近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

安岡章太郎「悪い仲間」第一週読書会

2010-11-23 19:00:49 | Weblog
今週は安岡章太郎の「悪い仲間」の読書会をおこないました。
その場には、岡崎先生からの慫慂もございまして、青山短期大学から二名の学生も見学に来られまして、会も(ふだんとは少し違った)活発な意見が飛び交うこととなりました。

作品の読後感想、印象にはじまり、どのような構成を持ち、人物の言動にどのような意味があるのかを質疑していきました。出た意見は主として以下の通りとなります。

○ 〈僕〉と〈藤井〉の関係、〈藤井〉は〈僕〉の鏡として機能し、その照射によって〈僕〉自身を認識していく小説なのではないか

○ 女遊びや、覗きを行うことは、エロスによる戦争の認識を示す、知りたいという認識への希求と、登場人物それぞれの関係性から、永遠性の欠如が見られる。その欠如は、また生の感覚の欠如でもある

○ 臭いについて――性への好奇心との関連から、〈僕〉と〈藤井〉、〈倉田〉との段階的な関係性の変化を読み取ることができるのではないか

ほかにも、カタカナによる表記が目立つのは、どういった作為があったのかという問いかけがなされた点には、漢字での表記が帯びる権威性を、ずらしていくという戦略が作者によってなされているのではないかというご指摘がありました。また、作品冒頭において日中戦争が触れられ、終末の文章が太平洋戦争の開戦を告げるかたちで結ばれる、この時制の指定は、どういう意味を持つのかという問いかけもあり、盛んな意見が出ました。それに関連して、同じく終末部で自動車に揺られた〈僕〉が感じる陶酔と、錯覚がどういった意味を持つのか、という点については、自動車が戦時中の体制を暗示し、それへの陶酔感と、自己反省的な感情が錯覚として記されたのではないかという指摘がありました。
途中、傳馬先生からも安岡章太郎に関するアドバイスをいただきまして、安岡が戦争を如何に捉えているのか、その精神的・身体的な劣等感と、その感覚から見る戦争を、理解することの重要性を教えていただきました。これについては、岡崎先生からも文中においての戦争の描写、及び全体から把握される戦争、あるいは「戦時中」の空気とでもいうべきものが、観念的、思想的であるよりも、強く生活、日常に根差したものである点をお教えていただきました。

その上で、来週も「悪い仲間」を中心に、おなじく戦争に触れた短篇である「質屋の女房」・「ジングルベル」を読み併せて、より深く実相に迫っていこうということになりました。

それでは、また来週よろしくお願いします。
モロクマ

永井荷風「踊子」第二週目発表

2010-11-19 18:51:03 | Weblog
記事の投稿が遅れまことに申し訳ありません。
今週は、先週に引き続いて永井荷風の「踊子」の発表でした。
先週の発表での主眼であった特殊社会としての〈浅草〉、作品内部の時間の流れ、の内前者の方をより深めて論考をするというものが、今週の発表でした。具体的には、以下のような論考型式であったと思います。

【1】作品に描かれた〈浅草〉の抽出と、実際の作者が見聞きしていたであろう浅草の比較、検討

【2】登場人物に与えられた意味の解明によって、それぞれが接することになる〈浅草〉がどのように描かれることになったかを検討

【3】〈浅草〉と登場人物の関わりによる物語から、〈わたし〉と〈千代美〉の齟齬・径庭が現出、そこから最終的に〈わたし〉に育まれ、語られることになった〈懐旧〉〈悔恨〉として追憶される〈千代美〉の検討

