近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

2019年6月24日 嘉村礒多「業苦」研究発表

2019-07-08 01:28:06 | Weblog
雨の日が続きますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
本日は6月24日に行われました、嘉村礒多「業苦」研究発表についてご報告します。発表者は、3年中島さん、1年橋本さん。副題はー苦しむことに余念のない圭一郎ーです。司会は2年永田が務めました。

「業苦」は昭和3年1月、雑誌「不同調」に収録され、2年後の昭和5年4月に新潮社『崖の下』に収録されました。本作は、「私小説の極北」とも評される作者、嘉村礒多の文壇登場作であります。結婚前後の嘉村の姿が、この作品を読めば分かるという評価がなされておりますが、確かにこれは作者の自伝的作品とも言えるかもしれません。作者自身も、「業苦」について、「自叙伝風のもの」と述べています(「私の処女作」(「近代生活」昭和7年2月))。

発表者からはまず、同時代評の紹介がなされました。作品が掲載された雑誌「不同調」での合評会をはじめとし、作者の主観が客観化されているとする評、批判的精神に欠けるとする評、農民的イデオロギーが根底に見られるとする評が紹介されました。実に多様な読み方がどう時代からなされていたことがわかります。
先行研究では、先に述べたように本作が作者の自伝的作品ということもあり、作家論的見地からの分析が試みられてきたようです。一方で、作家の伝記的事実と、作品内容との差異に着目し、独立した虚構として読む味方もなされました。三人称小説、ということに着目し、「業苦」の語り方に注目する論も紹介されました。そして、発表者が特に注目した論は、作風人物たちの仏教意識を分析したものでした。三好行雄の論では、作中に仏教用語が多用されているにも関わらず、いささかも宗教性が見られない、としています。そもそも題名の「業苦」というのが仏教用語であるので、本作を仏教的観点から読み解くことも、重要な要素なのかもしれません。

さて本文検討では、主人公である圭一郎の内的な姿勢と外的な姿勢の相違について、また、なぜ三人称の語りがなされているかについて述べられました。圭一郎は、現実の問題に「余念のなく苦しむ」一方で、具体的な解決のために行動に移すことはしません。自分本位な圭一郎を描く本作には、他者性が薄いということが先行研究ではなされていました。しかし、発表者は、他者が積極的に描かれてはいないかわりに、一人思い悩む自分本位な慶一郎の姿が執拗に語られることで、結果として、他者の存在が浮き彫りになる、と述べました。三人称の問題についても、この圭一郎の自分本位な性質に注目することで意見を述べています。もし「私」が「私」自身の自分本位な様子を語ってしまえば、「私」のどこか自覚的な姿を見せることになり、いまいち「私」に批判を向けることができません。この問題を三人称の語りによって解消し、圭一郎に批判を呼び込むことに成功している、とは発表者は述べました。

岡崎先生からは、先行研究にも見られたように、仏教用語が多く使われているにも関わらず、仏教的な立場からの批判がなされていないことに注目することの重要性についてご指摘がありました。仏教「用語」だけが浮き上がり、圭一郎の思索や生き方について追求されるように仕組まれている、とご指摘がありました。また、圭一郎以外の作中人物の内面が語られないことについて、例えば圭一郎の妻である咲子の立場に立って語れば様々な反論ができるにも関わらず、その内面が描かれないことで、圭一郎への突っ込みどころが満載の小説として書かれ、語り手が批判しえていないことすらも読者に提示されるような小説になっている、というご指摘もありました。発表者も述べていた「圭一郎への批判」というのが、どのような語りで、どのようになされているのか、ということは、本作を読み解く上で重要であると言えるでしょう。
また、研究会員からは、仏教用語について注釈をつけた良いのでは、という意見が出ました。注釈をつけることで読みを深めることもできる、というのは、今回の例会に限らず、岡崎先生からご指摘を受けることであります。今回の発表でも、仏教用語に注釈をつけていくことで、より一層、本作の宗教性の希薄さが読み取れるようになったかもしれません。

