近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

2019年4月22日 太宰治「桜桃」研究発表

2019-04-30 11:40:56 | Weblog
 先日、菜の花の甘い香りに誘われて朝の散歩に繰り出したのですが、肌寒かったのですぐに帰宅してしまいました。Tシャツ一枚では風邪をひいてしまいますね。
 
 さて本日は、大変遅くなってしまいましたが、4月22日に行われた太宰治「桜桃」発表についてご報告いたします。発表者は3年佐々木さん、2年榎本さんです。副題はー絶望のまなざしーです。司会は2年永田が務めました。
 
 「桜桃」は、昭和23年5月に雑誌「世界」にて発表され、同年7月に刊行された短編集『桜桃』(実業之日本社)に収録されました。太宰の自殺直前に発表された作品であり、また太宰の命日を偲ぶ「桜桃忌」の由来となっていることから、一般にもよく知られている作品です。
 本作は、発表当初は太宰の家庭が描かれた作品として読まれる傾向が強かったようです。その後平成に入ってから、「桜桃」の作品内部を読み解く傾向が強くなります。ここから、「桜桃」の実に多様な読みが提出せれるようになります。この作品は「私小説」なのか、そうでないのか。「家族」がどのように描かれているのか。「私」、「太宰」、「母」、「妻」といった人称のゆらぎをどう捉えるのか。エピグラフが小説内でどんな効果を放っているのか。作品の構造が複雑なだけに、様々な切り口で「桜桃」は論じられてきました。そのため、誰のどの論文を援用するか、どの立場で「桜桃」を読み開くか、発表者にとっては序論をまとめるところから苦労したことでしょう。それだけ「桜桃」が読み応えある作品だということでしょうか。
 
 さて本文検討では、発表者は小説内での「父」という役割に着目し、「太宰」という男は「父」という役割を果たせずにいるが、この苦しい現実に向き合う「太宰」の行為としてこの小説を読むことができるのではないかと論じました。また、意味深なエピグラフからは、苦しい現実に身を置いて「目を挙ぐ」太宰の「絶望のまなざし」を読み取ることができるとしています。

 質疑応答ではまず、小説内の「男女」、「夫婦」という関係について掘り下げがなされました。そもそもこのような単純な二項対立で考えてはいけないのではないかという考えから、男女の関係、夫婦の関係に見せかけているだけなのではないかと述べる吉岡真緒論の紹介がなされました。また、「桜桃」に度々登場する「涙の谷」という表現について、男女の関係や夫婦の関係について考える上では注意しなければいけないという意見も出ました。また、反倫理的な行動を取りながらも、観念の中では倫理的な心を持っていて苦しむ「私」をどう見るのか議論がなされました。こういった「私」の受難は、小説の語り方が助長しているのではないか。それならば、語りについて注意深く指摘するべきなのではないか、沈黙せざるを得ない現実を饒舌に語るのはどういうことなのか、といった論点が挙げられました。「桜桃」の語りに関しては岡崎先生からご指摘をいただきました。実生活者の「私」を客観化しようとする手続きの中で「父」や「母」という言葉が出てくるが、そこから逸れて「私」の弁解や言い訳が記述されてしまう中で「私」という呼称が出て来てしまう、このゆらぎが「桜桃」の読みどころであり、そのゆらぎが配置されているところに私の身勝手な倫理観とそれに見合わない私の言い訳が暴かれるように小説が書かているというご指摘をいただきました。
 小説の語りについて、家族について、今回扱った「桜桃」は論じるべきことが非常に多く、意見をまとめるのは非常に難しい作品だったように思います。それだけに、今後どのように文学作品を読み解くのかを考えるいいきっかけになる作品であるように思います。私も今回の例会では、自分の読みの浅さ、勉強不足を痛感しました。精進してまいります。

 次回は5月6日、牧野信一「父を売る子」研究発表の様子をご報告いたします。読者の皆さんが、季節の変わり目に体調を崩されませんよう願っています。



2019年4月15日 芥川龍之介「杜子春」読書会

2019-04-19 22:29:53 | Weblog
 新年度になってから数週間が経ちましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
 近研は「近代における家族」を今年度前期のテーマとして掲げ、活動を始めました。
 本日は、4月15日に行われた読書会について報告させていただきます。扱った作品は、芥川龍之介「杜子春」、司会は3年古瀬です。
 
