近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

10/24井伏鱒二「へんろう宿」研究発表

2016-10-26 00:42:15 | Weblog

こんにちは。
10月24日に行われた井伏鱒二「へんろう宿」についての研究発表のご報告です。
発表は3年小玉さん、同じく眞鍋さん、1年野口さん、司会は私1年浦野が務めさせて頂きました。

今回の発表の副題は「―不在から喚起される存在―(いない人いますか?)」ということで、もはや近研おなじみとなった帰りの決め台詞を挟みつつ、作中で語られていないがそれ故に想定される不在の人物及び出来事の存在とそれを可能にする「私」の語り方について論じて頂きました。

自分の感想を差し挟むことが殆ど無く、マイペースさを感じさせる淡々とした語り口から先行研究では「無批判な傍観者」として読まれることが多かった「私」ですが、宿の経営体制の説明などには「私」独自の解釈を通した記憶としてこの物語が語られている痕跡が見られます。発表者はこの主観性によって生じる語りのあやしさこそが読者の多元的な読みを促すと主張して下さいました。

また、「へんろう宿」執筆の切っ掛けとなった作者の土佐行きに対する井伏自身の言及を複数取り上げ、作者の体験と作品内容との違いから作品の虚構性を確認することでこの読みの可能性が作品によって用意されたものであることを裏付け、同時に井伏がこの作品を執筆した行為自体が現実における「不在のもの」を語り補完する行為であるとの論を展開されました。

質疑応答では初出と初刊の結文の違いに関するご指摘によって初刊で追加された「その宿の横手の砂浜には、(後略)」の重要性が確認され、岡崎先生から作中に散見される海を連想させる言葉は単に海のイメージを想起させるためだけに用意されたのではなく、そこに群生する浜木綿の逞しい美しさを描く為のものだったのではないかというご考察を頂戴致しました。
ちなみに、本作の校異について積極的に考察されている研究は未だ少ないので誰か研究してみてはどうかというご提案も頂いたことを加えて記しておきます。

他にも、宿の女性全員に付けられている金銭にまつわる名前や「百石積みの宝船の夢」という言葉と貧相な宿の様子とのギャップから窺える厳しい暮らしぶり、女性だけで切り盛りしている宿には似つかわしくない「波濤館」という名前から想像される男性の従業員がいた過去、電話や公共施設の存在に見られる外界との繋がりとそれによって完成されない異界性、「昔は」宿帳などなかったという発言や現在の客層から考えられる少女達の親が遍路ではなく身元も判明している可能性、オクラ婆さんから少女達の間の世代の存在に関する様々な推測など、多くの「不在のもの」とそれを補完する読みがリアルタイムで展開され原稿用紙15枚にも満たない作品世界の果てしない広がりを見せつけられる会となりました。

「へんろう宿」の存在は厳しい現実を映し、少女達の行く末にも宿の婆さんとして一生を終える未来や宿の仕組みそのものの衰退が示唆されていますが、二人が健やかに学校へ通う姿と多分に用意された余白を読み解く自由からは希望が感じられます。


以上、稚拙ですが今回の活動のご報告とさせて頂きます。
初めての司会ということもあり上手くまとめられず、こちらでも全てのご意見をご紹介することが出来ませんでしたが、多様な読みが次々に生まれる楽しい研究会でした。
司会としての反省点だけでなく、事前に配られた参考資料やレジュメに載せられた図など発表者としても今後の参考にさせて頂きたい点が多くあり、私個人としても非常に有意義な時間でした。

次回、10月31日は川端康成「伊豆の踊り子」の研究発表です。

10/17萩原朔太郎「猫町」研究発表

2016-10-19 12:45:38 | Weblog
こんにちは。
10月17日に行われた萩原朔太郎「猫町」研究発表のご報告です。
発表者は三年渡部さん、二年吉野さん、一年武田さん、司会は一年野口が務めさせていただきました。


今回の発表は『獲得される「詩人の直覚」』という副題でした。本文検討ではテクスト内の時系列に注目しながら、「私」が「詩人の直覚」を獲得し、また自らがそれを持っていることを自覚することで猫町の実在を信じ主張できるようになったものの、「詩人の直覚」はあくまで個人的なものであるために「私」の体験や主張は他人に伝わるのは困難であるという読みを提示していただきました。

発表では、景色の裏側とは物理的に景色の裏側があるということではなく、実際の光景を「私」の直覚によってとらえたものであるとの解釈を提示していただきました。まだ「詩人の直覚」を得られず現実の旅に飽き、薬によって主観の構成する世界に遊んでいた「私」が、方位の錯覚によって美しい町を発見するという体験から景色の裏側を見ることを経験し、二章では視点が移動するという外界の変化によるプロセスを経ることなく「詩人の直覚」をもとにした内面の変化によって景色の裏側を見たとするのが発表者側の主張でした。

