近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

露路住人と人間本来の姿

2007-06-26 20:36:07 | Weblog
今週は「古都」二回目の発表でした。発表者の方、お疲れ様でした。

今回の発表では、まず先行論2つを引用されていました。1つめの論文では、露地住人の暮らしに混在する苛烈な情念と希求こそが人間本来の姿、在りようを示しており、発表者はこの一つ目の論文を生かし、分析されていました。そして、2つ目の論文では、「古都」の連作である「孤独閑談」にまで言及されており、「僕」は真正の露地の住人になりきることはできず、「僕」が露地の住人としての生を享受することの不可能性がかかれていました。

分析では、【<僕>による物語の再構成】というトピックで、物語の舞台が昭和十二年であるという設定に注目、「古都」は昭和十六年に発表された作品であり、そこから<語るべき>物語が取捨選択され、事実をすべて描いた物語でない小説であるということがいえます。そして、東京から訪れた余所者の<僕>はやがて京都を去る人間であり、このような<僕>を発表者は「流浪の民」としていました。
親父・主婦・関さん・ノンビリさんは自分本位で己の欲に忠実に生きる者として語られています。残飯に頼らざるを得ない関さんの生は自殺したくても食堂に頼らざるを得ない人間です。<人生最後の袋小路>・<京都のごみたまり>=人間としての社会の底辺に追い詰められている者たちに焦点を当てていく物語だとしていました。
<僕>に注目すると、住み慣れた東京と、<僕>を気遣ってくれる人々との対照が書かれています。そして<僕>はどん底の環境に身を置き、自分の中の<光>だけで立ち上がろうとする姿が書かれます。そして次第に楽な暮らしに慣れていく僕、
<先生>と呼ばれることで名前を失い<坂口>と呼ばれていた過去の自分を失ってしまいます。そして<光>を失い、<暗い一室>で日々を過ごす、楽な暮らしを送るうちに周囲に染まり、どん底に落ちてゆきます。このようなことから、語り手<僕>は堕落していった人間として書かれているが、いずれは碁会所を去る人間であることがわかります。
【京都の町】では、にぎやかな伏見稲荷と対照的にかかれる暗い露地がまず読めます。常連の呑み助、日蔭者の貧乏庶民は京都のごみたまりで生き、これは底辺の底であるといえます。彼らは遠慮することなく己の欲の忠実であり、これが人間本質の発露・人間の原始的な生き方であり、人間の本質的なあり方を見つめていく存在としての<統領>(底辺庶民の代表)が読み取れます。
京都の町並みは碁盤の目であり、碁に興じるが下手な露地の人々は<落ち武者>であり、碁盤の目の京都の中での敗北を意味しています。そして碁の勝利で得る地位が<統領>であり、この作品においては人間としての勢力争いの縮図としての碁が表現されているといえます。
治安維持法の実行部隊としての<特高>・軍歌や軍記を唄う<浦孤舟>の存在は、天皇制や殉死によって団結し欧米を越えていこうとしている戦争の体制を暗示しているのではという読みがされていました。
そして最終的に戦争の影響が現れるであろう<東京>・<京都>・の<師団長>の負傷は<日華事変>の余波を小金を稼いだ<無邪気>な笑い<私欲の充満>に転化させていくおやじがおり、これは時勢に飲み込まれることなく己の生を全うしていく底辺庶民の底意地であり、これは性の活力を暗示しているといえます。
まとめとして、人間の原始的なありよう、活力を発露させて底辺を生きる者たちに持ち上げられ<統領>になっていく僕がいます。これは米超えを目指す戦争の体制をも越えていくことが暗示されます。これは時勢に対して作者の持っていた反対制の萌芽といえます。
そして露地に生きる人々の人間の原始的、本質的姿を<神々しく>、<無邪気>という僕がおり、これは己の感情にただあるがままに生きる人間のあるべき姿が肯定されているということでした。
そして統領になる<僕>は完全に路地の人間になりきれない者であって、彼は路地住人を客観的にとらえる視点を持ち、人間のあるべき姿を住人に仮託して作品を描いているといえます。
質疑応答では、<浦孤舟>の存在が果たして欧米を超える戦争の暗示なのか、飛躍していまいかということが一番の話題であったかと思います。また、己の感情に忠実に生きる姿が果たして人間のあるべき姿としていいのか?という問題があり、そこから安吾の思想に結ぶ資料があったならさらに精度の高い資料になったかと思います。
2週間お疲れ様でした。以上、坂崎でした。

〈露地〉世界の誇り

2007-06-20 22:37:21 | Weblog
 今週の発表は 坂口安吾「古都」 でした。発表者の方お疲れ様でした。

 一週目の今回は、露地生活者に焦点を当てて進められました。
 先行論では、この作品での小説家の〈僕〉について安吾と重ね合わせて捉えられ、安吾の孤独が描かれているという指摘のものもありました。実際に作品世界は、この作品の初出である昭和16年の5年前の著者の実体験を元に描かれています。が、小説家〈僕〉の孤独や苦悩は前景化せず、何も〈考へ〉ないただ命をつなぐだけの生活を過ごしていた〈僕〉の〈二階〉での生活風景は語られず、むしろ碁会所での物語りが選ばれて語られていることから、作品の主題は〈僕〉の孤独ではなく、この碁会所の物語にあるという指摘から論が進められました。