次回は7月8日、有島武郎「小さき者へ」研究発表です。前期の活動も残りわずかとなりました。雨にも負けず、精進してまいります。

2019年6月10日 田村俊子「木乃伊の口紅」読書会

2019-06-15 02:19:42 | Weblog
こんにちは。梅雨に入り、じめじめとした天気が続きますね。
6月10日におこなわれました、田村俊子「木乃伊の口紅」読書会のご報告をいたします。
司会は修士一年長谷川です。

田村俊子というと現代ではあまり顧みられない作家ですが、女性の享楽と自立とを描いた作家として、同時代には文壇の寵児とされました。
「木乃伊の口紅」は、大正2年4月に「中央公論」にて発表され、翌年6月に牧民社刊の同名の単行本に収録されました。
田村俊子の代表作のひとつとして数えられ、作家の実生活に取材していることから、自然主義色の強い私小説的作品とみなされています。
同時代には、夫婦の生活を精緻に描いた点が評価されていますが、理念に乏しく冗長であるとの指摘が目立ちました。
研究初期には作家の実生活と照らし合わせた論が多くあります。その後、ジェンダー論・フェミニズム的観点から論じたもの、芸術至上主義的点を論じたものなどが提出されています。
いずれも、結末部でみのるが見た夢の解釈が争点となっています。

読書会では、まず同時代に理念に乏しいとされたのはどうしてかという問題提起がなされました。これには先生から、みのるの考えにはゆらぎがあり、同時代にはそれが瑕とされたが、そのゆらぎこそむしろこの作品の読みどころなのではないかとのご助言をいただきました。フェミニズム的観点からは否定的に捉えられがちな義男ですが、みのるも完全に新しい女として描かれているわけではなく、あらゆる主義の立ち位置からは徹底しているとはいえません。むしろその混乱ぶりが描かれていることこそリアルであると先生はおっしゃいます。
そもそも新しさとは外から見た評価であり、後から付与されるものです。詳細に、ゆらぎをそのまま描くことで、貧困の中でも芸術を捨てることができず、情緒に生きる女性みのるの、固有の姿が浮かびあがってくるのではないでしょうか。

次に、演劇のエピソードが挿入されたことにどのような意味があったのかという問題提起がなされました。「演劇の方に、熱い血が通つた様な印象があるとみのるは思った」とあるように、みのるの芸術を求める姿勢にとって重要な意味があったという意見が出ました。また、みのるが自分の容姿を卑下する場面で、眼にのみ自負があるという点が、結末の木乃伊の眼と照応しているのではないかという指摘がなされました。
そこから、女木乃伊の見つめる先が義男なのか、義男を突き抜けたその先なのかについて議論がなされました。
また、木乃伊が示すものについて、ふたりの芸術の限界性を示しているのではないかとの意見が出ました。

みのるが義男から離れられないさまが示されているとされる木乃伊の夢について、自立した女となることの挫折ととるか、その離れ難さを積極的に評価していくかが議論になりました。また、ガラス箱に入ったふたりの木乃伊をみのるが外側から眺めている姿まで夢に含まれていることに留意しなくてはならないという意見も出ました。
先生からは、論理的には説明できず、当人たちにも認識できていない、みのると義男の離れ難さを評価していけば、同時代評で冗長と批判された部分も、細かく描く必要があったと考えることができるとのご意見をいただきました。
また、語りでは互いに愛情がないことが強調されていますが、作中人物の言動やエピソードから、互いへの愛情が読み取れるとの意見も出ました。

次に、みのると義男の姿は名前の他に「女」「男」と呼びなされており、「妻」「夫」という呼称はほとんど出てこないとの指摘がなされました。これには、女性性、男性性が強調されているのではないかという意見や、ふたりの関係は伝統的な家制度に見合うものではなく、固有の関係性であることを示しているのではないかという意見が出ました。

結末の後、ふたりが別れるのかどうかについては意見が分かれました。しかし、何度も離婚を持ち出しながらも別れない点や、ふたりの仲を繋ぎとめる存在として描かれるメエイを撫でる義男の描写で物語が幕を閉じることから、ふたりは結末の後も別れないのではないかという意見が優勢でした。

