さん、司会も同じく一年の穴井でした。

今回は傳馬先生にお越しいただき、ご意見を伺うことができました。
お忙しい中お越しいただきありがとうございました。



前回の発表からの反省を組んで、今回のレジュメの冒頭に【初刊での削除部分】について、「Aと仙吉は通に惹かれ接点を持つが、接点を持つ場所である屋台の鮨屋が通という性格を失うと接点が持てなくなってしまうのである。」という考察を挿入しています。
先行論は、前回の発表では入っていなかった山口直孝、宮越勉を新しく加え、「Aと仙吉との間には数多くの対称的な要素があり、身分という点においては接近・隔絶の構造があるが、Aと仙吉の歩みは相似形を描いている。本編では、Aと仙吉が対応をしながらも対称的な存在であることに注目して分析していく。」とまとめていました。

作品分析では、「通」を中心に対局の位置にいる二人が接近していき、鮨屋を境に離れていく二人の様子に着目したり、本文を通してふたりが対称となっている点を追っていくものとなっていました。

まとめとしましては、
「交替法により、身分的に出会うはずのない仙吉とAga「通」に惹かれて接点を持ち】出会うことと、対応しながらも終始二人はわかり合うことが出来ず、すれ違う対称的な存在であるということを表現している。また、仙吉とAの別々の視点を「作者」と読者だけが見渡せることができるという仕組みになっており、過剰な情報を持つ読者にむけて書かれた付記が機能してくる。」
「予定していた結末を読者が残酷だと感じる可能性があるため、「作者」は付記の前で話を終わらせた。しかし、そこで終わらせても仙吉がAを待ち続けるという点で残酷であると感じる可能性がある。ゆえに「作者」は付記をつけその残酷を和らげた。」
とまとめています。

質問としましては、「まとめで「付記をつけ残酷さを和らげた」とあるが、付記の部分を丸ごと削除したほうが残酷さを和らげることができるのでは?」「「残酷な行為」とあるが、具体的にどの行為を指しているのか?」「「「神様」は見る人(仙吉やAや「作者」や読者)によって変わってくる」と言っているが、発表者の2人としてはこの物語での神様は誰(どんなもの)だと思っているのか?」などのご意見をいただきました。

討論が一通り終わった後に、傳馬先生からご意見を伺うことができたのですが、
「今回の討論では付記があるという考え方ありきで話が進んでいるが、この最後の五行も「小僧の神様」という小説の一部であり、そこだけを切り離して考えていてはいけない。」
「もし本文の中の残酷の部分を空欄にした時に、はたして普通は「残酷」という言葉を入れるだろうか?そこに「残酷」という言葉を入れた志賀の考えとは何だろうか?」
など、貴重なご意見をいただきました。


今回の発表では確かに傳馬先生のおっしゃる通り、付記ありきで考えてしまい、発表者の方々も僕自身もその固定観念から抜け出せていなかったと思いました。今回の例会で「小僧の神様」の発表は終わりますが、まだまだ小僧の神様について考えるべき点は多くこれからも読みを深めていければいいなとおもいました。


発表者のお二方は大変お疲れ様でした!

それではありがとうございました。      穴井

志賀直哉「小僧の神様」論―小僧に対する残酷な行為― 1週目!

2011-11-07 00:12:32 | Weblog
一年生の神戸です。
今回は発表が今井・佐藤さんで司会者が穴井くんの一年生コンビで行いました。



特に問題の論点として中心になったのは附記についての部分でした。
発表者にとって附記の部分は「Aをお稲荷様と仙吉が認識することにより、お稲荷様信仰によって一時気違いのようになった伯母のような状態に仙吉が、その狂信からさめたときにAとのことを虚構として受け取ってしまう。そのことにより奉公生活の心のよりどころを無くしてしまう。よってそれを回避した」と解釈をなさっていました。