 「杜子春」は、大正9年7月、児童文芸雑誌「赤い鳥」にて発表され、翌年3月、『夜来の花』(新潮社)に収録されました。小学校・中学校の教材として採用されることもあり、多くの人に親しまれている童話です。
 芥川自身が河西信三宛書簡(昭和2年2月3日)などで記しているように、「杜子春」は、唐の伝奇小説「杜子春伝」を下敷きにしています。「杜子春」と「杜子春伝」では、杜子春が声を発してしまう場面と、ラストシーンに大きな違いがあります。「杜子春伝」では、杜子春は女に生まれ変わり、自らの子どもが夫の手によって石に打ちつけられた時に、思わず声を発してしまいます。また、「何があっても黙っている」という仙人からの言いつけを守れなかったため、杜子春は仙人にはなれず、声を発してしまったことを悔やんだ・・・という終わり方になっています。先行研究では、芥川作「杜子春」と、原典「杜子春伝」とを比較した論が多く見られました。

 読書会ではまず、童話である(=年少読者が対象である)がゆえにテーマが分かりやすいという意見が挙がりました。確かに、「人間らしく生きる」・「肉親愛」・「平凡な生活の中にある幸せ」・・・誰もが倫理的・道徳的なテーマを容易に読み取ることができるような作品だと思います。特に、「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」という杜子春の言葉から、先述したようなことを読み取る読者が多いのではないでしょうか。
 「人間らしい」とは何か?「正直な暮し」とは何か?・・・この言葉の解釈について、多くの意見が挙がりました。例えば、「仙人にはならずに平凡な人間として生きること」・「自分自身とまっすぐに(正直に)向き合って生きていくことではないか」・・・様々な解釈がありました。
 岡崎先生からは、「人間らしい、正直な暮し」をどのように捉えるかというところに、〈読み〉の面白さがあり、明確な答えが書かれていない〈魅力的な空所〉を用意して読者に想像させる、作者の意図があるのではないか、というご意見をいただきました。
 また、仙人が、決して声を出してはいけないと杜子春に命じておきながら、最後には声を出さなかったら殺すつもりだったと言うことから、約束は破っても良いと解釈される可能性があり、児童向きではない要素もあるとのご指摘もいただきました。『夜来の花』に、大人向けの小説と一緒に収録されていることからも、子どもだけでなく、大人にも読み応えのある作品だと言えると思います。

 ほとんどの会員は、小学生の頃に授業もしくは自分で「杜子春」を読んだことがあるそうで、中には「杜子春」の劇をやった・観た経験がある会員もいました。
 今回私は、実際に児童・生徒が「杜子春」を読んだらどのような感想を持つかの参考として、「杜子春」を教材化して授業を実施した方の報告文(児玉晴子「「杜子春」を教材化して」・「広島女子大国文」第11号・平成6年9月)を紹介させていただきました。(というのも、私は国語教員志望で、「杜子春」を教材として扱うことに興味があったのです。)例えば、杜子春が贅沢な暮らしをして貧乏になってしまった場面。この場面を読んだ生徒たちは、「周りの人間が許せない派」と「杜子春の自己責任である派」に分かれ、討論を始めたそうです。教師が一義的な読み方を教えるのではなく、生徒一人一人が作品を自由に読んでいました。テクストにある言葉を根拠にして、一人一人が自由に解釈し、意見を伝え合う・・・国語(文学)教育の本来の在り方であると言えます。このような授業をすることが可能なテクスト「杜子春」は、すぐれた作品であると、先生からもご意見をいただきました。
 
 他にも、仙人のキャラクター像や、母の描写について、語り手について等の意見が挙がりました。
 童話=子ども向きと侮れず、様々な解釈の余地――岡崎先生の言葉をお借りすれば、〈魅力的な空所〉があり、読み応えのある作品でした。
 
 次回4月22日は、太宰治「桜桃」の研究発表を行います。
 新歓期間ですので、文学に興味のある方、読書が好きな方、ぜひ見学にお越しください。