また、みのるの心情描写が多く描かれていますが、義男に内的焦点化し、義男の視点からみのるに鋭いメスが入れられている点に着目した意見も出ました。同時代にはみのるが作者の考えを代弁させられているとの指摘もありましたが、決して女性からの一方的な視点で終始している作品ではないことに留意していかなければなりません。
これに対し、本作をはじめ田村俊子作品は女性作者であることを殊更に強調されてきましたが、女性作者であることを意識せずに読んだ方がより広がりをもって読めるのではないかという意見も出ました。

次に、師匠のエピソードの機能について議論になりました。師から離れるのがみのるの自立の第一歩であったという意見、師匠夫婦の互いを想い合う姿がみのるに響いたという意見などが出ました。

最後に、家の裏に墓地が設定されており、墓地が繰り返し登場するという指摘がなされました。これには、木乃伊と照応すると共に、日常生活に隣接し、みのるが感情を溢れさせる場として設定されているとの意見が出ました。
また、雨の描写が多い点についても指摘がなされました。

長い作品のため、まだまだ議論の余地はあると思いますが、先行研究において否定的に捉えられていたゆらぎや矛盾を積極的に評価していけた意義深い読書会となったと思います。
次回は樋口一葉「十三夜」の読書会です。同じく女性作者による夫婦の不和を描いた作品ですので、今回の議論を生かしつつ、より発展的な議論ができればと思います。

今週末は新歓コンパです。今年も新入生が入ってくれ、嬉しい限りです。既に会に馴染み、積極的に発言してくれる頼もしい新入生たちですが、より仲を深めていきたいと思います!


2019年5月13日 谷崎潤一郎「痴人の愛」読書会

2019-06-05 19:06:39 | Weblog
あげるのを忘れて掲載が遅くなりました。大変申し訳ございません。
5月13日に行われた谷崎潤一郎「痴人の愛」の読書会報告をさせていただきます。司会は3年佐々木です。
「痴人の愛」は大正13年3月20日から6月14日まで『大阪朝日新聞』に連載し、中断後に雑誌『女性』で大正13年11月号から大正13年7月号まで掲載されました。単行本は同年7月に改造社より刊行されました。

読書会では主に奈緒美について議論が発展しました。
最初に譲治は生活の変化を求めたという目的が本文から読み取れるため、その意味で奈緒美に生活の主導権を取られたというのは譲治の目的が達成されているとみれる。特に自分の物になりきらない魅力というのは多くの読者は共感し、ナオミズムと呼ばれ流行したのではないかという意見や、ナオミはこのように生きていくことしか出来なかった、ナオミはただ譲治の欲望に従順に応え続けただけという意見、先行論でみられる西洋拝跪、白人拝跪などを踏まえこのように読める部分は日本の上面だけの西洋化に対しての批判なのではという意見なども出ました。
また「痴人の愛」という題名からエロさを感じるのは何故なのか、「痴」という漢字には愚か者などの意味しかなく、エロに関連しそうな意味はない。「痴人の愛」と聞いた時にエロをすぐ連想してしまうことが、今の「痴」にエロを連想してしまうことに繋がっているのではないかという話も出ました。

「奈緒美」は恐らくカフェで働いている時の源氏名であり本名ではない可能性があるが、この作品の中では終始ナオミであり続けた。「私」が「夫婦」を語ることが出来ると思うと思っている。物語れると思うことがナオミを下にしている暴力性を感じるという意見を先生からはいただきました。

全体としてただのSMということではなくこの時代にあって、ナオミの出自も考えてみるとナオミは生きていくために譲治に必死に応えているのではないかいう考えにも納得がいきました。
次回は5/20芥川龍之介「雛」の研究発表になります。

2019年4月22日 太宰治「桜桃」研究発表

2019-04-30 11:40:56 | Weblog
 先日、菜の花の甘い香りに誘われて朝の散歩に繰り出したのですが、肌寒かったのですぐに帰宅してしまいました。Tシャツ一枚では風邪をひいてしまいますね。
 