シヨウペンハウエルの言葉について、発表者側では「私」の主張と食い違いがあるため「私」によって付せられたものではないとしていましたが、観念することに価値があるという姿勢から「私」に近い立場の言葉なのではないかというご意見がありました。また、「私」の体験や主張そのものだけが大切なのではなく、「私」の体験を読者がどう受け取るかが重視されるのではないかというご意見があり、このご意見をシヨウペンハウエルの言葉と関連付けて考えるという視点も新たに見出されました。

また、「私」の語りに見られる時系列の混乱について意見が交わされました。発表者側では章番号の順番に語られたとしていましたが、「私」の言葉からその順番だとは言い切れないのではないかというご意見がありました。こうした時系列の混乱も含めて、語り手である「私」への不審感について意見が集まりました。これについては岡崎先生から、「猫町」は語り手である「私」を疑う読みが有効な作品であるというご指摘をいただき、私語りだからといって「私」の価値観が反映されているとは限らないというお話をいただきました。


以上、纏まりのないものとなってしまいましたが、今回の活動のご報告でした。司会の技量不足から全てのご意見、ご指摘をご紹介することができませんでしたが、学年を問わず鋭いご意見が交わされた研究会となったように思います。


次回、10月24日は井伏鱒二「へんろう宿」の研究発表となります。

10/3志賀直哉「城の崎にて」研究発表

2016-10-03 23:33:11 | Weblog
こんにちは。
10月3日に行われた志賀直哉「城の崎にて」の研究発表のご報告です。
発表者は、三年今泉さん、一年浦野さん、一年柳谷さんでした。司会はわたくし、一年望月が務めさせていただきました。

今回の発表は「〈三つの死〉、彼岸から此岸への帰還」という副題のもと、様々な観点から本文の検討が行われました。「様々」と申しましたのは「城の崎にて」という作品自体、先行論においても既に一言一句仔細に吟味されているからです。主な論点としては「蜂」、「鼠」、「蠑螈」の死ですが、それらを描く志賀直哉の精巧な文体及び、物語の構成も大きな論点でした。また草稿の「いのち」を含む執筆背景も「城の崎にて」に関わっており、読解が難航していた要因の一つであったかと思われます。加えて物語末尾において、語りが三年以上の月日を跳躍しており、複雑さを助長していることは明らかです。このような作品ですから、事物を何かの象徴として論を述べることは必然ですが、憶測の域に深入りせぬよう用心せねばなりません。

作品において特徴的な、「静か」や「淋しい」というの言葉の連続に目を向けられ、これは「自分」の静寂への親しみではないかということが挙げられました。しかし、「淋しい」の前後に明らかな逆説が用いられている箇所が見受けられ、死への共感、とだけ一方的に受け取るのは性急ではないかという論も交わされました。この点においても先行論がありますので、比較及び検討を要するかと思われます。

非常に難解な論点となったのは、作中における「流れ」でした。この「流れ」とは物質的な、又は空間的な「流れ」であり、簡潔に申せば「川の流れ」と「物語構造としての流れ」となります。二つは全くの別物としても捉えることが可能ですが、今回においてはその関連性に焦点があてられました。「自分」が物語の進行に合わせて川の上流へと向かうとそれぞれ意味の異なった生物の死を感じ、生と死が両極でないように感じます。「自分」はそこで「蜂」も「鼠」も水に流されていることを思います。疑問点として挙がったのは、それより前の「桑」の葉の場面における「流れ」でした。とても象徴的な意味合いの強い表現だと思われるので、全体の構造を考慮しての意見が多くありました。

最後に岡崎先生が締めくくりとして、文章自体は散らばっているものの、やはりそこには志賀直哉の計算と技巧があることや、「桑」の葉の非現実的な様相の描出及び、動く葉の原因を書かなかったことによる表現などについて、また語り手の位置の不明などについても、まとめていただきました。先行論を読んでもなお参考になるお話でした。

以上までが今回の「城の崎にて」研究発表のご報告でした。「城の崎にて」は様々な論があり、現在においても研究され続けていますが、心境小説と呼ばれることもある通り、非常に複雑な作品です。相変わらず解明できない点は多いですが、それがこの作品の評価すべき点だと、わたくし個人として信じています。
今更ながら初めての司会でした。一言、単純に司会は難しいと思いました。普段は独り作品の世界に入り込んでいたので、今回の務めは手が震えるような心持でした。全く本文解釈の方に気を取られ、職務を忘れそうにもなりました。会全体としては非常に話しやすい雰囲気でありましたが、司会としてのわたくしに反省点がいくつもあることは事実です。報告も長々と綴ってしまいましたので、こうご期待という形で円満に締めくくらせていただきます。

次週は芥川龍之介「馬の脚」の研究発表となります。