近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

林芙美子「晩菊」読書会

2012-11-26 23:22:35 | Weblog
こんばんは。
本日は林芙美子「晩菊」の読書会を行いました。

いくつか論点になった箇所を挙げさせていただきます。
まず、語り方の問題です。改行が少ないことと、ほとんどがきんの一人称の語りのようでありながら田部に焦点化された語りがいくつか見られることの効果についてです。語りについては岡崎先生から、会話と心内文が明確に区別されていないのは行間を読まなくていいような仕組みになっているからで、行間にあるような男女の揺れる心理はその分語り手が分析している。また、田部が思っていることと、きんの望んでいることの差やすれ違いが強調され、更にきんの思い込みまで露になる、というご指摘がありました。

次に、きんの価値観の変化と板谷の存在についてです。最初に「男を必要とすることからの脱却が描かれているのではないか」という提示がされました。それに対する形で、きんのあり方もしくは男に求めることが田部を介して変化したのではないか。田部と会う以前からきんには変化の兆しはあった、といった意見が出されました。

続いて、最後の場面の解釈についてです。ここについては、きんの「荒々しく」という態度から、もうきんにとって田部は女としてもてなす対象ではなくなったと考えられる。また、自分の純情さをアピールするために出してきた写真を燃やしているのは、もう田部にアピールしても受け入れてもらえないと感じたためにそれを放棄したということではないか、といった解釈が出ました。

最後に、「晩菊」というタイトルについてです。遅く咲く菊。例えばなぜ、作中に出てくるバラではなく菊なのか。きんが年相応でないような派手でみっともない恰好を好まないことと、菊が地味な印象を与える花であることに関連があるのではないか、という意見が出ました。

岡崎先生からは、相手の男の対応により唯一の存在理由として保ってきた「美」の自意識が崩れていくきんの有りようや、積極的にではなく板谷に向かっていかずにはいられなくなっていくきんの変化、女流文学・終戦直後の時代背景を持つ作品としての側面をご指摘いただきました。


次週は太宰治「千代女」の研究発表一週目です。
それでは、失礼致します。

二年 今井

坂口安吾「風博士」

2012-11-20 22:59:36 | Weblog
11月19日の例会は坂口安吾「風博士」についての研究発表でした。
発表者は3年根本さん、2年今井さん、司会は1年松尾が務めさせていただきました。
今回の発表の副題は、主観的な〈僕〉による語り、です。

今回の発表では、
①信頼できない「僕」の語り
②「僕」の解釈とそこからずれるもの
という2点から分析がなされました。
①のまとめでは、「諸君」に対して「僕」が〈風博士が蛸博士のせいで自殺した〉ことを証明するために「風博士の遺書」を一読させるという方向で話が進むとしています。
また「僕」は〈風博士が蛸博士のせいで自殺した〉ことを「真理」として捉えていることが論じられました。
②のまとめでは、「僕」は恩師である風博士の紛失を目撃したあと風博士の文章を「風博士の遺書」として解釈し、
強く心を動かされ〈風博士が蛸博士のせいで自殺した〉と思い込んでしまった、ということが論じられました。
最終的な結論としては、全てが「僕」の思い込みによる空回りであるが「僕」はあくまで「真理」を信じ、それを演説のように懸命に訴えている、としています。

質問や意見では、
・「風博士の遺書」はどのタイミングで開示されるべきだったのか、またなぜ書かれたのか
・語り口調が似ていることの意味
・「僕」の語る内容と遺書の内容のズレ
・この構造を取ったことの意味や問題点、また創作意識について
など色々な質問、意見をいただきました。
岡崎先生からは、「僕」の語りだけではなく遺書の内容にも信憑性がないこと、遺書の最後の部分は風博士個人の敗北と言えるか、「僕」や風博士の語ることの面白さ、作品が書かれた背景にある近代社会の窮屈さ、などの意見をいただきました。