 さて本日は、大変遅くなってしまいましたが、4月22日に行われた太宰治「桜桃」発表についてご報告いたします。発表者は3年佐々木さん、2年榎本さんです。副題はー絶望のまなざしーです。司会は2年永田が務めました。
 
 「桜桃」は、昭和23年5月に雑誌「世界」にて発表され、同年7月に刊行された短編集『桜桃』(実業之日本社)に収録されました。太宰の自殺直前に発表された作品であり、また太宰の命日を偲ぶ「桜桃忌」の由来となっていることから、一般にもよく知られている作品です。
 本作は、発表当初は太宰の家庭が描かれた作品として読まれる傾向が強かったようです。その後平成に入ってから、「桜桃」の作品内部を読み解く傾向が強くなります。ここから、「桜桃」の実に多様な読みが提出せれるようになります。この作品は「私小説」なのか、そうでないのか。「家族」がどのように描かれているのか。「私」、「太宰」、「母」、「妻」といった人称のゆらぎをどう捉えるのか。エピグラフが小説内でどんな効果を放っているのか。作品の構造が複雑なだけに、様々な切り口で「桜桃」は論じられてきました。そのため、誰のどの論文を援用するか、どの立場で「桜桃」を読み開くか、発表者にとっては序論をまとめるところから苦労したことでしょう。それだけ「桜桃」が読み応えある作品だということでしょうか。
 
 さて本文検討では、発表者は小説内での「父」という役割に着目し、「太宰」という男は「父」という役割を果たせずにいるが、この苦しい現実に向き合う「太宰」の行為としてこの小説を読むことができるのではないかと論じました。また、意味深なエピグラフからは、苦しい現実に身を置いて「目を挙ぐ」太宰の「絶望のまなざし」を読み取ることができるとしています。

 質疑応答ではまず、小説内の「男女」、「夫婦」という関係について掘り下げがなされました。そもそもこのような単純な二項対立で考えてはいけないのではないかという考えから、男女の関係、夫婦の関係に見せかけているだけなのではないかと述べる吉岡真緒論の紹介がなされました。また、「桜桃」に度々登場する「涙の谷」という表現について、男女の関係や夫婦の関係について考える上では注意しなければいけないという意見も出ました。また、反倫理的な行動を取りながらも、観念の中では倫理的な心を持っていて苦しむ「私」をどう見るのか議論がなされました。こういった「私」の受難は、小説の語り方が助長しているのではないか。それならば、語りについて注意深く指摘するべきなのではないか、沈黙せざるを得ない現実を饒舌に語るのはどういうことなのか、といった論点が挙げられました。「桜桃」の語りに関しては岡崎先生からご指摘をいただきました。実生活者の「私」を客観化しようとする手続きの中で「父」や「母」という言葉が出てくるが、そこから逸れて「私」の弁解や言い訳が記述されてしまう中で「私」という呼称が出て来てしまう、このゆらぎが「桜桃」の読みどころであり、そのゆらぎが配置されているところに私の身勝手な倫理観とそれに見合わない私の言い訳が暴かれるように小説が書かているというご指摘をいただきました。
 小説の語りについて、家族について、今回扱った「桜桃」は論じるべきことが非常に多く、意見をまとめるのは非常に難しい作品だったように思います。それだけに、今後どのように文学作品を読み解くのかを考えるいいきっかけになる作品であるように思います。私も今回の例会では、自分の読みの浅さ、勉強不足を痛感しました。精進してまいります。

 次回は5月6日、牧野信一「父を売る子」研究発表の様子をご報告いたします。読者の皆さんが、季節の変わり目に体調を崩されませんよう願っています。



2019年4月15日 芥川龍之介「杜子春」読書会

2019-04-19 22:29:53 | Weblog
 新年度になってから数週間が経ちましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
 近研は「近代における家族」を今年度前期のテーマとして掲げ、活動を始めました。
 本日は、4月15日に行われた読書会について報告させていただきます。扱った作品は、芥川龍之介「杜子春」、司会は3年古瀬です。
 