以上が大枠としての発表論旨であったのではないでしょうか。
【1】に関して、浅草の歴史的な記述を外部の資料をもとに発表しておりましたが、幾分その資料の量が不足しており、浅草の全的な解明には至っていない印象がありました。その点を質す問いも多く質問者からありました。その全的な解明から、はじめて作品内の〈浅草〉の言及に移ることが可能となるわけですから、作品の時代的背景をもとにした検討が弱くなっている憾みが見られました。
【2】登場人物をどのように規定していくのか、について、発表者は主に〈踊子〉と「土着/非土着」の切り口で見ていこうとしているようだったと思います。〈踊子〉とは、つまりレヴューの世界に生きている存在で、〈花枝〉がそうでありました。それに対し、〈千代美〉は芸者に転じる点で〈浅草〉を一時的な足場と見る存在であると発表者はしたうえで、さらに、その一時的な居住さえも、多くの他の〈踊子〉は下町育ちの生粋の浅草の〈踊子〉であるのに対して、〈千代美〉はその生まれという土壌がない、よって〈浅草〉の〈踊子〉ではあるが(同時に)〈踊子〉ではない(という可能性を内包する)存在、と規定していました。その土壌を、発表者は「土着/非土着」の観点(注:非土着の語は投稿者の用いている語で、発表資料内には出てきておりません)で登場人物の役割を見ていました。
ここについても、「土着/非土着」の定義がどの程度当てはまるのか、〈千代美〉は果たしてほんとうに〈踊子〉では「ない」とも取ることができる存在なのか、などの質疑応答がありました。定義した言葉を見た上での、根本的な問い掛けである、そもそも〈踊子〉とは、どういう存在なのか、という質問もありました。このそもそもという、根本を見て行くと、〈千代美〉の行動、〈わたし〉の追憶する立ち位置がよりはっきりと見えてきたのかも知れない、と投稿者は思います。
【3】は【2】の延長・発展の意味を帯びた検討でした。これは最終場面である(つまり〈わたし〉の語る現在にもっとも近いであろう時点)隠遁生活にも似た〈わたし〉と〈花枝〉の生活に見られる、〈わたし〉の〈懐旧〉と〈悔恨〉という感情がどうしてそうなのか、を追求したものです。ここに至り、〈浅草〉とは〈わたし〉の半生を語るうえで消し去ることができないものであり、〈わたし〉の底流に潜むもの、と発表者は捉え、〈わたし〉の記憶にイマージュのように立ち現われるものであると結論づけていました。
ここから、さらに発展させることもできたのではないか、というのが【3】についての質問でした。さらなる発展は、思うに〈踊子〉、〈千代美〉、〈浅草〉という点を語り手の〈わたし〉が追憶という線で結ぶ、という作品構造そのものへの論の試みでありましょう。また、荷風における戦前の、ひとつのイマージュとしての〈浅草〉がそのようであったと見たうえで、戦後文学のなかへの位置づけも可能であるかも知れません。いずれにせよ、それらの発展へ赴くために重要なのは、〈踊子〉という存在、あるいは記号は、どんな意味、機能を持つのかをとことんまで突き詰めるしかないのでしょう。

以上が第二週における発表の主題と、質疑内容でした。発表者のかたは、お疲れさまでした!

永井荷風「踊子」第一週目発表

2010-11-08 22:55:33 | Weblog
 こんにちは。近研4年のかわべです。

 今日は、永井荷風「踊子」についての発表でした。
 発表者は、三年のいしいさんです。
 発表資料から、要旨を抜粋し、記載します。

“先行論では、語り手〈わたし〉が主に昭和十二・三年代の浅草を、
 過去の出来事として語っていることが指摘されている。
 そこで本文検討では作品内で扱われている〈時の流れ〉に焦点を当てた上で、
 作品の内容、とりわけ浅草という〈特殊社会〉から読み取れることを考察していく”

 同時代評や『断腸亭日乗』に触れて、作品成立の経緯を検討した後に、
語り手の〈わたし〉と作中の時制を中心に、〈わたし〉がいかに浅草を
語っているのかについての発表でした。

 質問は、作品成立時、また作品内で描かれている昭和十二・三時の、
時代状況についてのものや、作中で描かれる浅草や平井町についてなど、
史実についてのものが多かったように思います。
 また、作中の語句について、同時代でどのように扱われていたのか、
確認すべきだという指摘が多く出ました。

 浅草という場所を考察する際に、実際の戦前、中、後の浅草と、
「踊子」に描かれた〈浅草〉とを分けて考えた上で、荷風が思いを馳せる
〈浅草〉について、何らかの結論が得られれば、面白いと思いました。

 次週の発表については、明確な見通しをお持ちではないようでしたが、
語句の同時代的意味についての語釈は、用意するつもりのようです。

 来週もう一度、発表がありますので、楽しみに来週を待つだけではなく、
私自身も時代背景について、調べた上で次週の発表に備えたいと思います。

 いしいさん、お疲れ様でした。来週もよろしくお願いします。


4年 川邉絢一郎

追記
 本日の発表は、学部生が発表者のいしいさんと司会のかわべのみでした。
大学院生の先輩方に多数ご参加いただき、多様な意見をいただきました。
正直、質疑応答どうしようかと思っていたので、とても助かりました。
ブログの上でということになりますが、司会進行者として、お礼申し上げます。
ありがとうございました。