近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

10月5日『読むための理論』討論会

2015-10-27 23:43:17 | Weblog
こんばんは。
ブログの更新が遅くなってしまい申し訳ありません。
後期から新しい試みとして、理論を学ぶという活動回を作りました。
今回はその第一回として、10月5日に行われた、『読むための理論』から「象徴」の項を題材とした活動の模様をお伝えしようと思います。
発表者は2年今泉さん、1年前原さん、鷹觜さんのお三方、司会は私3年石川が務めさせていただきました。
発表者はそれぞれ「象徴」の項をまとめ、その発表を聞いた上で、聴講者も含め討論する形で会を進めました。

まず、象徴と記号の違いについて話が及びました。
発表者側からは、記号は何かと何かをイコールで繋ぐもの、つまり赤信号が「止まれ」を示すというようなもので、象徴は文化や人により違いがあり、必ずしもイコールで結ぶことのできないもの、例えば赤色が「危険」を示すというようなものだと指摘がありました。
このことに対して先生からは、記号と象徴は完全には分けられないものであり、敢えて言うなら精神的で固定されないものが象徴であって、記号よりも一段高い扱いであると説明をいただきました。

また、発表者からは、文学研究をするにあたって、象徴というのは世間一般に通用しているものと、ある作品内特有のものと区別できるのではないかという考えを挙げていただきました。
これに対して先生は、確かに一般理解だけではなく、必ずしも象徴という言葉で語られることはなくても、作品内部のみで働くことものもあるとおっしゃっていました。
以前より、研究会で象徴的な表現を扱うことを避けられる傾向がありましたが、象徴というものの理解の限定が難しいからと言って、論理的に言えること以外を無視することは、危険であるとのお話もしてくださいました。

このことから議論は、現実世界での常識を当てはめて作品の象徴を読み解くことの危険性や、作品内の象徴は現実世界では用いられないような、作品独自のものを含むということにも注意しなければならないという指摘をする流れとなりました。
先生は、作品の前提をすべて受け入れ、作品個別の象徴と見出すだけではなく、研究においては「理想的な読者」をも越え、相対化しなければならない点にも注意を払う必要があることを指摘してくださいました。
象徴は解釈の難しいところで、作家や文化によって、正反対の意味を示す恐れもあり、恣意的な解釈になってしまうこともあるので、扱う際には気を付けなければならないと総括してくださいました。

普段研究会の活動の中でも、度々「象徴」の危うさが指摘されてきましたが、改めて考えてみたことで、より深く考えることが出来たと思います。この経験を活かし、さらに読みを広げられるように頑張りましょう。


3年石川


9/28泉鏡花「外科室」読書会

2015-10-06 23:52:58 | Weblog
こんばんは。二年の眞鍋です。
平成27年度後期のテーマは「耽美派とその周辺」です。第一回目の活動となる9月28日は、「外科室」の読書会を行いました。

まず、この作品の特徴として、(上)と(下)の二部構成となっていることが指摘されました。(下)の意味を考えるにあたって、
「実は好奇心の故に」、「忘れません」など、(上)のみでは解決のつかない表現がちりばめられており、(下)によって(上)が解釈されるような仕組みになっている。
時系列を逆にすることで、あえて(下)と(上)を直結させず、あくまで読者に補完させるスタイルをとっている。
高峰が実際に夫人に恋していたか、(下)において高峰が見た銀杏は果たして夫人だったか、「予は多くを謂はざるべし」として語り手は明言を避け、空白を作り出しているにも関わらず、読者はそう読まされてしまう。
という意見が出ました。

また、「高峰」「医学士」「貴船伯爵夫人」といった呼称についても注目しました。
外科手術の場面における高峰の呼称の揺れが指摘され、
麻酔無しの手術を決意してから、医学士としてのみでなく、高峰という一人の人間としての相対が、予を通して書かれるようになる。
という意見が出た上で、
(上)の最後のクライマックスの場面にも「医学士」という二人称が出てくるのはなぜか考えなければならない。
という問題提起がありました。

夫人に関しては、なぜ名前が与えられていないかという問いが出ました。それに対し、
予は身分的にも立場的にも伯爵夫人の名前を語り得ない存在である。
当時の結婚制度において夫人はあくまで貴船家の夫人として家に縛られ、自由のきかない立場にある。「外科室」が社会小説と評される由縁でもある。
予の親友である高峰が焦点化されているため。
といった意見が出ました。

他にも、夫人の死から尊厳を守るための切腹のイメージが連想されるといった意見や、予が(上)において既に(下)の出来事を想起し関連づけて語っているか否かが読み取れないといった意見もありました。
岡崎先生からは、作品の持つエロティスムにももっと目を向けるべきとのご指摘をいただきました。
せっかくの読書会なので、研究会とはまた違った雰囲気のなかで、個人の感受性豊かな読みを交換することもできればと思いました。研究発表にしても、今期はテーマが耽美派なので、美を享受する心は忘れないようにしたいと思います。