先日、菜の花の甘い香りに誘われて朝の散歩に繰り出したのですが、肌寒かったのですぐに帰宅してしまいました。Tシャツ一枚では風邪をひいてしまいますね。
さて本日は、大変遅くなってしまいましたが、4月22日に行われた太宰治「桜桃」発表についてご報告いたします。発表者は3年佐々木さん、2年榎本さんです。副題はー絶望のまなざしーです。司会は2年永田が務めました。
「桜桃」は、昭和23年5月に雑誌「世界」にて発表され、同年7月に刊行された短編集『桜桃』(実業之日本社)に収録されました。太宰の自殺直前に発表された作品であり、また太宰の命日を偲ぶ「桜桃忌」の由来となっていることから、一般にもよく知られている作品です。
本作は、発表当初は太宰の家庭が描かれた作品として読まれる傾向が強かったようです。その後平成に入ってから、「桜桃」の作品内部を読み解く傾向が強くなります。ここから、「桜桃」の実に多様な読みが提出せれるようになります。この作品は「私小説」なのか、そうでないのか。「家族」がどのように描かれているのか。「私」、「太宰」、「母」、「妻」といった人称のゆらぎをどう捉えるのか。エピグラフが小説内でどんな効果を放っているのか。作品の構造が複雑なだけに、様々な切り口で「桜桃」は論じられてきました。そのため、誰のどの論文を援用するか、どの立場で「桜桃」を読み開くか、発表者にとっては序論をまとめるところから苦労したことでしょう。それだけ「桜桃」が読み応えある作品だということでしょうか。
さて本文検討では、発表者は小説内での「父」という役割に着目し、「太宰」という男は「父」という役割を果たせずにいるが、この苦しい現実に向き合う「太宰」の行為としてこの小説を読むことができるのではないかと論じました。また、意味深なエピグラフからは、苦しい現実に身を置いて「目を挙ぐ」太宰の「絶望のまなざし」を読み取ることができるとしています。
質疑応答ではまず、小説内の「男女」、「夫婦」という関係について掘り下げがなされました。そもそもこのような単純な二項対立で考えてはいけないのではないかという考えから、男女の関係、夫婦の関係に見せかけているだけなのではないかと述べる吉岡真緒論の紹介がなされました。また、「桜桃」に度々登場する「涙の谷」という表現について、男女の関係や夫婦の関係について考える上では注意しなければいけないという意見も出ました。また、反倫理的な行動を取りながらも、観念の中では倫理的な心を持っていて苦しむ「私」をどう見るのか議論がなされました。こういった「私」の受難は、小説の語り方が助長しているのではないか。それならば、語りについて注意深く指摘するべきなのではないか、沈黙せざるを得ない現実を饒舌に語るのはどういうことなのか、といった論点が挙げられました。「桜桃」の語りに関しては岡崎先生からご指摘をいただきました。実生活者の「私」を客観化しようとする手続きの中で「父」や「母」という言葉が出てくるが、そこから逸れて「私」の弁解や言い訳が記述されてしまう中で「私」という呼称が出て来てしまう、このゆらぎが「桜桃」の読みどころであり、そのゆらぎが配置されているところに私の身勝手な倫理観とそれに見合わない私の言い訳が暴かれるように小説が書かているというご指摘をいただきました。
小説の語りについて、家族について、今回扱った「桜桃」は論じるべきことが非常に多く、意見をまとめるのは非常に難しい作品だったように思います。それだけに、今後どのように文学作品を読み解くのかを考えるいいきっかけになる作品であるように思います。私も今回の例会では、自分の読みの浅さ、勉強不足を痛感しました。精進してまいります。
次回は5月6日、牧野信一「父を売る子」研究発表の様子をご報告いたします。読者の皆さんが、季節の変わり目に体調を崩されませんよう願っています。
さて本日は、大変遅くなってしまいましたが、4月22日に行われた太宰治「桜桃」発表についてご報告いたします。発表者は3年佐々木さん、2年榎本さんです。副題はー絶望のまなざしーです。司会は2年永田が務めました。
「桜桃」は、昭和23年5月に雑誌「世界」にて発表され、同年7月に刊行された短編集『桜桃』(実業之日本社)に収録されました。太宰の自殺直前に発表された作品であり、また太宰の命日を偲ぶ「桜桃忌」の由来となっていることから、一般にもよく知られている作品です。
本作は、発表当初は太宰の家庭が描かれた作品として読まれる傾向が強かったようです。その後平成に入ってから、「桜桃」の作品内部を読み解く傾向が強くなります。ここから、「桜桃」の実に多様な読みが提出せれるようになります。この作品は「私小説」なのか、そうでないのか。「家族」がどのように描かれているのか。「私」、「太宰」、「母」、「妻」といった人称のゆらぎをどう捉えるのか。エピグラフが小説内でどんな効果を放っているのか。作品の構造が複雑なだけに、様々な切り口で「桜桃」は論じられてきました。そのため、誰のどの論文を援用するか、どの立場で「桜桃」を読み開くか、発表者にとっては序論をまとめるところから苦労したことでしょう。それだけ「桜桃」が読み応えある作品だということでしょうか。
さて本文検討では、発表者は小説内での「父」という役割に着目し、「太宰」という男は「父」という役割を果たせずにいるが、この苦しい現実に向き合う「太宰」の行為としてこの小説を読むことができるのではないかと論じました。また、意味深なエピグラフからは、苦しい現実に身を置いて「目を挙ぐ」太宰の「絶望のまなざし」を読み取ることができるとしています。
質疑応答ではまず、小説内の「男女」、「夫婦」という関係について掘り下げがなされました。そもそもこのような単純な二項対立で考えてはいけないのではないかという考えから、男女の関係、夫婦の関係に見せかけているだけなのではないかと述べる吉岡真緒論の紹介がなされました。また、「桜桃」に度々登場する「涙の谷」という表現について、男女の関係や夫婦の関係について考える上では注意しなければいけないという意見も出ました。また、反倫理的な行動を取りながらも、観念の中では倫理的な心を持っていて苦しむ「私」をどう見るのか議論がなされました。こういった「私」の受難は、小説の語り方が助長しているのではないか。それならば、語りについて注意深く指摘するべきなのではないか、沈黙せざるを得ない現実を饒舌に語るのはどういうことなのか、といった論点が挙げられました。「桜桃」の語りに関しては岡崎先生からご指摘をいただきました。実生活者の「私」を客観化しようとする手続きの中で「父」や「母」という言葉が出てくるが、そこから逸れて「私」の弁解や言い訳が記述されてしまう中で「私」という呼称が出て来てしまう、このゆらぎが「桜桃」の読みどころであり、そのゆらぎが配置されているところに私の身勝手な倫理観とそれに見合わない私の言い訳が暴かれるように小説が書かているというご指摘をいただきました。
小説の語りについて、家族について、今回扱った「桜桃」は論じるべきことが非常に多く、意見をまとめるのは非常に難しい作品だったように思います。それだけに、今後どのように文学作品を読み解くのかを考えるいいきっかけになる作品であるように思います。私も今回の例会では、自分の読みの浅さ、勉強不足を痛感しました。精進してまいります。
次回は5月6日、牧野信一「父を売る子」研究発表の様子をご報告いたします。読者の皆さんが、季節の変わり目に体調を崩されませんよう願っています。