この発表者の見解については「本文から読み取ることができる部分が少ないのでは?」という意見があり、「附記をあえてかいていることに意味があるのでそれについて考えを深めてみて欲しい」というアドバイスをいただきました。
また附記についての意見としては「附記の前文の状態(いつかまた現れてくれるかもしれないAをまつ仙吉)で終わってしまったほうが残酷に感じる。附記を足すことで読者に物語としての終わり方が残酷でないと思わせたのではないか」という意見もいただきました。

岡崎先生から「Aの身分があかされていることにも意味がある」「Aと仙吉は同じ“通”という分類にいる。 Aと仙吉の“通”をめぐっての心理を明らかにしていくことによって物語の問題点にちかづける」附記については「仙吉はあの出来事を非現実として捉えており、Aが超自然的な存在であると発覚することは、なんらマイナスの側面をもたない。附記は読者に対するメッセージ」とのアドバイスをいただきました。

次回までの課題としては「仙吉とAの掘り下げ」になると思われます。


最後に更新が遅くなってしまって申し訳ございません
1年 神戸

志賀直哉「小僧の神様」論 第一週

2011-11-05 14:34:32 | Weblog
近研一年の穴井です。

10/31の例会では司会を務めさせていただきました。



今回の発表は  志賀直哉「小僧の神様」論―小僧に対する残酷な行為―  という題で、発表者は一年の今井さんと、同じく一年の佐藤さんでした。

同時代評は太田善男と芥川龍之介をあげており、「発表された当時の評価は肯定的なものもあるが、小説の奇妙さについて述べたものもある。」とまとめていました。
先行論には本多秋五、呉徳芬、頓野綾子、黒川直希をあげており、「作中の「作者」と志賀直哉を同一視する研究が進められてきたが、頓野綾子など、作中の「作者」と志賀直哉を分ける考察も研究され始めた。」などとまとめていました。

作品分析では大正時代の金銭感覚を資料を用いて説明し、小僧とAの心情を追っていく分析をなさっていました。

まとめとしては、
「小僧とAとを交互に平行する視点を用いない場合、Aと仙吉それぞれの視点から捉えた〈施し〉という行為を表現しにくくなる。それだけでなく身分の違いからAは仙吉の考え方が、仙吉はAの考えが理解できないため、片側からのみの視点ではもう片方の表現が理解できないために、交代法を用いたと考えられる。こうした作品の構成上の描き方からも、仙吉とAは終始わかりあうことのできない関係であるといえる。」
「あはご馳走するという行為により仙吉を無意識にに受け身の立場に位置づけた。結果としては奉公生活に耐えていけるにせよ、仙吉の主体性を奪い、「残酷」だといえる。」
「「あの客」がAという人間ではなくお稲荷様だった場合、「あの客」との出来事が虚構となる可能性が生じる。「あの客」との出来事は仙吉にとって嬉しくありがたいことであり、虚構であるとその後の奉公生活での重要な心の拠りどころがなくなってしまうと考えられる。その点が「残酷」なのである。」
「「作者」は小僧に対する残酷な行為を回避することで、小僧が「あの客」をその後の生活の慰めとしていけるようにした。」とまとめています。

質問としては、
「「小説の奇妙さ」の奇妙さとは?」「附記を書くことで残酷を回避したと言っていたが、そもそも附記としてそのことを書かなければよかったのでは?」「初刊で削除された場所が削除されることによって何が見えてくるのか?」「来ることのないAを待ち続けいてくことのほうが残酷なのでは?」などといったご意見があげられていました。


今回は発表者も司会も一年ということで進行がスムーズにいかなかったりなど反省点が非常に多くみられました。
二週発表なので、来週の例会も同じメンバーで行われるということもあり今回の反省を活かし、よりよい発表を行いたいと思いました。
11/7は休みとなりますので、次の例会は11/14となります。引き続き「小僧の神様」の発表となります。

それではありがとうございました。   穴井