 フルネームで書かれる知人と渾名で通じ合う碁会所が対比され、小説家の〈僕〉は〈坂口〉から〈先生〉へと〈僕〉が生きてきた世界と別次元の共同体である〈露地〉の世界の一部となっていきます。

 〈露地〉の世界とは俗悪の空間で〈京都のゴミ溜り〉であり、〈参道〉の賑わいと隔たった異界である。そこに住むのは積極的に〈露地〉世界を抜けだそうとはしない〈落武者〉達であり、〈百鬼夜行〉より碁がうまい〈僕〉は、それだけの理由で〈統領〉になる。そこに住むのは〈辛抱〉も〈思ひやり〉もなく〈我儘〉で〈唯我独尊〉の卑小な性格の人々である。この卑小な人々の共同体は、人間が小さく、碁に関しても、楽しさを目的とした人々が集まる子供達の遊びの世界であるというように〈露地〉の世界を異界としてまとめていました。
 この碁会所を中心とした世界は〈僕〉にとって、生の終わりを感じさせる空間であり、自分の光さえも失わせる世界であったことから、異界という言葉はなるほどな。と思いました。そして外から見ると生の終わりを感じさせるこの異界の中の生、露地生活者の生活をどう捉えるのかで読みがわかれるのかなと思いました。

 発表者は、関さんや主婦と親爺からそれぞれの子供じみた〈誇り〉や親としての〈誇り〉を抜き出し、特に親爺の〈誇り〉は、長男としての〈誇り〉・親としての〈誇り〉を〈金〉への〈慾〉だと転化させていく姿勢であり、〈露地〉世界を生きていることへの〈誇り〉と捉え、卑小であること自体を親爺は誇り、卑小な者にも卑小なりの〈意地〉があり、一寸の虫にも五分の魂という内容が描かれているという指摘をされました。
 しかし、各人の〈誇り〉を卑小な者にも卑小なりの〈意地〉がある、というように一まとめの〈誇り〉にしていいのか。そもそも、彼らの〈誇り〉とは誰に対するものなのか。異界の住人を異常として救いようのない人々と捉えているのか、それともまっとうな生の姿勢として捉え描かれているのか、この評価をどうするのかが特に気になりました。

 またこの作品を違った角度から見るために、伏見や京都の地理的な象徴性。京都の町並みと碁の関係。東京の位置づけ。というような地理的問題
 さらに、白痴の捉え方。一年後に「日本文化私観」を発表した著者のこの作品の位置づけ。この作品から読める題名「古都」の意味づけ。などがあがったと思います。

 二週目は時間もなく大変ですが、発表者のお二人頑張って下さい!菱川でした。

「鴎」第二週目

2007-06-06 01:35:48 | Weblog
 先週に引き続き、今週も太宰治の「鴎」の発表でした。
第一週目の発表では作品が書かれた当時の時代背景に内容を照らし合わせようと努めた結果、時代背景だけでは読みきれないところも無理に当てはめてしまい、矛盾が生じてしまっていました。今回の発表では時代背景ではなく、〈私〉が芸術に生きる道を選ぶ決意をするにいたる経緯が中心とされていました。
 他者に理解してもらえない〈私〉は、芸術家という〈一種奇妙な動物〉であることを主張し、芸術のみで生きていく決意をします。が、他者と同じように苦しい暮らしをおくり、〈丙種〉であるという劣等感から〈兵隊さん〉からの原稿に期待を寄せ、自分自身の言葉は〈何も言えない。何も書けない〉〈私〉の姿で、〈私〉の中の自己矛盾を露呈しています。持っているはずの信条も掴みきれず、語ろうとするとどもってしまい、〈信仰〉という言葉さえも彼の〈卑屈〉さが口に出させてはくれません。そして、〈私〉は誰もが卑屈になってしまう時勢を思います。誰もが暗い時代に不安を抱えながら生きている中、彼は一人芸術に生きる決心を固め、彼の芸術が成就する時を〈待つ〉ことを決めます。また、この〈私〉は〈太宰〉という名であり、作者である太宰治自信の投影だということができます。
 発表者は〈私〉の【芸術に生きていく決意】が最終的な帰着点としていますが、それならば〈唖の鴎は、沖をさまよい、そう思いつつ、けれども無言で、さまよいつづける。〉という最後の一文をどう読むのか。〈けれども〉という逆説の接続詞の使い方に注目して語って欲しかったという意見が上がりました。〈何も言えない、何も書けない〉と嘯きながらも饒舌に続く語りというテクストをどう捉えていくのか。太宰の巧みなトリックにだまされてはいけないということをご指摘なさった先輩もいらっしゃいます。
 先週聖書や歌詞の引用についての質疑をしたので、それが作品にどう生きるのかを分析してきて欲しかったのですが、今回の発表ではそれを聞くことができなかったのが残念です。

何はともあれ2週間お疲れ様でした。