こんにちは。
10月2日に行われました、梶井基次郎「桜の樹の下には」研究発表についてご報告いたします。
発表者は三年鷹嘴さん、二年宇佐美さん、一年小菜さんです。司会は一年星が務めさせていただきました。
この作品は昭和3年12月5日発行の『詩と詩論』第2冊に掲載されました。その後、梶井の死の前年の昭和6年5月15日に武蔵野書院から刊行された『檸檬』に収録されました。冒頭の「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」という一文が衝撃的で有名な作品です。
先行研究では話者が読者に語り掛けるという物語手法の意味についての考察や、削除された最終章について述べたものがありました。
同時代評は少なく、評価自体は肯定的ですがあまり注目された作品だったわけではないようです。
今回の発表では語り手が桜の美しさを信じられないのはなぜなのかという理由について分析していました。
この作品の中では生と死を対比化していることから、その両方を存在させることでバランスを取ろうとしています。
語り手は薄羽かげろうのくだりからもわかる通り死の美しさに惹かれています。それゆえ対極的な生の美しさである盛りの桜を信じることができません。しかし、その美しさの理由を死に求めることで心の安定を図ります。
また、桜の樹の下には屍体が埋まっているという考えが空想的であることに自覚的であり、その空想の発生源は生物には必ず存在する生死に関する欲求です。自らの心を生に傾く「お前」と死に傾く「俺」に分け。生の欲求のみでなく死の欲求も存在することを表しています。
質疑応答では研究発表内で前提として示された死の美しさについて話されました。
話し合いの中から途中までは死は美しいものとしては書かれておらず、途中「水晶のような液を」のくだりから混乱が起き、その直後の文では「櫻の根は貪婪な蛸のように」と逆に生を不気味なものに例えます。これらのことから、桜の生の美しさは死によって支えられているという結論は同じでも、死は美しいという前提を持たずに論じたほうが論じやすいのではないかと話されました。
大変面白い発表でしたので、時間を一杯に使えなかったことが残念に思われました。
ブログの更新が遅くなってしまったこと、お詫び申し上げます。
10月2日に行われました、梶井基次郎「桜の樹の下には」研究発表についてご報告いたします。
発表者は三年鷹嘴さん、二年宇佐美さん、一年小菜さんです。司会は一年星が務めさせていただきました。
この作品は昭和3年12月5日発行の『詩と詩論』第2冊に掲載されました。その後、梶井の死の前年の昭和6年5月15日に武蔵野書院から刊行された『檸檬』に収録されました。冒頭の「桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」という一文が衝撃的で有名な作品です。
先行研究では話者が読者に語り掛けるという物語手法の意味についての考察や、削除された最終章について述べたものがありました。
同時代評は少なく、評価自体は肯定的ですがあまり注目された作品だったわけではないようです。
今回の発表では語り手が桜の美しさを信じられないのはなぜなのかという理由について分析していました。
この作品の中では生と死を対比化していることから、その両方を存在させることでバランスを取ろうとしています。
語り手は薄羽かげろうのくだりからもわかる通り死の美しさに惹かれています。それゆえ対極的な生の美しさである盛りの桜を信じることができません。しかし、その美しさの理由を死に求めることで心の安定を図ります。
また、桜の樹の下には屍体が埋まっているという考えが空想的であることに自覚的であり、その空想の発生源は生物には必ず存在する生死に関する欲求です。自らの心を生に傾く「お前」と死に傾く「俺」に分け。生の欲求のみでなく死の欲求も存在することを表しています。
質疑応答では研究発表内で前提として示された死の美しさについて話されました。
話し合いの中から途中までは死は美しいものとしては書かれておらず、途中「水晶のような液を」のくだりから混乱が起き、その直後の文では「櫻の根は貪婪な蛸のように」と逆に生を不気味なものに例えます。これらのことから、桜の生の美しさは死によって支えられているという結論は同じでも、死は美しいという前提を持たずに論じたほうが論じやすいのではないかと話されました。
大変面白い発表でしたので、時間を一杯に使えなかったことが残念に思われました。
ブログの更新が遅くなってしまったこと、お詫び申し上げます。