1年 松尾

梶井基次郎「闇の絵巻」

2012-11-19 23:03:13 | Weblog

更新が遅れて申し訳ありません。

11月12日の例会は梶井基次郎「闇の絵巻」の発表でした。
発表者は、二年神戸さん、山下さんです。
―私の描く「闇」―という副題で論じられました。

今回の発表では、「病を患う「私」と闇」と「自然を愛する私」という二つの主題に分けて本文が分析されまし
た。
「病を患う「私」と闇」では、死を身近に感じる立場にある「私」にとって闇は恐怖の対象であるが、山間の療
養地での経験によって、それに打ち勝とうなどと気負わずに向き合えば安息を得ることも情熱を抱くこともでき
ることを知ったとまとめられました。
「自然を愛する私」では、闇の中で過ごすことで都会では感じ取ることのできなかった自然を発見し、そこに魅
力を感じるとともに、近代を象徴する都会の光を嫌悪する「私」についてまとめられました。。

まとめとしては、
闇の中で闇を受け入れられるようになる過程が描かれ、そこには読者を闇に惹く力がある。
また、「私」の変化は、等しく明らかにしようという近代の価値観を否定していると読むこともできる。
と論じられました。

質問としましては、
描かれているのは変化の過程ではなく、原因と結果ではないのか。
闇の中で視覚的にも自然を感じ取れるのなら、「私」が見た何も見えない闇は物理的なものではなく、「私」の
絶望による心理的なものだったのではないか。
などがありました。

先生からは、
闇の中で見るからこそ鮮やかに見えるもの、闇の中で働く光、そこから感じる、先入観をひっくり返したことに
よるあべこべな奇妙さが痛快さとなっており、その作者の意図は、闇の中だから自由に動ける説教泥棒を冒頭に出したことにも表れている。
すべてを平坦なものにしてしまう近代へのアンチテーゼともいえる。

などのご意見をいただきました。

一年 藤田


横光利一「鳥」

2012-11-07 22:37:37 | Weblog

大変遅くなりましたが 10月22・29日発表、横光利一「鳥」の発表報告です。

発表者は2年佐藤さんと1年藤田くんです。

第一週の発表では”「私」の変化”に注目し、勝敗に拘る「私」に焦点を当て、その価値観の変化を本文をあげ、分析していきました。

論の流れとしては

リカ子を「もの」として扱い、Qへの敗北を実感する「私」であったが、Aに負けるQの姿を見ることで、負けに対する価値観が変わる。飛行機にリカ子とともに乗り込むことで、勝敗にとらわれていた過去の自分から抜け出す。

例会全体としては「語り手の時間的位置」や「リカ子やQとの関係」などへの質問が出ました。

第二週の発表では、「私」と「リカ子」「Q」との関係に着目し、再度「私」の変化を見直しました。

論の流れとしては

【「私」にとっとのリカ子】【Qへの意識の変化】【生まれ変わる「私」】という三項目から本文を分析、

リカ子の感情・自意識を軽視し、勝敗によってリカ子をやりとりする存在としてしかQをみなさない、自分と同質な価値観(勝敗によってすべてを決め付ける)で他人が動くものと思っていた「私」という存在を読み取り、

飛行機に乗り込むことで、勝敗という価値観から解き放たれ、リカ子という一人の自意識を持った「他者」を認識することに成功した。

また「鳥」は文体も特徴的である。

前半部(飛行機搭乗まで)は《段落のない文体》で描かれ、それは内面の流れを整理せずそのまま描くという手法である。後半部は一文一文が切り詰められ、この前半と後半部の文体の変化は、過去から解き放たれる期待感を表し、滑走路から飛び立つ飛行機のような加速感を感じさせると読み解いた。

岡崎先生からは

勝敗というものですべてを判断し人間的でないようにみえる「私」が、「長い間の萎びた過去」を振り切り、観念的な生き方から肉体的な生き方へ「私」が変化したという読みをおしえていただいた。

 

以上司会の神戸が書かせていただきました。