 「杜子春」は、大正9年7月、児童文芸雑誌「赤い鳥」にて発表され、翌年3月、『夜来の花』(新潮社)に収録されました。小学校・中学校の教材として採用されることもあり、多くの人に親しまれている童話です。
 芥川自身が河西信三宛書簡(昭和2年2月3日)などで記しているように、「杜子春」は、唐の伝奇小説「杜子春伝」を下敷きにしています。「杜子春」と「杜子春伝」では、杜子春が声を発してしまう場面と、ラストシーンに大きな違いがあります。「杜子春伝」では、杜子春は女に生まれ変わり、自らの子どもが夫の手によって石に打ちつけられた時に、思わず声を発してしまいます。また、「何があっても黙っている」という仙人からの言いつけを守れなかったため、杜子春は仙人にはなれず、声を発してしまったことを悔やんだ・・・という終わり方になっています。先行研究では、芥川作「杜子春」と、原典「杜子春伝」とを比較した論が多く見られました。

 読書会ではまず、童話である(=年少読者が対象である)がゆえにテーマが分かりやすいという意見が挙がりました。確かに、「人間らしく生きる」・「肉親愛」・「平凡な生活の中にある幸せ」・・・誰もが倫理的・道徳的なテーマを容易に読み取ることができるような作品だと思います。特に、「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」という杜子春の言葉から、先述したようなことを読み取る読者が多いのではないでしょうか。
 「人間らしい」とは何か?「正直な暮し」とは何か?・・・この言葉の解釈について、多くの意見が挙がりました。例えば、「仙人にはならずに平凡な人間として生きること」・「自分自身とまっすぐに(正直に)向き合って生きていくことではないか」・・・様々な解釈がありました。
 岡崎先生からは、「人間らしい、正直な暮し」をどのように捉えるかというところに、〈読み〉の面白さがあり、明確な答えが書かれていない〈魅力的な空所〉を用意して読者に想像させる、作者の意図があるのではないか、というご意見をいただきました。
 また、仙人が、決して声を出してはいけないと杜子春に命じておきながら、最後には声を出さなかったら殺すつもりだったと言うことから、約束は破っても良いと解釈される可能性があり、児童向きではない要素もあるとのご指摘もいただきました。『夜来の花』に、大人向けの小説と一緒に収録されていることからも、子どもだけでなく、大人にも読み応えのある作品だと言えると思います。

 ほとんどの会員は、小学生の頃に授業もしくは自分で「杜子春」を読んだことがあるそうで、中には「杜子春」の劇をやった・観た経験がある会員もいました。
 今回私は、実際に児童・生徒が「杜子春」を読んだらどのような感想を持つかの参考として、「杜子春」を教材化して授業を実施した方の報告文(児玉晴子「「杜子春」を教材化して」・「広島女子大国文」第11号・平成6年9月)を紹介させていただきました。(というのも、私は国語教員志望で、「杜子春」を教材として扱うことに興味があったのです。)例えば、杜子春が贅沢な暮らしをして貧乏になってしまった場面。この場面を読んだ生徒たちは、「周りの人間が許せない派」と「杜子春の自己責任である派」に分かれ、討論を始めたそうです。教師が一義的な読み方を教えるのではなく、生徒一人一人が作品を自由に読んでいました。テクストにある言葉を根拠にして、一人一人が自由に解釈し、意見を伝え合う・・・国語(文学)教育の本来の在り方であると言えます。このような授業をすることが可能なテクスト「杜子春」は、すぐれた作品であると、先生からもご意見をいただきました。
 
 他にも、仙人のキャラクター像や、母の描写について、語り手について等の意見が挙がりました。
 童話=子ども向きと侮れず、様々な解釈の余地――岡崎先生の言葉をお借りすれば、〈魅力的な空所〉があり、読み応えのある作品でした。
 
 次回4月22日は、太宰治「桜桃」の研究発表を行います。
 新歓期間ですので、文学に興味のある方、読書が好きな方、ぜひ見学にお越しください。