近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

三島由紀夫「詩を書く少年」論―語り手の立ち位置―

2011-12-19 06:40:18 | Weblog
更新が非常に遅くなってしまって申し訳ございません。
おはようございます。1年の神戸です。


今回の例会(12/12)では三島由紀夫の「詩を書く少年」を2年生の石上先輩が発表してくださいました。司会は神戸が務めさせていただきました。

この「詩を書く少年」という作品は三島由紀夫の私小説的な立ち位置で語られることが多く、先行研究などでは最終的に作家論的な読みをされることが多いのですが、今回は“テクスト論的に語り手の立ち位置を中心とした論”を展開する研究発表となりました。
発表者の見解としては「少年の説明や感想において断定的に書いている」ので存在としては「語り手=少年」とする年月の流れにより思想・考えがほとんど変化した人間は同じ人間ではないということで、「語り手≠少年」という立場で研究を進めたそうです。

今発表ではまず作中に名が出てくる詩人「シラー」「ゲーテ」をそれぞれ「自然を失われたものとしてとらえて理想を表現する感傷詩人」「自然を現実のものとしてとらえる素朴詩人」として定義しました。

少年は感傷詩人寄りの詩を書きはするが、対外的な感心が薄く現実を詩の素材としてしかみられない。また自身への興味の薄さが少年を“無自覚な孤独”に陥らせていることを指摘し、そして感じる心の乏しいことによってゲーテのような本当の「詩」が生み出せないことを言及しました。(本当の「詩人」であるなら現象・事物に感動[幸福感]を得ることによって詩を生み出す)

本文(p274・3)「僕も生きてゐるのかもしれない。この考へにはぞつとするやうなものがあつた。」という部分から少年は現実世界に生きていないつもりだったことを指摘し、現実世界に生きることは感傷詩人的に理想世界に生きていた少年にとっての“死”を表し、「詩人は早く死ななくてはならない」と自身の夭折を信じていた少年は“感傷詩人としての死”を遂げたと指摘した。

また発表者は「少年のように詩をかいてはならない」と、これから詩を書く者・詩に興味がある者への警鐘を作者がならしているのではないか。またこの作品により「詩とはなにか」を読者に考えさせる作者の意図があるのではないかとも見解を示し、「この作品を日本で詩を学ぶ者にとっての入門書となりえる」とのまとめをなさいました。


また岡崎先生から「詩人を素朴詩人・感傷詩人との二分にするのではなく、本文の『詩』や『詩人』と、少年との差異を探ってみればいいのではないか」「少年の後進である語り手が語る“少年の価値観の破綻”を辿ってみるといいのではないか?」などのアドバイスを頂きました。

発表者の石上先輩は本当にお疲れ様でした。
拙い司会で申し訳ないのですが、本日も発表頑張ってください!!



本当に更新遅くて申し訳ないです<(_ _)>

1年 神戸







川端康成「抒情歌―輪廻の物語―」第2週目

2011-12-05 23:38:11 | Weblog
こんにちは、今井です。


本日の例会は「抒情歌」の発表の第2週目でした。前回は副題がまだ決まっていませんでしたが、今回は「―輪廻の物語―」という副題が付けられました。
発表者は前回と同様、藤野先輩と神戸さん、司会は今井が務めさせていただきました。

先行研究に関しましては、前回いただいたご指摘を反映し、最近の研究を引用なさっていました。そのうえで研究の傾向を分析し、今回の発表の方向性と目的を示してから、作品分析が行われました。

「母と龍枝の愛について」という項目では、龍枝の力について龍枝自身は喜んでおらず、母がその力を誇りとして喜んでいたこと、また龍枝は成人し母を慕う気持ちが強くなくなっているのに対し母は変わらぬ思いを持っており、その強すぎる執着を見せる母へ嫌悪感を抱いていたこと、同時に「あなた」に対して自分が母と同じように愛のあかしを求めてしまったことに自己嫌悪をしているのではないかと分析されていました。

「龍枝と「あなた」の愛について」という項目では、まず龍枝はいつも「あなた」への送信を行っていて、「あなた」はいつも受信者であったとされました。ただし、これは龍枝が「あなた」の魂に魂を寄り添わせることで「あなた」の魂を強制受信に近い状態においているとの言及がなされました。また「あなた」との通信が取れなくなってしまったのは、あくまで龍枝から扉を閉ざしたからであるとされていると指摘されました。
龍枝が自らを象徴抒情詩としていることについては、「多くの同じ気持ちをもつ人々の代弁を図っているとも読み取れる」ということでした。

長くなってしまいましたが、結論はまとめると以下のようなものでした。
「この作品において龍枝が語る〈愛〉とは魂での繋がり合いのことを示す。」母と幼少期の龍枝、龍枝と「あなた」は、どちらの関係も執着的な愛のあかしを求めすぎた結果、求められた側が離れていってしまうことにおいて共通しており、「ここには愛の輪廻転生の失敗がみてとれる。」構造の観点から「この物語は「輪廻より解脱」のできぬ「哀れな魂」を死者へ語りかける独白という形で、「哀れな魂」を鎮めようとしている。龍枝の独白を通して、純粋なままではいられない、人の愛の一面を象徴抒情詩として歌い上げた作品」である。

ご質問は「龍枝の自己嫌悪はどこから読み取ったのか」「いつも龍枝が送信者で「あなた」が受信者だとは言えないのではないか、手紙のことなどを踏まえると、相互に送受信がなされてはいないか」「「この香は死んでいるわ」と「強い現世の香」の「香」は意味が異なるのではないか」「匂いがよく出てくるが、匂いについてどのような考えを持っているか」「代弁のために抒情詩を書いたというのはひっかかる」「母と「私」、「私」と「あなた」を同じ位相で考えているか」「「愛の輪廻転生の失敗」とは具体的に何か、成功とはどんな状態のことを指すか」「今回の発表では神話について触れていないが、それはなぜか」「なぜ「私」の語りは信用できないのか」「作中では「抒情詩」、タイトルでは「抒情歌」となっているが、違いは何か」「呪殺説についてどう考えているか」などでした。

ご指摘としましては、「執着=愛のあかしではなく、愛のあかしを求めることにおいて執着がみられる」「母と「私」、「私」と「あなた」を同じ位相で見るべきではない」「この作品に描かれている愛以上に純粋な愛はないといえるくらいに、この愛は純粋ではないか」「神話と龍枝のエピソードに矛盾がみられ、そこに龍枝の揺れがみられる。それは「私」の語りが信用できないという根拠にもなるため、神話との関わりも分析するべきだった」「「私」の語りを信用できない根拠を挙げながら疑っていことが大切である」などがなされました。


今回の発表は、前回のご指摘を生かし「私」の語りを鵜呑みにせずに疑って分析を進めていくことに留意なさっていたようですが、ご指摘を受け発表者の方もおっしゃっていたように、疑いが足りなかったようでした。私自身、「私」の語りが疑わしいことの根拠である龍枝の語りかけの矛盾点の丁寧な考察にまだ至っておらず、もっと細部まで分析し、きちんと整理するなどしておけばよかったと反省しております。根拠を丁寧に本文に求め、論を固めていけるように頑張ります!


発表者の方々、お疲れさまでした!
次週はいしがみ先輩による「詩を書く少年」の発表の第1週目です。