近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

平成29年10月2日梶井基次郎「桜の樹の下には」

2017-11-07 00:10:43 | Weblog
こんにちは。
10月2日に行われました、梶井基次郎「桜の樹の下には」研究発表についてご報告いたします。
発表者は三年鷹嘴さん、二年宇佐美さん、一年小菜さんです。司会は一年星が務めさせていただきました。

この作品は昭和3年12月5日発行の『詩と詩論』第2冊に掲載されました。その後、梶井の死の前年の昭和6年5月15日に武蔵野書院から刊行された『檸檬』に収録されました。冒頭の「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」という一文が衝撃的で有名な作品です。
先行研究では話者が読者に語り掛けるという物語手法の意味についての考察や、削除された最終章について述べたものがありました。
同時代評は少なく、評価自体は肯定的ですがあまり注目された作品だったわけではないようです。

今回の発表では語り手が桜の美しさを信じられないのはなぜなのかという理由について分析していました。
この作品の中では生と死を対比化していることから、その両方を存在させることでバランスを取ろうとしています。
語り手は薄羽かげろうのくだりからもわかる通り死の美しさに惹かれています。それゆえ対極的な生の美しさである盛りの桜を信じることができません。しかし、その美しさの理由を死に求めることで心の安定を図ります。
また、桜の樹の下には屍体が埋まっているという考えが空想的であることに自覚的であり、その空想の発生源は生物には必ず存在する生死に関する欲求です。自らの心を生に傾く「お前」と死に傾く「俺」に分け。生の欲求のみでなく死の欲求も存在することを表しています。

質疑応答では研究発表内で前提として示された死の美しさについて話されました。
話し合いの中から途中までは死は美しいものとしては書かれておらず、途中「水晶のような液を」のくだりから混乱が起き、その直後の文では「櫻の根は貪婪な蛸のように」と逆に生を不気味なものに例えます。これらのことから、桜の生の美しさは死によって支えられているという結論は同じでも、死は美しいという前提を持たずに論じたほうが論じやすいのではないかと話されました。


大変面白い発表でしたので、時間を一杯に使えなかったことが残念に思われました。
ブログの更新が遅くなってしまったこと、お詫び申し上げます。

平成29年10月30日 泉鏡花「縷紅新草」研究発表

2017-11-06 02:50:04 | Weblog
 こんばんは。
 10月30日に行われた例会は泉鏡花「縷紅新草」、発表者は三年春日さん、一年坂さんです。司会は二年望月、ここにご報告いたします。

 「縷紅新草」は昭和十四年七月、「中央公論」に発表、同年十月『薄紅梅』(中央公論社)に収録。鏡花の〈金沢もの〉或いは帰郷小説と呼ばれ、生涯最後の作品でありながら、完成に至った作品であります。音律流麗、運筆滑らかな言文混同の文体は、自然主義文学を外に置いての文章の確立とも取れますが、鏡花特有の〈幽霊〉という素材によりシュルレアリスムかとも見紛うものであります。ところが本作品は異界の物を恐ろしげなるものとしてではなく、人の残念無念を色鮮やかに描き出しています。如上のような文体の指摘は研究史においては最初期、近年の研究動向としては作品背景からの考究が多く、特に『鐘声夜半録』(明治二十八年七月)に同じ素材が散見されることから、両作品の比較を通して鏡花の意図を探るというのが主流のようにも思われます。お米の指の動きが次のような回想を創ります。作中人物辻町糸七は自殺をしようかと城の堀の上を徘徊、その後に初路の自殺を聞き届けます。こうして女性を助けられなかった糸七には罪の意識が生まれ、この罪の意識というのが四十年前の『鐘声夜半録』や鏡花自身にも見出せるとした論もありました。鏡花の女性観と照らし合わせた論、当時の工芸品の在り方から赤蜻蛉の刺繍、本文冒頭の初路を殺した中傷歌を捉えた論もありました。テクスト論から作家論というような研究史は、それ自体珍しいものであると岡崎先生の仰るところでした。今回の研究発表では―「眼の作用」と「手の仕事」―と題し、今一度語りの側面から読み解いていこうとしていったのでございます。

「お米の指が、行つたり来たり、ちらちらと細く動く、とその動くのが、魔法を使つたやうに、向ふ遥かな城の森の下くゞりに、小さな男が、とぼんと出て、羽織も着ない、しよぼけた形を顕はすとともに、手を拱き、首を垂れて、とぼとぼと歩行くのが朧に見える。それ、糧に飢ゑて死なうとした。それが其の夜の辻町である。」(『新編 泉鏡花集』第二巻、二〇〇四年二月、岩波書店)

 今回の発表の新規性は〈語られる事柄 ― 語り ― 読み〉の伝達過程に注目した点でありましょうか。或いは糸七やお米の動作を、つまり「手の仕事」として、例えば「提灯」を「眼の作用」と捉えた上で、語りの醸成する幻想を解剖していった点であるしょう。糸七やお米、語り手の「手の仕事」によって招魂がなされ、そうして「手の仕事」自体と最後の二人の幽霊は他者の視線に無抵抗である、という発表者側の主張でした。裸婦としての墓石が視られるという屈辱、それを「手の仕事」のよって視線から身を守ることができたと言えるでしょう。「提灯」は真実を見透かす眼として、「手の仕事」を導出する機能を併せ持つとの指摘。また「赤蜻蛉」は三様に語られ、それらが初路の悲劇と関係しあうという意見でもありました。
 もとより本作品は論理を以て云々すること能わずして、会の中でも物語内世界に対する語りが紗々たる事、錯綜していることが指摘されました。そのような語りは意図的であって「手の仕事」と呼ばれうるものであることも提言されました。岡崎先生は、物語内の季節や時間が錯綜していることは近代リアリズムへの挑戦ともとれること、前近代的な夢幻能の世界を近代小説に移しかえた新しさを指摘されました。
 その後はテクスト末尾の「女の影が……二人見えた。」の主語は如何様か、の話題に移りました。発表者は糸七とお米であるとしました。結論、この点に関しては論理に収斂されえない面白味があるとされ、誰が見たのか分からない、結末の不分明であるという幽玄が評価せらるべきだと。今更ですが、わたくしの方から一つ二つ見解を。最後の一文は、「―た。」という完了の文末詞で締めくくられているところに注目したいと思います。「―けり。」でもなく、「They[I] saw two figures of….」でもない点は、言文一致の招来した近代以降特有の人称であると思います。また「―た。」には完了の意味合いとしてではなく、言表主体の判断も含まれている、と言いたいのでございます。誰が見たのか分からない、というのはこういった所からも考えられるのではないでしょうか。翻訳には困ることでしょう。「影」もどう訳してよいのやら、といった具合であります。

 文章の長短の程は測りかねますが、キーボードというのは全く肩が凝るのでここらで失礼します。早寝早起きは読書にも増して大切なことです。次回は11月13日、卒論中間報告でございます。